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出会い(12)ジルダ・ボルジェスさん(ブラジル)

「ハンセン病の患者・回復者にたいする偏見と差別は、『人間としての権利』に深く関わる問題です。下記に幾つかの例をあげてみましょう。

* インドの寺院の中には、ハンセン病の患者・回復者が参拝することを禁じているところがあります。
* インドや日本のホテルの中には、ハンセン病回復者の宿泊を拒否したところがあります。
* ハンセン病にかかることを離婚の条件として認める婚姻法が存在します。
* エチオピアでは、ハンセン病の患者・回復者が川の水の利用することを近所の人たちが拒否している例があります。
* 長いあいだ社会から切り離されて生きてきた結果、自分の子どもや親族との暖かいつながりや経済的な支えを失い、淋しく老いつつある高齢の回復者が世界の各地に見られます。ブラジルに、米国に、ポルトガルに、トルコに、ルーマニアに、日本に、イギリスに、韓国に、中国に、スペインに、イタリアに。
* ナイジェリアやフィリピンなどでは、若い患者や回復者たちが今でも社会から切り離され、貧しいハンセン村や療養所で、将来への希望もなく生きることを余儀なくされています。社会や家族が受け入れを拒否しているからです。

この問題を『人間としての権利』の問題として取り上げることは、ハンセン病にたいする社会の対応に重要な変化をもたらすと確信します。」

この文章は、ジルダ ボルジェスさんが2004年3月末、ジュネーブの国連本部で行われていた国連人権委員会の会場の外で、ブラジルの人権委員会代表セルジオ・ピネイロ氏を待ち受けていて、手渡した文書の一部です。※1

ジルダ

ジルダは1965年生まれの39才、黒い瞳とすこしウェーブのある豊かな長い黒髪の、色白でふくよかな女性です。普段はゆったりした裾長のドレスを着て、しずかに微笑んでいることの多い人ですが、自分の意見を人前で発表する日の朝は、黒のスーツに身をつつみ、少しかかとの高い黒い靴を履き、髪もきりりと結い上げて、背筋を伸ばし、貫禄十分な姿でした。ジルダとはこれまでに回復者の集まりなどで3回顔を合わせていますが、ポルトガル語やスペイン語が出来ない私としてはなかなか意思の疎通が難しく、彼女の人柄を知るには至りませんでした。しかし彼女の文章をいくつか読むうちに、ソフトなほほえみを絶やさない彼女の中に、深い洞察力と正義をもとめる強靭な心が見えてきました。

ジルダはブラジルの中西部ゴイアス州の生まれです。今はさらに南のマトグロッソ・ド・スール州の西の端、ボリビアやパラグアイとの国境から500kmほどのコルンバという街に住み、大学の心理学専攻の4年生。卒業後はカウンセラーとして公的機関あるいはNGOで専門職として働くことになるだろうと考えています。

ブラジルはカトリック教徒が国民の90%に達する国です。ジルダもあるカトリック修道会に所属していて、現在の大学進学前にすでに教育・コミュニケーションの資格をとり、教会の専門職としてコミュニティの保健教育に携わっていました。ジルダと話しをすると、通訳を介しているにもかかわらず、ジルダの視線がつねに対話する相手にそそがれていて、言葉が直接通じないにもかかわらず、心を通じさせる特別な雰囲気が生まれることに気づいていました。人はジルダと話すとき、彼女が話し相手である人間に深い関心をよせていて、こちらの話しを十分に聞いてくれる、という安心感を最初から感じます。彼女のおだやかなものごしや暖かいほほ笑みがそうさせるという面も否定できませんが、これは彼女が習得している「人を受容する」技のなせるところでしょう。

それではジルダの話しを少し紹介しましょう。※2
「私は1989年当時、教会の保健活動の一つとして、街はずれの下水管のそばの貧しいコミュニティの女性たちのグループと話し合いを続けていました。出きるだけ多く女性たちの話しを聞き、一緒に地域のいろいろな保健医療の問題を解決する糸口を見つけたいと考えていたのです。私がかかわっていた女性たちの多くはじつはハンセン病を体験していたのですが、みな自分の生活やいろいろな病気の悩みは語りましたが、誰一人としてハンセン病に触れた人はいませんでした。」

「そのころ、私は自分の右足首のところにある小さな斑紋のことが気になっていました。 5年ほど前に気づいてそれから7人もの皮膚科医を訪ねましたが、みなそれぞれ違う診断をくれました。そのいずれも正しいものではなかったのです。ある時、この女性グループのメンバーの一人、ドナ ジョアナが私の足を見ていいました。『シスター、それはスポット(斑点)病よ。私の先生に診てもらうといい。一緒に行きましょう。』それからドナは私の検査や治療にずっと付き添ってくれました。私の場合、薬が合わなかったり、ひどい副作用に苦しみま。そんな時には、日々満足に食べるものもないのに薬をのまざるを得ない人々のことを思って心が痛みました。ドナがついていてくれても、私自身ハンセン病の現実を受け入れるのは容易なことではありませんでした。親しい友達でも私の病気を知ったときのまず最初の反応は、一歩後ずさり、でした。握手も抱擁もなくなりました。私は、みなが私を避けるのではないか、一人ぼっちになるのではないかと恐れ、孤立への恐怖が実感となってせまってきました。そして、自分でも信じられないことですが、ハンセン病になったということを恥ずかしいと思ったのです。」

「ハンセン病といわれてどんな気持ちだったか、どう対応し、どう乗り越えて行ったのか、私はドナや女性たちに問いかけました。だれかの助けが欲しかったのです。みんなはこの問題に意外に単純に、ドライに対応していました。『これはハンセン病よ。治る薬があるわ。一緒について行ってあげる。』 私がハンセン病になったことで、女性たちとの間の壁が崩れました。みなは自分の人生について、連帯について、私に語りはじめました。みなの話を聞きながら偏見の存在を実感していきました。外見的に後遺症のない人たちは必死で病気を隠そうとしながら、一方でいつも誰かに知られるのではないかと恐れつづけていること。治療を続ける意欲を失ってしまう人も多いこと。女性の患者は男性に比べて不利であること。男性の場合、ハンセン病でもレンガ工など屋外の労働は続けることが出来るのに比べ、女性の場合はメード(家事手伝い)など屋内の仕事のため、雇い主に治療中であることが知れると有無を言わさず解雇されるのです。女性たちは自分の病気を恥じ、隠れ、早期治療の機会を逃すことも少なくないのです。」

ジルダは、自分自身のハンセン病体験を回復者女性たちのグループと語りあう中で人々の本音にふれ、次第に自分自身の役割に目覚めていったのです。

「私がこのグループのために何かしようというのであれば、まず自分の中にある恐怖心や恥じの感情を乗り越えなくてはならない。」

ジルダ
クリオン島100周年「新しい世紀へ」の集会に参加して、島の人々と交わるジルダ(2006年5月)
© N. Tominaga, The Nippon Foundation 2006

その後ジルダはブラジルのハンセン病患者・回復者の組織「モーハン」※3 の地方メンバーとして地域の人々に早期診断、早期治療の啓発活動をはじめる一方で、回復者女性たちのグループの自立をめざす活動を続けます。ジルダの心には、社会の中で不利な立場にある女性たち、なかでもハンセン病回復者の女性たちが自らの力で立ちあがり、力強く生きる道をつかむことへの強い思いがありました。ジルダを回復者の国際的なネットワーク「アイディア」※4 に結び付けたのは1998年9月に北京で開かれた第15回国際ハンセン病学会でした。「アイディア」は、世界の各地から回復者がこの会議に参加することを呼びかける中で、常に男性が多数であることに懸念を覚え、ブラジルのモーハンに女性を代表に加えることを要請したのです。それにこたえてモーハンが選んだのがジルダだったのです。「アイディアに出会って、一人の人間として、ジルダとして、自分自身の尊厳を再確認しました。まるで人としての尊厳が私の心の中に生まれでて、次第に大きく泡だってあふれ始めたような思いです。」アイディアの理念に触れたときの感想をジルダはこのように述べています。

その後ジルダは、地元クルンバの街を中心に「アイディア―女性の機会」という名前の活動を始めました。貧困と差別の中に生きる女性たちに平等な視線で語りかけ、彼女たちの話しに耳をかたむけ、要求をくみ上げ、人間としての誇りをもって自立の道をさぐる、そんな活動が少しずつ展開されています。

ジルダの母国語はポルトガル語ですが、スペイン語も十分に話せる彼女は、今住んでいる州に隣接するスペイン語圏の国々、ボリビアやパラグアイも訪ね、同じように困難な生活を続ける両国のハンセン病回復者女性たちの状況を調査しています。

ポルトガルという国は今日ではヨーロッパ大陸の端の小国ですが、15・16世紀の大航海時代、ポルトガル王国はアフリカや南米に勢力を拡大していました。その結果、世界には今日なおポルトガル語が主要言語として通用する国がいくつもあります。中でももっとも大きい国はブラジルで、そのほか主要な国はアフリカ南西部のアンゴラと南東部のモザンビークです。※5 今から500年も前の歴史が、ジルダに新しい使命を与えることになったのです。2003年以降、ジルダはアイディアの「尊厳と自立」のメッセージを携えて、アンゴラとモザンビークを訪れています。※6 アンゴラでは長かった内戦が終結して、2003年夏、政府やNGOによるハンセン病対策がやっと再開されました。内陸部はまだまだ戦禍と破壊の跡が生々しく残されていますが、全国的なハンセン病対策の開始に当たって政府は回復者たちをパートナーとして招聘するという、先進的な決断をしました。この国をジルダは2003年秋に訪問し、アンゴラ ハンセン病回復者社会復帰協会(ARPEL)の若い女性、ナタリヤさんたちの啓発活動に連帯の意を伝えたといいます。同時にモザンビークも訪れ、モザンビーク障害者協会(ADEMO)のもとアレモ(ALEMO)というハンセン病回復者のグループがあり、北部カボデルガード州では、貧しい生活からの脱却を求めて縄や筵などの製作販売に力を合わせているほか、アイディアが提唱する「国際尊厳と尊敬の日」(3月11日)に、州都のペンバで8つのアレモのグループが合同で、社会の人々に尊厳のメッセージを届けた、と報告しています。

ジルダの活動はこの他にも広がりを見せています。2003年にはポルトガル国内の古い療養所ナビスコ・パイスを訪れ、ハンセン病の歴史資料の保存と高齢化していく入所者への聞き書きを作成する仕事にも関わりました。

ハンセン病をめぐる差別法規は、多くの国で撤廃されました。しかしながらハンセン病をめぐる偏見と差別は依然として社会の縦糸横糸に深く深く織り込まれていて、消し去ることは容易ではありません。社会の偏見や差別は社会の側が作り上げたもので、社会の側が払拭するべきものだ、という認識がある一方で、社会を変えるためには回復者自身が声をあげ、行動することが必要だという認識も生まれています。冒頭にあげた、ジュネーブの国連人権委員会の場で、自国ブラジル代表との対話を求めて文書を用意し、休憩時間に会場外で待ち受けて面会し、要望を伝えたジルダの信念と行動力に拍手をおくるとともに、彼女と共に歩む多くの回復者の人々に心からの声援を送りたいと思います。

  1. 世界のハンセン病患者・回復者・家族をめぐる排除と差別の今日的・歴史的な状況を、国連人権委員会の議題として取り上げるように働きかける活動は2003年8月から、日本財団の笹川陽平理事長が意欲的に進めています。笹川陽平氏の立場はこの問題を世界に訴えるエネルギーは、当事者であるハンセン病の患者・回復者・家族が自ら声をあげ、世界の人々に届けることが肝要、という認識で、2003年8月と2004年3月の2度にわたり、ジュネーブでの国連人権委員会の開催に合わせて委員や関連NGOを対象に、‘声’を届ける集会を開催しました。ブラジルのジルダ ボルジェスさんは、第2回目の集会に当事者の提言者として招待され発言したほか、人権委員会の委員への説得活動をしました。ピネイロ氏はもとサンパウロ大学教授で国連人権委員会小委員会のブラジル代表。小委員会は26カ国から26人の専門家によって構成されている。
  2. 参考:アイディア ニュース第5巻1―2号(2000年1―6月)およびランセット誌第363巻9416号(2004年4月)
  3. 「青松」2004年6月号「出会い(10)バクラウ」参照
  4. 「アイディア―共生・尊厳・経済的自立のための国際協会」については、「青松」5月号の「出会い(9)アイディア」参照
  5. ポルトガル語:ポルトガルとブラジルの2国では国語として、アフリカの5カ国−アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウ、カボヴェルデ、サントメ・プリンシペ−では公用語として、世界全体で約1億7000万人が使用する言語。世界第7位か8位の言語です。
  6. WHOの発表によれば、2003年一年間にハンセン病と診断された人の数は世界全体で507,300人(内最大はインドの年間367,143人、次いでブラジルの49,206人)です。1998年(年間804,000人)をピークに、毎年確実に減少しつづけています。アンゴラやモザンビークは、インド、ブラジルと並んでWHOが制圧目標とする人口一万人あたり患者数一人の目標を達成するには、今少し努力を必要とする国々です。アンゴラとモザンビークの2003年中の新患者数は、それぞれ2933人、5907人でした。

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