クリヨン島 © Yamaguchi Kazuko 2003 |
クリヨン島はマニラの南西約320キロ、パラワン島の北端に位置するカラミアネス群島の一つで、南北30km、東西18km、面積約390平方kmの変形の大きな島です。マニラから19人乗りのターボプロップ機で1時間、ブスアンガ島につきます。空港は島の東端にあるので、陸路28km、西端にあるコロンの港まで車で40分。コロン港から緑の島々が点在する美しい内海をアウトリガーの船で行くこと約1時間、正面の小高い丘の中腹に、鷲と蛇のマークのフィリピン政府保健省の紋章(?)を大きく白くはめ込んだ島が見えてきます。クリヨン島です。沿岸には色とりどりの屋根が見え、遠くから見ると活気ある海辺の街といった感じでした。
ハンセン病専門の隔離施設としてのクリヨン島の歴史は、1906年5月27日午後4時、セブ島から370人の患者さんを乗せた船が到着したときから始まりました。1898年スペインに変わってフィリピンの占領者となったアメリカ軍政府は、天然痘やコレラなど多くの病気に直面することになりました。ハンセン病もその一つでした。当時すでにハワイのモロカイ島に開設されていたカラウパパ療養所というモデルがあり、隔離によるハンセン病対策が考えられるのに時間はかかりませんでした。占領から間もなくの1901年、船の接岸の条件、水源の有無などを考慮してクリヨン島を隔離の地と決定し、1902年には当時の金で50,000ドルの予算が計上され、1904年8月には行政命令第35号により正式にLeper Colony (らい者の居住地)とされたのです。
クリヨン療養所100年の歴史はフィリピンと世界のハンセン病の歴史に大きな足跡を残しています。初期には「絶望の島」「生ける死者の地」といわれた過酷な状況の中で、また太平洋戦争中は日本海軍との戦場となったこの地で、32,000人以上の人々が命の足跡を残しました。記録に残る年間最大人口は1935年の6,928人。開設まもない1910年の新規入所者は1,603人。これに対し、この年の死亡者は1,221人。戦慄を覚える数字が残されています。しかし同時に1906年から1980年までの75年間に4,081人の出生が記録されているのです。1910年には島内での結婚が認められ、さらに1916年には島内に保育施設が出来、子どもたちは親元を離れて施設に移されましたが、親達は保育所を訪ね、ガラス戸越しに子ども達に対面した、と記録されています。
今日クリヨン島の人口は約16,000人、1995年には療養所の島から独立した一地方自治体(クリヨン ミュニシパリティ)となり、かつての患者さんたちの子孫と施設関係者の子孫が混ざり合ったコミュニティとなっています。かつて「汚染地帯」と「清潔地帯」を分けていた検問所も、かつての詰所の跡と「歓迎」と記されたアーチを残すのみで、医療棟は療養所兼総合病院となり、小さな島の多いこの地方の医療の中心となろうとしています。島内には中/高校が私立・公立各1校、小学校が19校、生徒数は3,000人近くに達します。※1
クリヨンバンド © Tominaga Natsuko 2003 |
クリヨン島の人々のことを書くのに前書きだけで紙数が一杯になりました。今回の1泊2日の訪問でも、何人かの印象的に残る人々との出会いがありました。伝統ある「クリヨンバンド」のリーダーのドミナドール・エンポックさん。バンドメンバーが高齢化し、次世代に引き継ぐために楽器を援助してほしいと訴えていました。島内教会のモーセス カプリ牧師も温厚なリーダーの一人です。現クリヨン ハンセン病者協会(ACHI)会長のクレセンシアノ・ロセロ氏はマニラで教育を受け、クリヨン療養所内の小学校校長を勤め、校長連盟の会長で、なかなかの文筆家です。また音楽性豊かなフィリピンの人々のことですから、島内にはギター、ハモニカなどの優れた演奏家や歌手もたくさんいます。
ヒラリオン・グイア氏(初代クリヨン市長) © Tominaga Natsuko 2003 |
クリヨンで生まれ、ハンセン病専門医となったクナナン先生 |
現在の療養所の若き主任医師アルトゥーロ クナナン先生のことにふれる余裕がなくなりました。クリヨン島で生まれ育ってハンセン病専門医となったクナナン先生にとって、クリヨンの歴史は自らと家族の歴史であり、クリヨンのより良い未来を願うこころは誰よりも強く深いものがあります。次の機会には、ぜひクナナン先生のことをお知らせしたいと思います。
1泊2日、24時間に満たないクリヨン島滞在でしたが、深く考えさせられた出会いの数々でした。※2※3
[山口和子(笹川記念保健協力財団)、2003年、原典:「青松」]