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出会い(9)IDEA「アイディア」

1994年9月ブラジル、ペトロポリスでのアイディア発足に集まった人々(インド、中国、ハワイ、ブラジルの回復者たちの顔が見えます) © IDEA 1994
この欄でご紹介した「出会い」の多くは、「アイディア」なくしてはありえなかったといっても過言ではありません。もし「アイディア」が生まれていなかったら、もし「アイディア」に関わることがなかったら、私とハンセン病との出会い自体も医療情報と統計の域を出なかったかもしれない、「人と心」に出会うことはなかったかもしれないと思います。

「アイディア」とは一体何なのでしょうか。なにが「アイディア」を生み、なにが「アイディア」のネットワークを世界に広げつづけているのでしょうか。

1993年8月、アメリカのフロリダ州で第13回国際ハンセン病学会が開かれました。その中に「ハンセン病に罹患した人々のケアとリハビリテーションにおける消費者とコミュニティの参加」という『抽象的』で『学問的』なテーマの分科会がありました。この分科会には、専門家に混じって、日本を含めて6カ国の回復者の姿がありました。「消費者」つまり当事者が始めてハンセン病をテーマとする国際会議に「参加」の場を得たのです。この時の学会では、この分科会の他に回復者自身が現状報告をする会も開かれました。従来「研究者と専門家」だけの場であった学会の歴史始まって以来、初めて「当事者」に参加の道が開かれたのです。ここに到る背景には、アメリカ人女性、アンウェイ・ロウさんの10年に及ぶ粘り強い働きかけがあったことを忘れることは出来ません。アンウェイさんは、回復者はまさに「専門家」であり、学会が回復者の発言に耳を傾けるのは当然であるという信念にもとづいて、1984年のインド・デリーでの学会、さらにオランダ・ハーグでの学会(1988)にハワイ・モロカイ島の回復者とともに出席し、発言の場を求めて来たのです。

フロリダでの学会には、かねてから社会的発言では先行していたブラジルやハワイか強力なリーダーの参加があり、また韓国からは10人近くの回復者が参加するなど賑やかな一団となりました。この時の参加者たちは、国はちがっても共通の体験と今日もつづく問題を共有し、自分たちの声を広く社会に届けるためには、5年後の学会まで待つことは出来ないと、回復者自身による国際的な連携の道を探ることで合意したのです。この願いは、1981年にブラジルのハンセン病患者・回復者組織「モ−ハン MORHAN」を創立した強力なリーダー、フランシスコ・ヌーネス氏(通称バクラウ――1998年没)の努力により、翌94年には現実のものとなりました。ブラジルのペトロポリスに6カ国から約50人のハンセン病回復者と支援者が集まり、同年9月16日「アイディア」−共生・尊厳・経済的自立のための国際協会が発足したのです。

「社会的問題の解決とは金銭を与えることだと考える人が多い。
われわれはこの考えに強く反対する。」

「病気自体より病気にともなう偏見の方が悪質だ。われわれはフランシスコ、マリア、ジョーなど固有の名前を失って、らい患者やレパ−とよばれ、最近ではハンセン病者などと呼ばれる。我々にとってとって最大の挑戦は、自らの固有の人格を喪失した何百万人という人々が、、固有の名前で呼ばれるようになることだ。」

「われわれはこの地球の違法住民じゃないのだ。我々を代表する声が必要だ。」

「一人で見た夢は、夢に終わる。しかしこの夢を仲間とみんなで分かちあえば、その夢はきっと実現する」(バクラウ)

ブラジルでのアイディア発足には中国から孔豪彬・周鴻禄・陳冠州の3人の回復者と楊理合医師が参加しました。3人は帰国後直ちに中国全土の600ヶ所近いハンセン病療養所や村に、アイディア設立を知らせる次ぎのような手紙を送ったといいます。

「我々は不幸にしてこの病気にかかり、なかには身体の障害を残してしまった病友もいる。しかし我々は健全な心と誇り高い精神を持っている。我々は自らの叡智と汗でより良い生活を切り開き、通常の社会生活をするのだという強い意思を持っている」

ハンダのスタッフたち © HANDA 2004

2年後の1998年8月、中国のアイディアは「広東漢達康福協会」(通称ハンダ)として発足しました。それから8年、「ハンダ」の活動は、社会から見捨てられたように山間僻地にひっそりと生きてきた回復者とその家族に自立と連帯のメッセージを届け、支援の輪を広げつつあります。

「かつて、我々ハンセン病患者は大変な身体的苦痛に苦しんだ。しかし、我々が心に受けた傷は身体の痛みに比べて遥かに深いものだった。」(林志明)

「我々は他人に頼るのではなく、自分自身に頼るべきだ。福祉措置は短期的な救済に過ぎず、自分自身への尊敬と尊厳をもたらすことはない。」

「社会の偏見をなくすには、たとえ手に変形があっても、自らの手で自立と独立を果たすことだ。」(馬鉄喜)

アフリカ大陸の北部エチオピアでは1996年に会員数11000人の「ハンセン病元患者協会−エナレップ」が組織され、アイディアの一環として、啓発と自立を目指して独自の活動を続けています。組織化の背景には、自ら手足や眼に障害をかかえ、職場からの排除と家族の忌避に苦しみながら、全国の回復者を訪ねて組織化を成し遂げた、アレガ カッサ氏の努力とリーダーシップがありました。

「アイディアはわれわれの先導者だ。アイディアは我々のもの、我々はアイディアの一員だ。」「私の人生は、たとえてみれば『死ぬよりはまし、生きるにはあまりに悲惨』といえるものだった。しかし、今や隔離の門は開かれた、、、私は生まれ変わった。」(アレガ カッサ)

インドの場合、南部タミルナドゥ州にはアイディアの理念を共有する全州的な組織がありますが、その他の州では大規模な組織化はほとんど見られません。しかし、全国各地に点在するコロニーや療養所で、アイディアの理念にもとづいたワークショップが年間4‐5回開催され、平等と自立と尊厳の回復に向けて当事者の声を届ける試みが続けられています。

「回復者たちは、ワークショップを通じて、保健行政当局や支援団体の人々と一同に会し、対等に語り、同じ場で食事をする体験をするのです。こういう体験は自らに対する劣等感を克服し、社会の一員としての意識を獲得することにつながります。」(ゴパール)

ネパールでは、美しいアンナプルナ山脈に囲まれ神々の棲むと言うマチャプチャレ山を仰ぐポカラ市で、1998年2月19日アイディア・ネパールが誕生しました。ハンセン病に対する偏見の強いこの国で、回復者が声をあげることは容易なことではありません。それから5年、自らが声をあげて社会を変えるというアイディアの理念は少しづつではありますが成長しているように思われます。ポカラでは刺繍やろうけつ染の作品を作って販売し、自立の一助にしようという小さなグループが生まれました。首都カトマンズでは今年(2004)の国際ハンセン病の日(毎年1月最後の日曜日)に、アイディアのグループが偏見と差別の排除を訴えて街頭行進をしたという報告がありました。

フィリピンでは、セブ島北部の大きな療養所と周辺のコロニーを中心にアイディアの理念をもとに発言を続けるグループがあります。アイディアの国際的なネットワークに励まされ、啓発活動や若い回復者たちの教育の機会確保に努力しています。しかし、フィリピン全土の回復者のネットワークを作り上げるにはあと少し時間と支援が必要のようです。

「ハンセン病回復者に対する差別と排除にはいろんな理由があるが、そこに共通しているのは社会の『無知』で、それに対応するのは『啓発教育』だ。これには正しい戦略と人が必要だ。」「ハンセン病は長い人生の一幕に過ぎない」(カバノス)

西アフリカのガーナでは、アイディアの国際集会に参加した2人の女性を中心に、50米ドルの寄付金を元手に地域の啓発活動が始まったという報告がありました。その他ミャンマーで、アフリカのマリ共和国で、南米のスリナムで、社会に発言を続ける勇気あるリーダーの存在が明らかになっています。しかし地域的な広がりと組織化を勝ち取るまでには至っていません。その中で、2003年12月、西アフリカの大国ナイジェリアのミンナ市で第1回ナイジェリア・アイディア全国集会が開かれたことは特筆に価します。一億人以上の人口を抱えるこの国はハンセン病の回復者も多く、各地に点在する古い療養所の悲惨な状況が知られていました。アイディアの国際的な集会にもナイジェリアの回復者の女性が参加してはいましたが、なかなか組織化は困難で、若い回復者の窮状や、生活に困窮した入所者家族が幹線道路を高速で走り去る車に向かって物乞いをする危険な状況などが伝えられていました。それだけに、若い人々の多いこの国で組織が出来たことの意義は大きなものがあります。

「ハンセン病だからって水も売ってくれない。食べ物も売ってくれない。結婚も出来ない。同じナイジェリア人なのに。病気が治った証明書も持っているのに。」(アブバカール・ムサ)

「学校で友達と一緒に食事することを許されなかった。神様に私の命を取り上げてくださいと祈っていた。死んだ方がましだから。ハンセン病だから、物乞い生活をしなくてはならないんだと想っていた。お父さんが学校は続けるようにと言ったけど、学校が受け入れてくれなかった。」(アルハジ セフ アブドラ サルキン ファダ)

「帰ったら、みんなに話そう。僕たちには未来があるって。」(パトリック オルジ)

「自立して生きたい。物乞いはしたくない」(イブラヒム バカニケ)

「私は勤勉な性格です。ケーキやパンが焼けるし、編物もできます。」(エカエテ アイザヤ アクパン 19才)

韓国の定着村運動から発展した「社団法人 韓星協同會」の人々も、国際的なアイディアの設立とほぼ同時期に「韓国IDEA協會」を設立しました。同会は、当初から他国の回復者の自立を支援するという連帯の姿勢が明確で、会長の鄭相権氏を中心にインド・ベトナム・中国などで回復者の自立支援と教育のために助言と財政的支援を続けています。

「我々の経済力がのびるにつれ、社会での発言力も強くなった。他の人たちを支援することをとおして、我々は人間として最高の価値を得た。」

「これからは物を貰うために手をさし出すのではなく、我々の助けを必要としている隣人のために、手をさし述べよう。」(鄭相権)

さて最後に日本の場合はどうでしょうか。1951年の全患協結成に象徴される日本の組織の歴史は、緻密な構成と運営、綿密な記録と情報発信など全ての面で世界に類を見ない傑出した存在です。今また自らの生きた証しである歴史の保存への強い関心など、日本の回復者の活動は国際的な動向に指針を与えるものといっても過言ではないでしょう。アイディアの動きが日本に伝えられたのが約10年まえ。その後、個人のレベルで数多くの強い支持と賛同の意思表示がされましたが、「アイディア日本」を作ろうという動きが現実化することはありませんでした。※1しかし1997年全療協支部長会議は、アイディアを維持会員として支えて行くという決定をし、その意思は今日も続けられています。予防法の廃止、国賠訴訟の勝利、社会参加と復帰の加速という大きな流れの中で、療養所の内と外を問わず、人生の最後の一章に国際的なハンセン病回復者のネットワークとの連帯、という選択肢が現実のものとなることを期待したいものです。

アイディアはいずれの国でも、財政的にも組織的にも極めて弱々しいものです。にも関わらず、どの国でもアイディアの設立は熱い思いで歓迎され、そこから人の心に深く訴えるメッセージが世界に伝わっています。多分、「アイディア」に象徴される理念は、ハンセン病の長い歴史のなかで、人々に待たれていたものなのでしょう。

[山口和子(笹川記念保健協力財団)、2003年、原典:「青松」]

※1 2004年8月、日本国内のハンセン病快復者が中心となり、「IDEAジャパン」が発足した。[モグネット]

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