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出会い(4)エチオピアのビルケ

エチオピアのビルケさん
© Tominaga Natsuko(日本財団) 2003
ビルケに会ったのは一度だけ、しかも片言の英語で二日ほど話し合っただけですが、地球のどこかで、自分のことよりも他人のことを思いながら一生懸命に生きている姿が深く心に残った人でした。

ビルケはエチオピアの女性です。彼女の名前はときおり聞いてはいましたが、今年8月、スイスのジュネーヴでの集会で会うまでは、想像するきっかけもありませんでした。※1 「ミセス ビルケとよびますか?」という問いに、「正式の名前は ビルケ ニガツ テカ」 「でもニガツは父の名、テカは祖父の名、私の名はビルケだけ。だからビルケとよんで」ということで、それからはいつも「ビルケ」でした。

エチオピアといえば、一昔前の飢餓の映像がよみがえり、内戦と旱魃になやむ世界最貧困国の一つという程度の知識しかありませんし、日本からエチオピアに行くには、ヨーロッパのどこかの都市を経由して2日はかかる文字通り「遠い」国で、訪れる機会もありません。しかしこの国には会員数15000人というハンセン病回復者の全国組織がある、ということは以前から知っていました。ビルケは、昨年この組織の会長に選出された女性なのです。※2

エチオピアは「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ大陸の北東に位置し、面積は日本の3倍近い大きな国です。エリトリア、ソマリア、ケニア、スダーンに四方を囲まれ、海への出口のない内陸国です。国内には4000?級の高山と高原地帯があり(首都アディスアベバも海抜2360メートルの高原都市)「世界でもっとも気候の良い国」という説もあります。アフリカ最古の王制が1974年まで続いた国で、1936〜41年イタリアに一時占領された時以外は、主権国家として独立を保ち続け、数々の遺跡が残されています。1970年代以降の内戦、旱魃、難民、さらにエリトリアとの国境紛争など、苦難のイメージが付きまといますが、固有の文字(アムハラ文字)、固有の暦を持ち(2003年はエチオピア暦では1995年だそうです)、誇り高い民族の国です。人口は約6600万人。宗教はイスラム教とキリスト教(エチオピア正教)が中心。資源にはあまり恵まれず、唯一コーヒーの生産が知られています。しかしながら一方では新生児死亡率103(1000の出産例中)、平均余命は41才あまり、という数字からは世界の最貧国の一つという姿が見えてきます。

ビルケは1958年首都アディスアベバの南方のシェワ県に生まれました。2才の時に父母が離婚し、父方の祖母のもとで貧困の中に育ちました。6才の時、首や顔に斑紋が出ましたが、祖母は祈祷師や民間療法に頼るだけで、症状は徐々に進行しました。次第に手足のしびれや足の裏傷が治らなくなり、祖母に「私は何か恐ろしい病気にかかっているのじゃないのか」と訴えました。心配した母方の親戚の通報でビルケは首都アディスアベバの母の元に引き取られ、その後、アディスアベバ郊外のハンセン病専門病院「アラート」※3で診断が確定しました。医師は治療を継続するようにと告げましたが、母の嘆きは深く、「そんなはずはない。私の先祖にこの病気になった人はいないのだから」とハンセン病の診断を受け入れようとはしません。やむなくビルケは母に内緒で通院する方法を探さざるを得ないという状況でした。悩んだすえ自ら家を出てアディスアベバの「アラート」病院で治療を受ける決心を固め、母から片道のバス代をもらって、単身アラート病院に入院し治療を受けたのです。この時ビルケは14才でした。

治療の遅れから手足に障害は残ったものの、アラート病院での治療の効果が現れて、数年後には退院可能になりました。しかしビルケは母の元には帰らず、アラート病院の周辺に広がる回復者村に住んで自立する道を選んだのです。雑用や家事手伝いとして働くビルケにある時転機が訪れました。当時アラート病院に赴任していた欧米人医師やその夫人たちが、周辺の定着村の人達に刺繍や手芸を教え、出来あがった作品を販売して収入の道を開くという作業場が開設されたのです。若いビルケはこの仕事に飛びつきました。人一倍努力家の彼女は、優れた刺繍の技能を身につけたばかりでなく、製品のデザインや事業の運営にも能力を発揮して行ったのです。その一方で、彼女はなんと夜学に通い、7年生(中学生)の過程を終了し、同時にそこで英語の勉強をしたのです。そして23才の時、同じ村の回復者と結婚し、今では4人の娘の母となりました。この刺繍・手芸作業場での経験が、ビルケに組織と連帯の重要性を教えてくれたといいます。

エチオピアもハンセン病に対する偏見と差別の極めて強い国だと言います。患者・回復者は社会で平等に生きる機会を奪われ、ハンセン病関連施設の周辺に自然発生的な定着村を形成して住むことを余儀なくされてきました。生活の基盤は弱く、偏見差別と貧困の悪循環を断ち切ることは困難なことでした。1990年代に入り、政府の新しい方針とそれに呼応した身体障害者協会の発足に促されるように、1992年アディスアベバ ハンセン病回復者協会が設立されました。この動きはさらに発展し1996年にはエチオピア全土の80%をカバーして、7地区17ゾーンの代表からなるエチオピア全国ハンセン病回復者協会(通称エナレップ)政府の認証を得て設立されるに至ったのです。特筆するべきことは、エナレップが全国障害者連盟の基幹団体の一つとして、中心的な役割を果たしているということです。この過程で忘れられないのは初代エナレップの会長で全国障害者連盟の副会長も務めたアレガ カッサ ゼレレウ氏の存在です。アレガ氏は両足義足で片眼失明という重度の障害を抱えながら全国をくまなく訪れて、連帯と組織の重要性を説き、全国組織の設立に貢献した人です。アレガ氏は1998年6月に東京で開かれた国際交流集会に参加し、その後大島青松園を訪れて一泊し交流しています。ビルケは2002年のエナレップ総会で第2代の会長に選出されたのです。現在エナレップには7人の常任執行委員がいますが、うち3人は女性だということです。※4

エナレップの大きな事業の一つに毎年一月「世界ハンセン病の日」を中心に、全国各地で展開する広報啓発活動があります。首都アディスアベバでは、国立銀行のホールに、多くの回復者と政府を含む各界の人々が参加して啓発集会を開きます。それに引き続いて市内の中心部を警察の音楽隊の先導でパレードするのです。「ハンセン病は治る!」「差別と隔離をなくそう!」「ハンセン病回復者に完全な社会参加と平等な就労の機会を!」と書かれた横断幕やプラカードを掲げて目抜きどおりを行進するのです。この行事は2時間にわたりラジオのFM放送で流されるのです。「私自身はこの指が曲がっていても、はずかしいなんて思わない。ハンセン病は治る病気なのだから。」「私は仲間たちが自らを卑下したりしないで、堂々と生きる勇気をもって欲しいの。」小柄なビルケが、拳を胸の前に、しっかりとした口調で語りました。いつもやさしげな彼女の目が強く輝いていたのが忘れられません。

ビルケさんと家族
© Pamela Parlapiano 2003

ビルケにとって、エナレップの会長職と同様に、あるいはそれ以上に大切なことは、刺繍・手芸グループの運営と組織拡大です。これは、ビルケがアラート病院を退院して自立するための支えとなってくれた仕事であり、いまもなお、多くの女性たちとその家族の日々の生活を支えており、失敗は許されないものだからです。現在ビルケが指導しているグループでは35人前後の人々(男性も含む)が作業しており、材料の仕入れから品質管理、マーケティングまでビルケが中心となって進めています。製品の販路を広げる努力を続ける一方で、新しく他の地区でも同じような作業グループを立ち上げて、少しでも現金収入の道を開き、路上の物乞いや薪の行商などに頼る生活から1人でも多くの回復者と家族を脱却させたい、というのがビルケの願いです。ビルケ自身の生活はというと、刺繍・手芸グループのデザインとマネージメントに対して支払われる月300ブル(約4500円)がそのすべてなのです。彼女は失業している夫と3人の娘(長女は結婚)を支える一家の大黒柱でもあるのです。

褐色の肌に、民族模様の縁取りのある、真っ白な衣装をまとい、いつも色とりどりの布で頭をおおっている小柄なビルケ。やさしい笑みを浮かべながら、ささやくように片言の英語で話すこの人のどこに15000人の会員を擁する「エチオピア全国ハンセン病回復者協会」の新しい会長をつとめながら、40人近くの人々の生活を支える生産活動を維持し、さらに刺繍と手芸を他の地域に広げ、貧しい人々の生活に心をくだきつづける力が潜んでいるのでしょうか。「正直言って、毎日が薄氷を踏む思いなのよ。でも、すべて神様にお任せしているの。」というのが彼女の答えでした。

最後に「今、一番ほしいものは何?」と聞いて見ました。「私の国は来月(9月)がお正月なの。だから、一生懸命働いた人達に、せめて40ブルか50ブル(600〜750円)のボーナスをあげたい。それから、今は刺繍の完成品を作業場に積み重ねているんだけど、どうしても汚れやすいので、ガラスのついた収納戸棚がほしい。それに、もっと材料を仕入れて、みなに仕事を増やしてあげたい。」ビルケの願いはあくまでも現実的で、どこまでもみんなのために、が透徹していました。

  1. 国連人権委員会の小委員会に始めて「ハンセン病と人権」を問題提起する集会が2003年8月4日、ジュネーヴで開催されました。国連人権委のラムチャラン委員長代行と日本財団の笹川陽平理事長の共同提案で実現したものです。ビルケさんの他に、インドのゴパール氏、アメリカのラミレス夫妻、フィリピンのクナナン氏が報告しました。
  2. エチオピア全国ハンセン病元患者協会(エナレップ)。1996年設立。会員数15000人。機関誌「真実」
  3. 「アラート」は全アフリカ ハンセン病リハビリテーション・研修センターの略称。センターは1934年、社会の厳しい差別にさらされた患者の保護施設としてアディスアベバ市郊外の丘の上に建てられたスダーンミッション療養所を基礎に1965年に設立された。(2003年7月8日に89才で永眠された米国のポール ブランド博士は同センター設立の提案者の1人。)エチオピア政府、アディスアベバ大学と国際ハンセン病NGO (ILEP)が中心となって、ハンセン病の診断、治療、外科、眼科、リハビリテーションの専門機関として、エチオピアと英語圏アフリカ諸国の専門家のトレーニングに大きな役割を果たした。2003年現在、アラートの病院及び研修部門は政府に移管され、現在では国立のハンセン病および一般疾患(特に皮膚科)の専門病院となった。アラート周辺には、治療を求めて全国から集まってきた元患者たちによる自然発生的な定着村が形成されており、長年にわたり自立に向けての各種の試みがなされてきた。
  4. エチオピアはハンセン病の患者の多い国の一つでしたが、近年新しく発症する患者さんの数は減少してきています。2002年の新患者数は4940人。患者さんは全員MDT(複合化学療法)が全国1600の保健医療施設で無償で受けられます。しかしながら初診断の時点ですでに何らかの障害が認められる人の割合は14.8%と高い数値をしめしていることが懸念されます。
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