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出会い(7)インド・36時間の汽車の旅

華やかなサリー姿の参加者たち。右から二人目、白地のサリー姿がタマラニさん。

インドを北から南まで36時間汽車に乗りつづけて旅をしたのは、実は私ではないのです。2003年9月22日から24日まで、南インド タミルナドゥ州の州都チェンナイ市(旧マドラス)で開かれた「ハンセン病と女性・インド集会」に参加した、3人の女性たちです。北部ジャールカンド州の州都ラーンチ市の近郊にあるインディラ ナガール コロニーのタラマニ マハトさん(40代後半)とラディカ デヴィさん(30代後半)それに同コロニーの小学校教師をしているシャムリ ロイさん(30台前半)の3人は、肩を寄せ合って36時間という初めての長旅をして、9月21日午前4時チェンナイ市中央駅に降り立ったのです。北インドの3人はヒンディ語をはなしますが、南部チェンナイはタミル語圏ですから、言葉も通じず不安一杯だったことでしょう。でも心配は無用でした。インディラ ナガール コロニーに過去10年間熱心に関わってきたラーンチ大学のウパディヤイ教授が、出張先から先回りして3人を待っていたのです。

インド社会で女性がハンセン病を病むということがどう言うことを意味するのか、2日半のこの会議のなかで30人の参加者は当事者の言葉で語りました。※1 インド国内5つの州と隣国ネパールから33人の女性が参加したこの会に、男性はアイデア会長のゴパール氏を含めて4名だけ。20代から50代と思われる回復者の女性たちは、普段の生活ではおそらく縁のないホテルを会場にしたこの集会に、緊張の面持ちで参加しました。始めはマイクの前に立つことにためらいを見せる人もありましたが、一人が前に立って自分の体験を話すと、次々と壇上で自己紹介と現状の報告がつづきました。たったの30人あまりの集会でしたが、インドの言葉だけでもヒンディ語とタミル語とマラティ後の3つ、英語を加えると全部で4つの言葉にそれぞれに通訳される様子に、インドはまことに多様な国なのだと痛感させられました。会の2日目は言葉ごとに小グループにわかれ、4人の男性には室外にご遠慮願って、和やかな雰囲気で体験の交流といろいろな助言が続きました。現地語のわからない私は残念ながら内容を理解することは出来ませんでしたが、部分的に通訳をとおして理解した内容からも参加者たちの深刻な日々の様子が伝わってきました。

北部から参加した3人の女性のうち年上のタラマニさんは3人の子どもの母ですが、3人目の子どもが生まれる直前に夫と死別し、出産後間もなくハンセン病と診断されました。病気にたいする知識がなく、すでに手足に変形が出ていたタラマニさんには生計の手段もなく、貧困にくわえてハンセン病の蔑視に耐える生活でした。村人たちはハンセン病の患者を村に置くことは出来ないと彼女に迫り、「村を出なければ子ども達の面倒はみない」と告げたのです。タラマニさんは子どもたちを村人に託し、一人でコロニーにやってきたといいます。それ以来、村に帰ることはなく、コロニーの小屋で一人物乞いをして生計を立てています。参加者30人の中でももっとも質素なサリー姿のタラマニさんは笑顔の少ない人でした。

決意を込めてサインする参加者。左端、赤いサリーがラディカさん。

年下のラディカさんは、いつも赤や青の鮮やかな色のサリーを身につけ、額の中央の生え際には、結婚している記しの赤い紅をさしています。ラディカさんは10才くらいの時に発病しましたが、両親は無関心で治療を受ける機会もなく、次第に手足に変形があらわれました。やはり村人たちに責められて、両親はやっと彼女を英国救らいミッションの病院につれて行きました。治療を受け一年余りで退院しましたが、家族も村人たちも彼女が村にいることを嫌がり、特に村人たちが家族にあまりにも辛く当たるので、見かねた叔母が彼女をコロニーに連れてきました。まだ18才頃のことだったといいます。しかしコロニーでラディカを待っていたのはより辛い現実でした。彼女は何人もの男性の相手をすることを強要されたのです。思い余ったラディカはコロニーの年配の女性の助言で、同じコロニーの70才の男性と結婚することで自分の身を守ったのです。現在コロニーに住む高齢者の世話をしていますが、薄暗い泥壁の家に住みコロニーから一歩も外に出ることのない生活と比べるように「いまこの集まりに参加してここにいる間は、惨めな現実を忘れることが出来ます」と述べました。

タラマニさんとラディカさんに同行した若いロイさんはコロニーにある小学校の三人の教師の一人で、収入は月額800ルピー(約2000円)です。三輪タクシー運転手の夫と二人の子どもとコロニーの外に住んでいます。将来の願いは、夫が自分の所有する三輪タクシーで営業出来るようになることです。今回思いがけず南部に旅することが出来て「コロニーの学校に勤めていて良かった」と笑顔でいいました。

三人が関わるインディラ ナガール コロニーは1960年にラーンチ近郊に建築現場が出来た時、インド各地から集まってきた多数の労務者の中のハンセン病患者たちが、病気や障害の悪化とともに職を失い、生活の手段として近くの寺院で物乞いを始めたことに端を発しています。物乞いたちの小屋はなんども追いたてられた末、寺院に近い現在の場所に定着し、各地から放浪して身を寄せてくる患者や家族を含めた自然発生的なコロニーを形成してきました。※2 現在の居住者総数は166世帯435人、約半数(218人)はハンセン病患者でしたがほぼ全員すでにハンセン病の治療は完了しています。この内の157人(72%)は後遺障害をもっています。166世帯中119世帯(71.2%)が物乞いを生計の手段としていますが、1994年以降、外部のNGOの支援が始まり、人力車夫や豚や山羊の飼育、野菜栽培をするなど、生活向上が計られはじめました。またコロニーの住民の努力で低学年(1〜3年生)用の簡単な校舎が出来ていましたが運営に困窮していたところ、外部の有志の支援のおかげで、現在63人の子ども達が学ぶまでになりました。コロニーの生活の中で学校は、勉強ばかりでなく給食による栄養補給や基本的な生活習慣を身につけるところで、4年生以上になるとコロニーの外の学校に通えるように、基礎的な生活力と自信を身につけるのです。この学校が3年生までとなっているのは、出来るだけ早くコロニーの外の学校に移り、一般社会と触れることでコロニーの枠に閉じこもらない人生がおくれるようにという配慮なのです。※3

目下このコロニーの大きな課題は二つあります。一つは清潔な飲料水の確保、もう一つは電気を引くことです。電気がひければ、学校でテレビやビデオを通して外の社会のことをより具体的に教えられるからです。最近、アメリカの有志から中古のパソコンの寄贈がありましたが、なにぶんにも電気がないのでパソコンも目下はただの箱状態です。さらに今後の課題は、高齢者のみの世帯の増加です。現在65才以上の居住者は45人。全員が物乞いとわずかな手当て(月額500円に満たない)で生計を立てていますが、障害のある人も多く、物乞い収入では一日二食も満足には取れないといいます。今後増大する医療と介護の問題をどうするか、大きな問題です。

さて、一生に一度の大旅行からから帰ったタラマニさんとラディカさんはどのように仲間に報告したのでしょうか。その後コロニーを訪問したウパディヤイ教授によると、こんな風でした。

「生まれて初めて海を見た!!果てしなく広くて、一体何キロ先まで続いているのかしら?」

「初めてエアコン付きのバスに乗った。エアコンのある部屋で食事をした。」

「想像も出来ないよう集まりだった。ほかの州から参加したハンセン病回復者の女性たちが、自分たちと同じような苦しみを体験したけれど『アイデア』※4の支援と努力で生活向上にたちあがっているのを知った。」

「自分たち自身が、権利を求めて立ちあがらなければ、だれも助けてはくれない。ハンセン病回復者の場合は特にそうだ。」

「女性はインドの家庭の基本だから、男性たちが達成出来なかった『自立』は女性たちの力で勝ち取らなくては。」

「女性にとって結婚がすべて、と考えるのは間違っている。自分の面倒は自分で見なくては。生きる力をつける機会がほしい。」

惨めな人生、と言っていたラディカさんとタラマニさんは、コロニーの女性たちを前に、大きな声で、チェンナイの集会のことを繰り返し語って聞かせたので、「私たちも話をしたい、聞きたい。次ぎの集まりはいつなの?」と、みんなの期待を掻き立てたということです。

インドは花の豊富な国です。特に南インドの女性たちは長い黒髪を後に束ね、香りの高い花の房を飾ります。毎朝会場の入口に色とりどりの生花の房がお盆に盛って置かれていました。会場に入る女性たちは一房取って髪に飾るのです。会場の人々を背後から見ると髪に飾られた花々が、色とりどりのサリー※5の色と交じり合ってなんとも華やかな雰囲気でした。女性たちはそれぞれに生活の重荷を抱えて生きている人たちですが、個性あふれる色調のサリー姿がなんと美しかったことか。良く見ると決して高価なサリーではありませんでしたが、褐色の肌に良く映える鮮やかな色と、個性的な組み合わせの数々。貧しい人も、多少は余裕のある人も、全員が毎日違った配色のサリーで現れる。インドの女性の心意気をしっかり見せられたチェンナイの集会でした。

  1. インドにはハンセン病と婚姻関係に関する幾つかの差別法がありました。ムスリム婚姻法(1939年)、インドキリスト教婚姻法(1872年)、ヒンドゥ婚姻法(1955年)は、いずれもハンセン病罹患を婚姻解消要件として認めていました。
  2. 参考:ウパディヤイ教授の報告「生存のための闘い」
  3. 小学校の運営は地域のNGOとイタリアのNGOの支援を受けています。昨年、日本の「競艇チャリティ」からの資金約40万円で、飲料水用の井戸、トイレ、廊下の屋根、校庭の遊具などが寄贈されました。
  4. 『アイデア』ハンセン病回復者による相互支援組織。インド・中国・エチオピア・ナイジェリア・ネパール・フィリピン・アメリカなどで、ネットワークを作って回復者の尊厳と自立のために発言と活動をしている。
  5. インドの女性の伝統的な衣装。短いブラウスの上に、幅一?以上、長さ六?以上に及ぶ一枚の布を身体に巻きつけて纏う。本来は絹や木綿だが、現在は化繊も多い。織りや模様、刺繍により地方の特徴があるほか、着かたも地方によって変わる、インドの文化を深く反映した女性の衣装。
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