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出会い(5)P.K.ゴパールさん

P.K.ゴパールさん
ゴパールさんは青松園に少なからぬ縁がある人です。1996年夏、日本疫学会に招聘されて来日した機会に、ベトナムのズエ先生や、アメリカのホセさんと一緒に青松園を訪れています。そしてなによりも、2001年12月、「インドの療友のために」と青松園国賠訴訟原告団有志から日本財団の笹川陽平理事長に寄託された浄財200万円は、ゴパールさんの主宰するアイデア・インドを通じて、ハンセン病患者・回復者の子ども達184人の奨学金として生かされています。そのうちの一部は、公的な医療保険のないこの国で、怪我や病気の治療が受けられない回復者家庭の万一の医療ニーズのために「緊急援助資金」として役立っています。これにつては、いずれゴパールさん自身から報告があるでしょう。最近では2003年8月、モロカイ島訪問の帰途日本に立ち寄り、何よりも青松園のみなさんにお礼を申し上げたいと、再度青松園を訪れています。

さて、2002年の一年間にインド全国で新しくハンセン病と診断を受けた人は473,658人※1でした。果たしてこれは多いのか、少ないのか、いろいろな見方が出来るかと思いますが、20年前には350万人とも400万人ともいわれ、推定値でしか語れなかったことを考えると、患者数は確実に減少しているといって良いでしょう。一方、この20年間に化学療法を受けて治ったとされる人の数は、インド一国だけで1038万人※1。近年は早期治療で障害を残さずに治癒する人も多い一方、化学療法以前に障害を残してしまった人も多く、この病気が患者本人ばかりでなく家族をもその苦難に巻き込んできたことを考える時、この国には数千万人の規模でハンセン病に由来するさまざまな苦難に直面している人々がいる、といっても過言ではないでしょう。

P.K.ゴパールさんはそのような人たちの代表として、1994年から公の場で発言し始めました。ゴパールさんは1941年、インド南部タミルナドゥ州の織物職人の家に妹4人、弟2人の7人兄弟姉妹の長男として生まれました。中学校在学中の12才のころからハンセン病の症状が表れましたが、当時診察を受けた公立の病院では正しい診断がつかないまま、適切な治療を受けることが出来ませんでした。その後7年間、民間療法などを頼りましたが効果なく、症状は次第に進行し、「この子の人生もお終いだなぁ」父がつぶやくのを耳にした時は胸のつぶれる思いだったといいます。決して豊かな家庭ではなかったにもかかわらず、両親の彼に対する期待もあって、高校から大学へと進学しました。そして、こともあろうに大学の卒業筆記試験に挑んだその会場で、「君はハンセン病じゃないのかね」と試験官に指摘されたのです。「その瞬間頭の中が真っ白になりました。」検査の結果、診断は確定し、治療が始まりましたが、1日100mgのDDSの副作用に苦しみ、繰り返しらい反応(ENL)に悩まされ、ステロイド依存に苦しみ、治療は順調には行きませんでした。知人の紹介で州の首都チェンナイ近郊のチングルプット専門病院に入院して適切な治療が受けられるようになり、2年後には、両手指の軽度の変形と足裏の知覚麻痺は残ったものの、ほぼ回復し退院しました※2。その間、卒業資格を取得して1969年に大学を卒業し、同州クンバコナム市の聖心ハンセン病センターに福祉ケースワーカーとして就職したのです。幸いセンター側の理解でさらにチェンナイのロヨラ大学修士過程に進学し、3年後の1972年社会福祉学の修士号を取得して古巣のセンターにもどります。この直前、父が選んだ遠縁の同郷の女性と結婚しました。ハンセン病回復者と知っての上での結婚で、式後すぐにセンターに赴任しました。当時のセンターは入所者1200人を数える大きな施設で、ゴパールさんの着任でここに、ハンセン病の世界ではインドで始めてとなる福祉・リハビリテーション部門が創設されたのです。この病気を十分に理解できないまま夫についてセンターにやってきた夫人には大変な苦労であったようです。しかし、公立学校の事務員であった彼女は、センター内の学校運営に携わったり、女性入所者の相談相手となるなど次第にとけ込んで行きました。

1997年、アイデアの活動に専念しようと決心して、ケースワーカーの職を辞するまでの25年間、ゴパールさんは、回復者と家族の関係の回復、出身部落の受け入れ、教育、経済的な自立の問題などに力を注ぎながら、「ハンセン病回復者の社会的リハビリテーション」を理論的に研究し、その集大成として1993年ビハール州のラーンチ大学から博士号を取得しています。その間1986年にはハンセン病社会福祉担当の最優秀ケースワーカーとしてインド大統領の表彰を受けました。

ゴパールさんの専門家としての活動に転機をもたらしたのは、1993年フロリダで開催された第14回国際ハンセン病学会でした。この時、学会の長い歴史で始めて、ハンセン病回復者を主役とした発言の場が設けられたのです。「ハンセン病サービスの『提供者』と『消費者』の関係」という、やや間接的で学問的な名前がつけられた会でしたが、この場に世界各地から回復者が集まったのです。ブラジルのフランシスコ ヌーネス、ハワイのバーナード プニカイア、韓国の鄭相権、インドからはゴパール、日本から石原英一さん。それぞれに長い長い苦難を乗り越えてきた人達でした。会のあと5年に一度の学会の場で顔を合わせるだけではなく、世界の回復者の連帯ネットワークをつくって行こうという機運が生まれ、これが翌1994年9月ブラジルでのアイデア(IDEA)設立へと発展していったのです。ゴパールさんは、回復者の自立と社会復帰への実践にもとづいた深い含蓄と発言の実績から、アイデアの会長の1人に選出されました。

ハンセン病の回復者が社会に一定の地位を保有している場合、必ずしも常に自らの個人的な背景を明らかにする必要があるとは思いません。ゴパールさんの場合、自らの体験を隠して仕事をしていたわけではありませんが、執筆する論文の中で自らの個人的な背景、特にハンセン病を自ら経験したということを明記するというわけではなかったようです。彼が1995年1月に発表した「ハンセン病リハビリテーションの理念と原則」は、当事者であればこそと思わせる深い洞察と提言に満ちていますが、その中には、“当事者として”という立場は表立っては表明されてはいません。しかしその一方で、彼の手指の形を見て差別的な態度をしめしたバスの乗客には、ハンセン病について語り、誤解を解く努力をするなど、日常生活の中では毅然とした態度をつらぬきました。

アイデアの活動が次第に忙しくなり、センターの社会福祉担当主任としての仕事との両立に悩んだゴパールさんは、1996年末、自分の人生を賭けて回復者の尊厳と自立を求める活動に専念する決心をして職を辞します。「回復者1人1人が差別を受けることなく社会に生きていけるようになってはじめて、この病気が本当に治ったといえるのです。」

ゴパールさんの活動の功績として特筆されることは、回復者自身が、人間の尊厳、人間としての権利を自覚して、自ら道を切り開く力をつけるように支援するという点にあります。具体的には、回復者と行政、医療関係者、NGOなどが一同に会して話し合う「対話の場」(エンパワメント ワークショップ)をつくり、回復者たちを取り巻く「壁」を崩す活動を仕掛けてきたことです。インドはハンセン病に対する偏見の根深い国です。数々の差別法は今日ほぼ廃止されてはいますが、一般社会の認識、慣習にのこる偏見はまだまだ一掃されてはいません。※3インドにはハンセン病を活動の中心に据えているNGOが290以上あると言われています。他方、インド全体で約300ヶ所のハンセン病コロニーがあるといわれています。コロニーの多くは、患者たちがやむを得ない事情で家族や村を離れ、放浪の果てに一定の地域に定着し自然発生的に成立したものが多いといわれています。コロニーは規模も成り立ちも多様ですが、それぞれに何らかの組織があります。回復者や家族は多くの場合、慈善やサービスの受け手ではあっても、活動や企画の主体あるいは平等なパートナーとは認識されていません。ゴパールさんが進めてきた平等な「対話の場」は、行政当局は言うまでもなく、NGOにとっても発想の転換をせまるものです。しかし長年培われてきた固定観念の壁を崩すのは容易なことではありません。また、回復者自身も長年の貧困と差別の悪循環の中に生きてきたため、平等な対話の場で声を挙げ、組織的に活動を進める経験の蓄積がありません。まず自らの権利と尊厳を自覚することから出発しなくてはならない場合もあります。

インド北西部オリッサ州での「対話の場」はまだ実現していません。2003年6月、コロニーの住民たちと話し合った後、地元のNGOと共に、対話集会を企画したゴパールさんは、ハンセン病への偏見の根深さに改めて直面することになりました。まず地元のハンセン病支援NGOが提案した集会の会場というのは。屋根の落ちた廃屋のような建物で、NGOの側にある差別感に打ちのめされました。説得と交渉の結果、古い公共施設を借りるという仮の合意ができましたが、日をおかずして「乞食の集会に場所を貸すことは出来ない」という拒否の回答が施設側から届きます。一般の人々にとってハンセン病回復者は「乞食の衆」以外のなにものでもない、という現実をつきつけられたのです。NGO自体の変革から始めなくてはならない壁の厚さを感じたといいます。

タミルナドゥのコロニーで。
コロニーに行くとゴパールさんは尊敬されていて、
いつもいろんな話を持ち込まれます。

ゴパールさんの出身地インド南部のタミルナドゥ州は人口約6,200万人。元来ハンセン病患者の多い地方で、1950年代から欧米のNGOも活動の根をおろしていて、専門病院や研究所もあります。この州には42ヶ所のハンセン病コロニーがあります。都市のコロニー、農村のコロニー、いずれも生活は貧しく、一家の主たる収入が物乞いであったり、数十人の居住者の生活が、たった一つの浅井戸に頼っている、ということも決して少なくないのが現実です。しかし各コロニーには何らかの組織があり、42のコロニーは連盟とも云えるネットワークを作り、毎月、全コロニー代表による例会が開かれ、共同で諸問題の解決にあたっています。

タミルナドゥ州ハンセン病コロニー連盟の会長プラカサム氏は、かつてゴパールさんが職員であった施設に入所していたころからの知り合いで、波乱万丈の生涯をおくってきた‘闘士’だということです。一見こわもてで、鋭い眼が印象的な人ですが、心の優しさがどうしても表れてしまう魅力的な人物です。ゴパールさんと厚い信頼関係を築き、州全体のコロニーをまとめています。目下の懸案は、近郊の交通の激しい道路とそれに並行する鉄道線路の間の公有地を不法占拠して、ビニール小屋掛けで居住する26世帯の移転先の確保で、当局と交渉中だということです。プラカサム氏はかつて都市型スラムであったビリバッカム・コロニーに夫人と住んでおり、息子夫婦に昨年孫娘が生まれました。3世代5人の家族は、貧しくても幸せなそうでした。

アイデアの会長という人生の選択をしたゴパールさん自身、この7年間に大きな自己変革を遂げたように思えます。いつも慎重なゴパールさんですが、外に対しては常に自らの立場をはっきり明言して発言し、仲間の回復者にはどこまでも優しい眼差しをなげかける。なによりもアイデアの存在を誇りに思っている気持ちが伝わってきます。そんなゴパールさんですが、心の奥ふかく秘めたものを見せた一面がありました。ゴパールさんには娘が1人います。インドは今でも結婚の成立に親がかかわるのが一般的です。とくに娘の縁談をまとめるのは金銭が絡むことも多いので、家族にとって大きな懸案です。ゴパールさんも娘の結婚には事のほか心を砕いていました。それだけにめでたく結婚という運びになった時は喜びが大きかったようですが、「結婚式の間、相手の兄嫁が僕の手をじっと見ていたのがとても気になった。」と話してくれました。

ハンセン病の世界で当事者の声が少しづつ社会に届き始めた今日、ゴパールさんたちアイデアの努力も認められ始めています。しかし、インド全国の回復者の数、家族の数を考える時、まだまだその声は小さく、ゴパールさんの役割は、まだその緒についてばかりといえるでしょう。世界に目を移すと、どこの国もそれぞれの「ゴパールさん」を必要としていることが良く分かります。しかし「われらのゴパールさん」を見出した国はまだまだ少ないのが現状です。国内で、国際的に、連帯をどのように広げて行くのか、ゴパールさんの今後の大きな課題でしょう。彼の人生の選択は全く正しかったのですから。

  1. インド政府保健省2003年3月末資料。
  2. 1980年代に複合化学療法(MDT)が導入されたとき、2年間MDTを服用しました。
  3. インドにおける「らい」差別の元となった法律−Indian Leper's Act(1898年制定)は1984年、ガンジー首相の時に廃止されました。その他数多くの差別法がありましたが、おおむね1980年代に廃止されました。しかし発病を根拠とした婚姻関係の解消を認める法律の一部は現在も残っています。
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