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出会い(11)マルタ 地中海に浮かぶ島国

ラザレット
対岸に見えるアーチのつながった建物は、バレッタの港と目と鼻の先にある小島(現在は橋でつながっている)に16世紀に建設された検疫所。ラザレットとよばれていた。
© Yamaguchi Kazuko 2004

2004年5月1日「地中海に浮かぶ島国マルタ」の名前は世界のメディアに載りました。北欧のバルト3国やポーランドとならんで、マルタ共和国はこの日から発足した拡大EU(欧州連合)の一員となったのです。マルタの名前が世界的なニュースであったのは、(マルタの人々には失礼ながら)東西冷戦の終わりを告げた1989年12月のゴルバチョフ・ブッシュ(父)のマルタ会談を除けば、多分60年近く前の第2次世界大戦中、ドイツとイタリアの攻撃の下で‘英領マルタ’(当時)としての役割を果敢にはたした時だったのではないでしょうか。

本年3月思いがけずマルタに行く機会が出来ました。ジュネーブの国連人権委員会出席の途上、マルタの国際海事法研究所を訪問する日本財団の笹川陽平理事長一行に同行して、わずか一日でしたがマルタ訪問が実現しました。

マルタと聞いてまず最初に連想したのは、「島」とハンセン病との関連でした。洋の東西を問わず、世界の島々にはこの病気の歴史が刻まれているところが多々あります。先年ギリシャのエーゲ海を旅したホセ・ラミレス氏(カービルで治療を受けたアメリカ人回復者)は、青い海に美しい姿をみせる島々の中に、かつての隔離の島が少なくないことを驚きを持って記しています。※1 アフリカ大陸の南端ケープタウン沖合い12キロのロッベン島は、初代南ア共和国大統領となったネルソン・マンデラ氏が、人種差別闘争の中で囚われ、18年にわたり監禁された島として知られていますが、この島もかつては犯罪者とハンセン病患者の幽閉、隔離の島であったのです。マルタ、ゴゾ、コミナの三つの島からなる島国マルタはハンセン病とどのように関わったのでしょうか。

また、マルタはハンセン病を「根絶した国」として知られています。今日ひろく世界で実施されているWHO推奨の複合化学療法に先駆けて‘マルタ方式’とでも言うべき化学療法で、マルタのハンセン病は根絶されたと言われています。その後の状況を知りたいと思いました。

マルタ

イタリア最南端のシチリア島のすぐ先にある小さな島国のマルタ共和国※2 は、地中海のほぼ中心に位置するところから、歴史上幾多の民族の往来の足跡が残され、地中海、ヨーロッパ文明の歴史の跡が随所に残る国です。12世紀初頭、聖地エルサレムを訪れる巡礼の医療と保護を目的に創設された聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)は、各地を転々としたのちの1530年、神聖ローマ皇帝からマルタ諸島を本拠地として与えられます。そしてその後の270年近く、マルタ騎士団は当時の地中海に大きな勢力を誇ったオスマントルコとの数々の闘いを経て、マルタに独特の要塞国家と文化を作り上げて行ったのです。しかしながら、そのマルタ騎士団も、1798年ナポレオン軍の侵攻に破れてマルタの地を去ります。そしてその後再びこの地に戻ることはありませんでした。ナポレオン軍のマルタ占領は2年で終わり、1800年から1964年の160年間、マルタは大英帝国の地中海の拠点、英領マルタとして存在しました。第1次世界大戦の時は補給基地や傷病兵の医療にあたったことから地中海のナースとよばれ、第2次世界大戦では、連合軍の拠点として、ドイツ・イタリアの激しい攻撃に曝されながら持ちこたえたことは有名です。これに対し英国国王ジョージ5世は戦後マルタ国民全体を対象にその栄誉をたたえ勲章を授与しました。1964年英国の支配から独立して40年後の今年、欧州連合の一員となったのです。160年に渡るイギリスの支配の結果、地中海には珍しく英語がマルタ語とならんで公用語として広く話されており、気候に恵まれ、治安比較的もよく、今後ますます観光地としての発展が期待されている国です。

Order of Malta
8つのとがった角のある十字架がマルタ騎士協会のマーク。(マルタ騎士団のWebサイトより) © Order of Malta 2006

マルタといえば「マルタ騎士団」※3 も思い出されます。マルタ騎士団は1956年4月「ハンセン患者の保護と社会的リハビリテーションのための国際会議」通称「ローマ会議」を主催した団体として知られています。本部はすでにマルタにはなく、ローマにあるのですが、マルタに支部があるというので、まず訪ねて見ました。マルタ騎士団マルタ支部は文字通り街全体が要塞であったことを納得させる中世の城塞都市バレッタ市(首都で世界文化遺産)のほぼ中心部にありました。石造りの2階建てのこの建物の内部には騎士団の紋章「八つの尖角を持つ赤い十字架」がそこここに見られ、壁には歴代の騎士団長などの肖像が架けられた格調高い雰囲気で、マルタ騎士団マルタ協会会長クレモナ医師とナディヤ・チェトゥクティさん(女性)二人だけのこじんまりした陣容でした。この他に全国に88名の「騎士」の位を持つ人々がいて、いろいろな社会奉仕活動を行っているとのことでした。ハンセン病に関しては、お二人ともほとんど情報はなく、「マルタにはもはやハンセン病はなく、最後の居住地であったタルファルハ・エステートも居住者が全員死亡したので数年前に閉鎖された」というものでした。

タルファルファ・エステートの石垣
タルファルファ・エステートの石垣。 © Tominaga Natsuko 2004

実は今回の訪問に先だって、マルタのハンセン病に関していくつかの文献を調べていました。中でもスイスのジュネーブにあるマルタ医療騎士団のフランシス・ジュノー氏からは貴重な文献を紹介してもらいました。※4 それによると、中世までのマルタには、ハンセン病はさほど大きな問題ではなかったと思われます。病気として問題となるのは1800年題以降トルコやアフリカとの交流が増えたこと、特に1878年のロシア・トルコ戦争でイギリスが6,000人にのぼるインド人の部隊をマルタに駐留させたこと等を契機に患者の増加が見られたとされています。1883年には政府の調査委員会が設置され、患者数69名が報告されます。当時英国はインドをはじめ世界各地にひろがる植民地の国々でハンセン病患者の隔離にのり出しており、これにならってマルタでは1893年条例第7号が公布され、患者の報告義務と隔離が始まります。1899年男子収容所が救貧施設(プーア・ハウス)の一角に開設され、その後1913年には同所に女子施設が出来、ここにマルタのハンセン病隔離政策が完成します。しかし開設当初の男子収容施設では、入所者の不満が強く、繰り返し紛争や脱走が起こったと記録されています。これに困惑した当局が警察の力をかり、夜間は拳銃を携えた警官が駐在することにしたとの記載もみられます。

しかし一方この文献をとおして見られる当局の姿勢には、患者の隔離を病気の根絶の唯一の方法とするというよりはむしろ、入所患者には不満が解消できるような療養所内での仕事を提供する一方、治療法の探求と患者の早期発見のための医師の訓練などを重視するという方針であったように見られます。隔離条例は1919年以降たびたび改正され、外部委員による施設の定例調査の導入、非感染タイプの患者の在宅治療許可、家族検診などが導入されていきます。1937年にはゴゾ島のシャンブレイ要塞にも施設ができますが、1940年にはマルタ島、ゴゾ島の両施設とも「らい病院」という名称を患者側の希望により廃止し、前者を聖バーソロミュウ病院、後者を聖心病院と改称したとあります。

印象的であったのは次ぎの展開です。ハンセン病が隔離の対象である限り、社会の偏見は払拭されない。その結果患者はできる限り症状を隠し、治療の余地がないまでに症状を悪化させてはじめて診断にいたるという現状を打開するために、1953年4月、ハンセン病を一般の疾病と同様に扱う旨の提案が議会に出され、同年7月、条例第11号により強制隔離が一部の例外を除いて廃止されたのです。1957年、マルタの人口は314,369人、患者数は151人でした。これは現在のインドよりも高い数値です。小国マルタでなぜこの展開が可能になったのか、短い文献からは推測できませんが、大変興味深いことです。

かつての隔離施設であった、マルタ島内陸部イムギエレットの聖バーソロミュウ病院を求めてタクシーを走らせました。ここはかつての救貧施設(プーア・ハウス)のはずですが、すでに名称も変わり、聖ビンセント・デ・ポールという高齢者介護施設になっていました。広大な敷地の中に大きな石造りの建物がいくつも建っています。入所者の定員は1000人とのことでした。正門には遮断機があり、許可証のない車は中に入れないのですが、運転手の伯母が数年まえまでこの施設に入所していたとかで、守衛さんと交渉して中に入ることが出来ました。かつてのハンセン病棟聖バーソロミュウ病院は現施設の裏手にあったと聞かされ、車を進めました。それらしき場所は低い塀で囲まれ、アーチ型の石の入口の中にはすでに建物は見当たりませんでした。

1974年マルタ島とゴゾ島のハンセン病院が最終的に閉鎖された時、帰るところのない22人はタル・ファルハ・エステートと呼ばれた陸軍の兵営地の中に、住居と土地と年金と医療へのアクセスを保証されて移転した、という情報を事前に得ていましたので、マルタ騎士団のナディヤさんは「もう誰もいない」と言っていましたが、現地をたずねることにしました。市街地から20分程度内陸に入り、まだ古いマルタの風情を残している街や教会を通りすぎたとある一角が、タル・ファルハでした。マルタ特有の茶褐色の石垣が細く曲がりくねった道の両側に長く続きます。石垣の中はかつて住居があったであろうことを想像させましたが、今では雑草と潅木に覆われて荒れ果て、全てが過去になったことを如実に語っていました。この一角もごく近くまで広い道路が通り都市が迫っています。マルタのハンセン病の最後の章は、記録されること無く開発の波にのみ込まれて行く様が目に見えるようでした。

さて、最後にマルタのハンセン病根絶についても触れておきたいと思います。1972年6月マルタ政府保健省はマルタ騎士団、ドイツ救らい教会、ボルステル研究所(ドイツ)の支援で、「アイソプロディオン−RMP」※5 によるハンセン病複合化学療法(MDT)通称「マルタ・プロジェクト」を決定し、その年の12月から開始しました。開始当時の登録患者201人(内180名は旧来のDDS治療を受けた)とその後あたらしく診断された患者60人の合計261人を対象に「アイソプロディオン−RMP」一日2回の服用の治療が行われました。服用の期間は個々人の症状に応じて5ヶ月から7年間、その後は毎月一回生検を含むフォローアップが1999年まで27年間続けられました。その間再燃例はなく、1990年以降新しい患者の登録もなく、「マルタ・プロジェクト」は1999年12月をもって終了し、マルタのハンセン病は根絶されたと結論付けられました。※6※7

マルタ・プロジェクトに関しては、これに関わった医師や研究者の立場からいくつかの報告書が書かれています。報告書は主として27年間261人を対象にしたMDT治療とその追跡調査の分析ですが、それらの行間に、いくつかの興味深い情報が読み取れます。まずこのプロジェクトは、患者自身が管理しやすい2種類の薬の服用を中心に組み立てられていたので、在宅での治療を原則としていました。治療を受ける際にはマルタ唯一の総合病院の皮膚科に通院し投薬とフォローを受ける仕組で、通院できない場合は訪問診療もありました。もう一つの島ゴゾ島にも2週間に一度外来診療が開設されていました。200人の対象者を一斉に入院させて治療するという方式は考えられていません。プロジェクトの対象となった総数は261人ですが、1972年の開始時点で登録されていたのは201人ですが、プロジェクト開始後から4年の間に29人があたらしくハンセン病と診断されますが、その後は次第に減少して行きます。プロジェクトの開始に当たって当局は、積極的は患者発見活動はしないという方針をとりました。マルタは小さな国で人の動きも少ない国です。いいかえれば誰がどこで何をしているかがすぐわかるのです。そのような社会で大掛かりな患者発見活動をすることは患者と家族を社会的偏見に曝すことになる、という判断であったようです。したがってプロジェクトが始まり、MDTの好結果が知られるにつれ、自発的に診断を求めてくる人が増えたと分析されています。またMDTの効果が確認される結果、ハンセン病患者の社会復帰への対策の必要性にふれた報告書も見られます。

今回のマルタ訪問は時間の制約のため、マルタ・プロジェクトで治療を受けた側の人々との接点を作ることが出来なかったことが大変心残りです。全ての患者さんたちが治癒し、施設や集団で生活をしている人はもはやいない、ということは事実でしょう。しかしながら、マルタ・プロジェクトの詳細な報告書には、1980年に新しく診断された16才の人、1981年の19才の人、1982年の29才の人、1989年の32才の人などなど、当然ながら現在もマルタの街のどこかで生活していると思われる人々の記載があります。この人々やその家族がどのように生きてきたのか、マルタの社会はハンセン病とその患者・家族の人々にどのように対応したのかをはかり知ることも出来ませんでした。いずれの国であれ、その国のハンセン病の歴史の最終章は、家族を含む当事者のかかわりなくしては完結しないと考えます。

  1. スター誌 (カービル療養所入所者発行) 60-4号(2001年)
  2. 面積はマルタ・ゴゾ・コミノの三つの島を全部あわせても淡路島の半分程度、人口は38万人。
  3. マルタ騎士団は1834年、マルタを去りローマに本拠を移す。国土はないものの、国際的には独立国と同じ地位を認められ、国連にはオブザーバーとしての地位を与えられている「国」。世界の各地に代表部があり、「騎士」の称号を認められたボランティアがいる。マルタ共和国の首都ヴァレッタにはマルタ騎士団マルタ支部が置かれており、病院の慰問や社会事業活動をボランティアが行っている。CIOMAL(スイス・ジュネーヴ)はマルタ医療騎士団のハンセン病活動部門で、1956年のローマ会議の結果を実行するために、「スイスらい協会」が発展して創設された団体。規模は小さいが、国際ハンセン病連盟(ILEP)のメンバーでアフリカ(セネガル)やアジア(カンボジア)でハンセン病対策、リハビリテーション活動を行っている。
  4. 「マルタ医療史」ポール・カサ−ル著 ウェルカム医療史ライブラリー1964年
  5. リファンピシン(300mg×2カプセル)+アイソプロディオン(2錠)を週6回服用。アイソプロディオン1錠はアイソニアジッド75mg・プロチオナミド75mg・DDS50mgを含む。後にリファンピシンを含む4剤を合成したアイソプロディオン−RMPが完成。服用期間は6ヵ月から84ヶ月まで個々の症状による。
  6. マルタ・プロジェクトに関しては、Leprosy Review (1986) 57, Supplement 3 及び Chemotherapy 2001; 47:309-331などにいくつかの報告がある。
  7. 1992年ドイツのヴユルツブルグ市でマルタ・プロジェクトの成果に関するシンポジウムが開催された。その報告は国際らい学会誌に収録。の創設者でバクラウの協力者。後にアメリカ救らい協会会長となる。第13回国際ハンセン病学会の組織委員長。

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