モグネット ホーム インフォメーション お問い合わせ サイトマップ
ニュース ハンセン病 イベント&ワークキャンプ 茂木新聞社
ホーム  >  ハンセン病  >  ひとびと  >  

出会い(3)クリヨン島の人々

クリヨン島
© Yamaguchi Kazuko 2003
いつかは訪れてみたいと願っていたクリヨン島訪問が思いがけず実現しました。昨年11月、笹川陽平日本財団理事長のフィリピン訪問に一部同行し、週末を利用して理事長他の方々と1泊2日でクリヨン島を訪問しました。かつての隔離政策と長年にわたる宗教者の活動が顕著なフィリピンには、各地にハンセン病療養所がありました。中でもクリヨンは文字通り隔離を象徴する「島」であることと、フィリピン全土から患者さんたちを集めたというそのスケールで、世界のハンセン病の歴史の中でも特異な位置をしめているところです。くわえて、1923年ヨーロッパでの国際会議の帰途クリヨン島を訪れた光田健輔氏が「マニラから海上300カイリ離れたキュリオン島に、6000人の患者が隔離されていた。このキュリオン島での見聞は、のちに私の『長島愛生園』の建設に大きなヒントを与えたものである」と記したこの島には、機会があれば行ってみたいと願っていました。光田氏のころはマニラから二昼夜かかったクリヨンへの道も今日では半日の行程でした。

クリヨン島はマニラの南西約320キロ、パラワン島の北端に位置するカラミアネス群島の一つで、南北30km、東西18km、面積約390平方kmの変形の大きな島です。マニラから19人乗りのターボプロップ機で1時間、ブスアンガ島につきます。空港は島の東端にあるので、陸路28km、西端にあるコロンの港まで車で40分。コロン港から緑の島々が点在する美しい内海をアウトリガーの船で行くこと約1時間、正面の小高い丘の中腹に、鷲と蛇のマークのフィリピン政府保健省の紋章(?)を大きく白くはめ込んだ島が見えてきます。クリヨン島です。沿岸には色とりどりの屋根が見え、遠くから見ると活気ある海辺の街といった感じでした。

ハンセン病専門の隔離施設としてのクリヨン島の歴史は、1906年5月27日午後4時、セブ島から370人の患者さんを乗せた船が到着したときから始まりました。1898年スペインに変わってフィリピンの占領者となったアメリカ軍政府は、天然痘やコレラなど多くの病気に直面することになりました。ハンセン病もその一つでした。当時すでにハワイのモロカイ島に開設されていたカラウパパ療養所というモデルがあり、隔離によるハンセン病対策が考えられるのに時間はかかりませんでした。占領から間もなくの1901年、船の接岸の条件、水源の有無などを考慮してクリヨン島を隔離の地と決定し、1902年には当時の金で50,000ドルの予算が計上され、1904年8月には行政命令第35号により正式にLeper Colony (らい者の居住地)とされたのです。

クリヨン療養所100年の歴史はフィリピンと世界のハンセン病の歴史に大きな足跡を残しています。初期には「絶望の島」「生ける死者の地」といわれた過酷な状況の中で、また太平洋戦争中は日本海軍との戦場となったこの地で、32,000人以上の人々が命の足跡を残しました。記録に残る年間最大人口は1935年の6,928人。開設まもない1910年の新規入所者は1,603人。これに対し、この年の死亡者は1,221人。戦慄を覚える数字が残されています。しかし同時に1906年から1980年までの75年間に4,081人の出生が記録されているのです。1910年には島内での結婚が認められ、さらに1916年には島内に保育施設が出来、子どもたちは親元を離れて施設に移されましたが、親達は保育所を訪ね、ガラス戸越しに子ども達に対面した、と記録されています。

今日クリヨン島の人口は約16,000人、1995年には療養所の島から独立した一地方自治体(クリヨン ミュニシパリティ)となり、かつての患者さんたちの子孫と施設関係者の子孫が混ざり合ったコミュニティとなっています。かつて「汚染地帯」と「清潔地帯」を分けていた検問所も、かつての詰所の跡と「歓迎」と記されたアーチを残すのみで、医療棟は療養所兼総合病院となり、小さな島の多いこの地方の医療の中心となろうとしています。島内には中/高校が私立・公立各1校、小学校が19校、生徒数は3,000人近くに達します。※1

クリヨンバンド
© Tominaga Natsuko 2003

クリヨン島の人々のことを書くのに前書きだけで紙数が一杯になりました。今回の1泊2日の訪問でも、何人かの印象的に残る人々との出会いがありました。伝統ある「クリヨンバンド」のリーダーのドミナドール・エンポックさん。バンドメンバーが高齢化し、次世代に引き継ぐために楽器を援助してほしいと訴えていました。島内教会のモーセス カプリ牧師も温厚なリーダーの一人です。現クリヨン ハンセン病者協会(ACHI)会長のクレセンシアノ・ロセロ氏はマニラで教育を受け、クリヨン療養所内の小学校校長を勤め、校長連盟の会長で、なかなかの文筆家です。また音楽性豊かなフィリピンの人々のことですから、島内にはギター、ハモニカなどの優れた演奏家や歌手もたくさんいます。

ヒラリオン・グイア氏(初代クリヨン市長)
© Tominaga Natsuko 2003
今回出会った方々の中から、一人だけあげるとすれば、やはりヒラリオン・グイア氏でしょうか。両親と死別して、8才でこの島に送られたグイア氏は現在60才。黒々とした髪も若々しく、背筋をピンと延ばし、長年にわたりクリヨン療養所自治会の役員や教師をつとめたことをうなづかせる風貌でした。1995年5月、新しく発足したクリヨン市の市長選に立候補して見事に市長の座を勝取った初代クリヨン市長です。グイア氏は「この島でハンセン病回復者の尊厳を確立するためには、初代市長は回復者自らが立候補し戦いとるべきだと考えたのです。」と語ってくれました。クリヨン島は過去のイメージを絶ちきって新しいクリヨンを目指して行こうとしているように見えます。しかし、島の中では「Leper―レパー」という、英語の世界では「禁句」となったはずの差別表現が、驚くほど抵抗なく聞かれます。現地語で「無菌地帯」と同義語の「バララ」という表現も、「バララ地区」「バララ小学校」などなど、日常的に使われていることに外からの訪問者としてはむしろ驚かされました。島の住民はすでに世代交代がすすみ、言葉は残っても、もはや実態はなっている、というようなことが果たしてありうるだろうか短時日の訪問ではこの疑問に答えを見つけることは出来ませんでした。

クリヨンで生まれ、ハンセン病専門医となったクナナン先生
しかしクリヨンの人々の全てが、過去の歴史を消し去ろうとしているのではありません。この島に病を得て生きた人も、医療と介護と研究に生きた人々も含めて、歴史を保存しようという動きがあります。島内の一角に1920年に建設された2階建てのレオナルド ウッド記念研究棟が残されています。スペインやフィリピンの民間団体の支援を受けて、100年近いクリヨン療養所と人々の歴史を残す試みが始まり、1997年に小規模のクリヨン資料館/博物館として開館されました。しかし資金が続かないため、現状では貴重な資料の数々が適切な保存対策をされないままに置かれている状態に、こころ痛む思いでした。

現在の療養所の若き主任医師アルトゥーロ クナナン先生のことにふれる余裕がなくなりました。クリヨン島で生まれ育ってハンセン病専門医となったクナナン先生にとって、クリヨンの歴史は自らと家族の歴史であり、クリヨンのより良い未来を願うこころは誰よりも強く深いものがあります。次の機会には、ぜひクナナン先生のことをお知らせしたいと思います。

1泊2日、24時間に満たないクリヨン島滞在でしたが、深く考えさせられた出会いの数々でした。※2※3

  1. 学校教育に政府からの財政補助が十分とどかないので、教師が教科書や参考書をガリ版印刷して補っているのが現状。そのための手動タイプライターと輪転印刷機の要請がありました。日本の某療養所の入所者の寄付で、体育用のバレーボール30個と共に、寄贈しました。
  2. 参照文献 (1)光田健輔「愛生園日記」1958年毎日新聞社刊 (2)「クリヨン島 らい者の島―癒しへの100年の旅」アネスヴァド財団2003年刊 (3)「クリヨン再訪−過ぎ去った日々への旅」アルトゥーロ クナナン(未刊)
  3. 島内の学校整備、子供たちへの奨学金、歴史的記録/事物の保存、居住者による記録作製など、クリヨンはいろいろな支援を必要としています。
モグネット https://mognet.org