バクラウ © Pamela Parlapiano |
南米の大国ブラジルは、日本との時差が11〜12時間。つまり日本から見て、地球の裏側にあたる国です。日本からサンパウロあるいはリオデジャネイロまで飛ぶと、途中一都市を経由して25時間かかります。文字通り遠い国です。人口は日本を上回る1億7,200万人。国土は日本の23倍近く、大河アマゾンがその大地を東西に流れています。熱帯雨林や、豊富な天然資源に恵まれているほか、中南米一の工業国で、自動車や航空機の生産でも知られています。GDP(国内総生産)国民一人当たり2583ドルといえばアジアのタイ国とマレーシアの中間程度、決して貧しい国ではないはずですが、この国もまたさまざまな人種構成、内陸と沿岸、都市と農村などに見られる著しい社会的・地域的格差が問題解決に深い影を落しています。
まだ訪れる機会のない遠い国ブラジルですが、ハンセン病がまだ「制圧」に至っていない国として、この国の動向には注目しています。※1 その一方で、ブラジルの患者・回復者の問題に挑戦する印象的な二人の人物には、ブラジルの外で出会いました。その一人は、ブラジルの患者・回復者による社会復帰運動「モーハン」の創設者、フランシスコ・ヌーネス氏、通称バクラウで、今一人は、ブラジルの西南に隣接するボリビアとの国境に近い街で、カウンセラーとして患者・回復者とその家族を支えている39才の女性、ジルダ・ボルジェスさんです。残念ながらバクラウは1997年1月12日58才11ヶ月でこの世を去りました。
バクラウは1939年12月9日、ブラジル北西部のアマゾナス州に生まれました。6才の時に発病したため学校に行く機会を逸したと言います。当時ブラジルはまだ隔離政策の撤廃には至っていなかったので、14才の時、隣接するロンドニア州のポルトヴェロー療養所に収容され、後に最西部アクレ州の療養所に移ります。ブラジルでは1956年にハンセン病対策が改正され、外来治療が主流となって行きましたが、療養所に収容された人達の社会復帰に至るまでには、まだまだ多くの時間がかかったのです。※2 バクラウは通算21年間を療養所で過ごしたのです。
『21年という年月を3ヶ所の療養所で過ごし、何十人という医者や職員に出会った。しかし彼らは私を‘菌’としか見ていなかった。私のところにやってきても、彼らは私という人間を見ていたのではなく、私の中にあの大事な‘菌’がいるかどうか、にしか関心がなかった。屈辱的だ。』
独力で勉強したバクラウは、療養所を出たあと小学校の教師になり、2冊の本を書き、詩を作り、歌を作りました。1981年、車椅子から自力歩行を目指して足の手術のためにサンパウロの病院に入院していた彼に、障害者運動への誘いがありました。この年はちょうど国連の国際障害者年だったのです。かれは60の団体からなる全国障害者連盟の執行委員となり、同年6月1日にはハンセン病患者・回復者を中心とする社会復帰運動「モーハン」を立ち上げるに至ったのです。※3 さらに彼はモーハンの活動を通して、回復者として初めて政府のハンセン病対策委員会の専門委員となります。モーハンは大半がボランティアによる組織ですが、全国の各州、市に組織を広げ、ブラジル連邦共和国政府の保健政策会議のメンバーとしての場を得るに至るのです。
バクラウ夫人のTerenziha da Silva(テランジーハ・ダシルバ)さんが、亡きバクラウの姿と言葉を伝えるパネルの前で。 © Pamela Parlapiano |
バクラウは生涯に2度、いずれも回復者の女性と結婚しています。21年の療養所生活を後にして小学校の教師となった彼は、2度目の妻テレジナと一緒に25人の子どもを育てました。25人の内3人はテレジナの連れ子で、残りの22人はバクラウが親代わりとなって療養所の「予防センター」から引き取った子ども達でした。ブラジルでは隔離政策の時代、患者の子ども達は両親から離れ「予防センター」と呼ばれる施設で生活することになっていたのです。バクラウが親代わりになって育てた子ども達のほとんどは、発病することなく成長し、社会の中で生きています。
私がバクラウにはじめて会ったのは1993年8月、フロリダ州オーランド市で開かれた第13回国際ハンセン病学会でした。学会の歴史で初めて、回復者の参加による分科会「ハンセン病対策の送り手と受け手」があり、日本・韓国・インド・アメリカなどから25人の回復者が参加したのです。言葉の違いからバクラウとは直接話をすることはできませんでしたが、松葉杖で歩く彼の鋭い視線が印象に残っています。この時の「レパー・屈折したアイデンティティ」と題する報告の中に、彼の思想を表すいくつもの言葉があります。とくに新しくハンセン病の新発生がまだまだ多いこの国で、回復者の立場からハンセン病対策活動の一翼を担う彼としてのメッセージでした。
「ハンセン病に‘感染する’ということは単に末梢神経を侵されるというだけではなく、別の自分に‘感染する’ということで、この方がもっとたちが悪い。自己の喪失には治療薬がない。」
「ハンセン病の治療は、‘菌’の有無を追跡することに終始するべきではない。どう考えても‘菌’がその宿主である人間より大切だということはありえない。」
「治療をする側が受ける側の頭脳をまったく無視している状況は驚くべきものだ。教育を受けていないということと‘無知’は別物だ。治療を受ける側の参加なくして治療は成り立たない。」
「一般社会に対する啓発活動を伴わないハンセン病対策は不完全であり、一時凌ぎに過ぎず、効果はない。」
「‘ハンセン病は治る’―― これは20世紀のもっとも重要なニュースの一つだ。我々の世代にはハンセン病を制圧する責任がある。 我々を苦しめたこの病気を未来の世代に引き継いではならない。歴史に対して負い目を負うことになる。」
モーハンを通じて社会を啓発することは、回復者としての彼の自己実現であり、自らの身体をはって社会の前面に立ったのです。この学会の翌年(1994年)バクラウとモーハンの支援で、世界の回復者ネットワーク「アイディア」――共生・尊厳・経済的向上のための国際組織――がサンパウロ市近郊のペトロポリスで生まれました。バクラウは3人の会長の一人「社会啓発担当会長」に選出されました。
1996年4月、中国のハンセン病快復者村を訪ねた時のバクラウ © Pamela Parlapiano / IDEA 1996 |
バクラウに2度目に会ったのは、1996年3月の末でした。中国南部の広州市で、中国のアイディア「漢達康福協会―ハンダ」の設立を記念する国際集会の時です。すでに悪性脳腫瘍に侵されていたバクラウは、抗がん剤の影響でしょうか頭髪も薄くなり、自力歩行は出来なくなっていましたが、車椅子で38時間という長時間の飛行を乗り越えて中国にやってきました。同行して通訳も努めたエドゥアルド・ラベリョ医師の介助で痛みを抑えながら広東省の療養所を訪ね交流の輪に加わり多くの感動を残しました。すでに自分の命の限界を知っていたに違いないバクラウですが、周囲に苦痛を感じさせることなく、中国、韓国、日本、インドの仲間たちと中国料理のテーブルを囲み、不自由な手で箸に挑戦して、皆を笑わせました。なかでも忘れられないのは最後のお別れパーティで、車椅子でマイクを握り、やわらかく心に染みとおるような声で「聖夜」を歌ったバクラウの姿です。会場のみなは声もなく聞き入りました。バクラウが歌い終わると次ぎの瞬間、みなが歌い始めたのです。いろんな国の言葉が交じり合った「聖夜」の合唱が車椅子のバクラウを囲んで流れ、みなの心をつないで行きました。バクラウは生涯にいくつもの歌を作詞作曲しています。そのうちの8曲はテープに保存されているといいます。3曲は子供たちのために、3曲は妻のために、1曲は療養所での淋しさを歌ったもの、1曲は「微笑みが人を美しくする」というものだといいます。出来ればCDにして、聞かせて欲しいものです。
1981年バクラウと共にモーハンを設立し、ともに啓発活動を続けたトム・フリスト氏※4 はバクラウを追悼して次ぎの様に記しています。
「バクラウを偲ぶとき、彼の謙譲と美しさにうたれる。ゴム農園の労働者として、貧困とハンセン病の偏見にさらされ、隔離と重い障害を強靭な信念で乗り越えたバクラウ。数々の苦難は彼をたたき上げこそすれ、打ちのめす事はなかった。苦しみを通じて彼は成長し、他人に対する感性を身につけていった。苦しみに遭遇すると敵対的になったり内向的になったりする人もある中で、バクラウは一層深く他に関わり、他を思う心を深めて行った。小学校の教師になり、2冊の本を著し、新聞の編集者となり、詩人であり、作曲家であり、歌手であり、父親でもあった豊かな人生を創ったバクラウ。君は良くやったよ。すばらしい遺産をありがとう。僕は君の友人であることを心 から誇りに思う。」
「病気自体より病気にともなう偏見の方が悪質だ。われわれはフランシスコ,マリア, ジョーなど固有の名前を失って、らい患者やレパ−とよばれ、最近ではハンセン病者などと呼ばれる。我々にとってとって最大の挑戦は、自らの固有の人格を喪失した何百万人という人々が、固有の名前で呼ばれるようになることだ。」
バクラウがその生涯をかけて願ったのは、偏見と差別のない世界、そして何よりもハンセン病患者・回復者の一人一人の人間としての尊厳の回復と確立でした。
「われわれはこの地球の違法住民じゃないのだ。我々を代表する声が必要だ。」
彼が誰よりも強く代弁したその声は、彼の言葉どおり世界中の人々によって受け継がれています。世界の各地でバクラウの願いを自らのものとして、「夢」の実現に向けて努力する人々がいます。
「一人で見た夢は、夢に終わる。しかしこの夢を仲間とみんなで分かちあえば、その夢はきっと実現する」
ブラジルの南西部、南マトグロッソ州のボリビア国境に近い街コルンバで、大学の心理学課程最終学年に在学しながら地域のハンセン病患者・家族のカウンセリングをしているジルダ(39才)にとってバクラウは大きな存在でした。24才の時ハンセン病と診断され、周囲の無理解に苦しんだ経験からモーハンを知り、活動に参加していったジルダ。バクラウには会いたいと願っていましたが、機会は無く、電話で4度話し会っただけだといいます。ジルダはバクラウたち先達者の思いを継いで、だれよりも当事者の心を理解できる専門家として患者さんや家族に寄り添って支え、困難を乗り越える道連れになる活動を続けています。ジルダについては、いずれ改めて紹介したいと思います。
参考資料:ハンセン病年次報告2003(WHO)、ニュースレター(アイディア)、ブラジルのハンセン病(オズワルドクルツ財団・UFRJ)
[山口和子(笹川記念保健協力財団)、2004年、原典:「青松」]