モグネット ホーム インフォメーション お問い合わせ サイトマップ
ニュース ハンセン病 イベント&ワークキャンプ 茂木新聞社
ホーム  >  ハンセン病  >  ひとびと  >  

出会い(1)ベティー・マーティンさん

ベティー・マーティンさん
アメリカ・ルイジアナ州
カーヴィル療養所にて
1999年3月、写真:八重樫信之
© Nobuyuki Yaegashi 1999

ハンセン病をめぐる出会いの数々を、思い出すままに書かせていただこうと思っています。時も場所も前後しますし、人ばかりでなくあらゆる出会いをお伝えしたいと考えています。ハンセン病にかかわる仕事に携わるようになって20年あまり、教えられることの多い年月でした。

2002年6月9日午前10時過ぎ、ルイジアナ州バトンルージュの聖アグネス教会は、南国らしい強い太陽の下で地面にくっきり影を落としていました。その日私は合衆国カービル療養所(療養所としてはすでに閉鎖)を職員のタニア トマシーさんの案内で再訪することになっていました。今回は平沢保治さん夫妻と一緒でした。タニアさんは私に会うなり、「今日、ベティ マーティンの葬儀があるのよ」と私を驚かせました。実は今回のバトンルージュ訪問で、ベティマーティンさんにもう一度会えるかもしれないとひそかに期待していたのですが、まさかその日が彼女の葬儀の当日になろうとは思いもかけないことでした。

葬儀は午後からであったのでしょう、私達が教会に着いたとき司祭のガーランド神父もちょうど着かれ、一緒に側面入口から教会堂の中に入りました。誰もいない礼拝堂の祭壇の前の台に横たえられた小さな柩。私は息を呑む思いでした。まさか、あのベティーマーティンさんの永遠の旅立ちの時にこの地を訪れることになろうとは。柩の蓋は開けられており、あの端正な顔立ちそのままに永遠の眠りについたベティ-さんがそこにいました。4年ほど前にカービルを訪れたときに垣間見た彼女は、きちんと化粧をした端正な顔立ちで、白い小花模様のドレスを着て車椅子に乗っていました。鮮やかな口紅の色とイヤリングが印象的な、一寸気難しげな老女でした。今柩の中に眠る彼女もその時の印象そのままに、輪郭のはっきりした顔立ちで、胸の上に組まれた指には青い石を並べた四角い指輪がありました。細い指と大きめの指輪が印象に残っています。

ベティーさんへの最後のお別れの思いにふけっているとき、教会の正面入り口から入ってきた人達がありました。ベティーさんの最愛の伴侶であり、1996年にカービルで亡くなったハリー マーティンさんのお兄さんとその家族で、ベティーさんの柩の傍らに立っている東洋人たちを不思議がる風もなく近づいてきて、タニヤさんの説明に「良く来てくれました。ベティーとハリーのことはご存知ですか?」と問われました。「『カービルの奇蹟』を読みました」と伝えると「あの続編も読みましたか?」と問われました。ベティーさんの第2作「誰も知ってはならないこと」も読んでいましたので、そのように伝えました。お兄さんがベティーさんの2部作を最近復刻出版されたことは後で知りました。

旧カービル療養所の訪問を終えたのち、カービルの居住者の何人かが移り住むサミット病院の一棟を訪ねました。治療・リハビリ室と同じフロアに廊下を真中にはさんで両側に個室が並び、その一角に小さな集会室がありました。サミット病院に移ったカービルの居住者の日常の写真が数多く飾られており、ルイジアナのお祭りの扮装のベティーさんなど、カービル時代の仲間と過ごした最後の日々がそこにありました。

治療室に最も近いところにあった彼女の居室は、ドアの外側に茶色のガムテープが斜め十文字に貼られており、主の不在をぶしつけに告げていたのは忘れられない光景でした。その部屋の名札は、ベティーマーティンではなく、エドウィナ マイヤー(結婚後の本名)とありました。ベティーマーティンさんは、最晩年になって、本名で生きることを選択されたと聞きました。享年94才でした。

付記:

ベティ-マーティンさんが1950年に出版した”Miracle at Carville” は驚くべきことに1951年6月には「カーヴィルの奇蹟」と題して文芸春秋新社から翻訳出版されています。去る4月に東京でお目にかかった柴田良平さんから、「療養所で読んだ『カーヴィルの奇蹟』が僕の人生への挑戦を力強く後押ししてくれた」と聞かされ、ここにも大きな出会いがあったことを知りました。

ベティさんの著書「カービルの奇蹟」を手に
© Tanya Thomassie
参考:

ベティーマーティンはルイジアナ州カロルトンの百貨店のマネージャーの家に5人兄弟姉妹の長女として生まれた。カトリックの学校に進学し、バイオリンを習い、ニューオーリンズの社交界にも加わり、将来有望な医師の卵と婚約中の18才のクリスマスの晩、検査の結果が判明し、ハンセン病の診断を受ける。友人には外国の叔母さんを訪ねていく、と言い残して19才でカービル療養所に入所。当初はすぐに治って家に帰る、という希望を持っていたので、他の入所者とはあまり交わらなかった。当時の入所者であるスタンレースタイン(ザ・スター誌の編集者)によれば「とてもフランス的で、可愛くて、高慢ちきで」と評している。入所の翌年、婚約が破棄され、辛い思いをすると同時に、次第に所内での生き方を模索しはじめた。所内学校の教師をつとめたほか、シスター ヒラリーロスの下で検査技師として働いた。1930年代になって、高校フットボールの人気選手でハンセン病のため18才でカービルに入所したハリーマーティンと恋に落ち、1933年、療養所から脱走(当時結婚同居は認められていなかった)。二人は外で働き、4年後に教会で結婚。ハリーの父が二人のために建ててくれた家で幸せな生活を始めた。この生活は一年で破局を迎えた。ハリーが再発し、二人はカービルに戻る。1941年、サルフォン剤の出現と同時に二人は試験台になることを申し出、1947年には二人共12ヶ月連続で菌陰性となり、退園許可が出る。

カービル退園後の20年間二人はアメリカの各地を移り住むことになる。ハリーは保険のセールスマンとして、ベティーはカービルでの人生を書き綴って。これが後の第一作「カービルの奇蹟」となる。二人はカリフォルニア州のレモングローブに居を構えたが、自らの過去を隠して生きることの苦しみから逃れることはなかった。頻繁に各地を旅して歩いたのは、旅の中では過去を語る必要がなかったからだと近親者は考えている。ときおり治療の必要から戻ったカービルだけは、何も隠すことのない心許せる場所であった。1990年二人は最終的にカービルに戻る。1996年ハリーが肺炎で死亡。

モグネット https://mognet.org