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出会い(13)一歩踏み出した人々

2000年以上も前から、人々の心に刻み込まれてきたハンセン病のイメージが変わる条件ができたのは、ほんのここ4‐50年ほどのことです。長年にわたって社会が受け継いできた偏見がなくなるには、まだまだ長い時間がかかるということは、日本を含む世界の各地で見られることです。偏見との闘いは、数々の啓発教育もさることながら、病気にともなう深い苦難を生き抜いて来た、当事者たちの心の叫びに耳を傾け、その人間に触れることなくしては不可能なのではないか、とつねづね感じている1人として、世界の各地で社会にむけて声を挙げ始めた勇気ある人々の姿を紹介してきました。

2004年7月末、インド中西部のマハラシュトラ州のプネ市で、偏見をなくすための活動における回復者の役割を考える興味深い集まりがありました。社会のハンセン病にたいする認識を変え、人々が進んで診断をうけられるような環境を作ろう、という狙いもあったのですが、なによりも、従来専門医や保健医療関係者、一部の関連NGOの存在だけが見えたこの世界で、回復者を活動のパートナーとして認識しようという呼びかけは、当然であり、むしろ遅きに失したとさえ言ってよいでしょう。 ※1 当事者の参加は時代の流れでもありますが、なによりも、人々の心の奥底に残る偏見を払拭するには、関係者や専門家にたよる活動では不可能、という認識が生まれていることを示しているのでしょう。

インドでハンセン病回復者の自立的な活動としては、すでに以前にご紹介した南インドの「アイディア・インド」(ゴパール氏をリーダーとする43の定着村の連合の活動など)があります。しかし、インドは人口10億、面積は日本の9倍、公用原語17という巨大な国です。南部での活動が他の地方に広がっていくのは容易なことではありません。
今回の集会にマハラシュトラ州政府やWHOの代表、州内の郡の保健担当、長い歴史をもったハンセン病NGOの他に、新しいパートナー、回復者の側から23人(男性22人女性1人)の参加者がありました。23人は全員、州内の主要なハンセン病療養所、定着村、共同組合から選ばれた人達でした。マハラシュトラ州 ※2 は、マハトマ・ガンジーが、ハンセン病を病んだ学者をセワグラム修道場の一角で介護したことで知られている州でもあり、また、その近くのワルダ市には、1950年代からインドのハンセン病対策に先駆的な業績を残したガンジー記念ハンセン病財団の本拠地があります。この州は元来患者さんの多い地方であったこともあり、早くからハンセン病に関わるいろいろな活動が行われた地でもあります。参加者は、バーバ・アムテ※3 が1949年に創設したMSS(ハンセン病奉仕協会)を基礎に、今日大きく発展したアナンダワンのコミュニティ、1953年ターネ郡に発足したハンセン病回復者村を中心とするシャンティバン、経済活動を通して社会復帰を目指すミノ・メタ工業共同組合※4 、BLP(ボンベイ・ハンセン病協会)などから参加した人々でした。
この23人はいずれも何らかの職業をもち、それぞれの所属の場では代表的な地位にある人々でしたが、このような集会の場で、広く社会各層の人々とテーブルを囲んで対話することには未だ十分な経験がないのか、数人を除いて、遠慮がちな様子が目に付きました。回復者たちは、この会の主旨を理解し、集会の場で自らの人生の体験を話すことを了承して参加しており、それぞれに、おそらく初めての経験だったのでしょう、自らの体験を語りました。州内の主なハンセン病関連の施設や村から招聘されたのですから、当然といえば当然なのですが、1人1人話しはじめるのを聞きながら、これらの回復者全員がそれぞれの「施設」の枠内で家庭をもち、人生を築いてきた事実に複雑な想いを禁じ得ませんでした。

ジルダ
シャラユー・サラフさん
© N. Tominaga, The Nippon Foundation

唯一の女性参加者、シャラユー・サラフさんは、50代の女性。親しみやすく開放的で、まっすぐに相手を見据えている眼鏡の奥の視線にまずに惹きつけられました。英語は理解するのに問題はありませんが、話すのにはやはり地域のマラティー語を選んでいました。「サラフさんは大学卒。現在シャンティバンの図書館で働いています」という司会者の言葉に、一瞬、ああこの人も、という思いを抑えることは出来ませんでした。
シャラユー・サラフさんは高校の頃に身体の異常に気づきました。炊事の手伝いをするときなど、火傷を繰り返す彼女に家族は炊事をサボりたいからわざとやっているのじゃないか、などとその症状にまったく気づきませんでした。成績優秀な彼女は同州のナーグプール大学に進学しましたが、その後顔に症状が現れ、両親につれられて訪れた専門医の診断でハンセン病であることが判明しました。言うまでもなく、ハンセン病は社会から恐れられている病気でしたので、家族は衝撃をうけましたが、彼女を守り学業を続けさせるために、本当の病名を告げずに治療をうけさせたのです。幸い症状は改善し、シャラユーの大学生活も無事に進行して行くかに見えましたが、神経に残された障害のため、両手の指が変形し始めました。両親はシャラユーの将来を思って両手の形成手術を受けさせました。手術は必ずしも成功ではなかったので、変形は多少のこり、彼女自身も病気の現実を知り、また周囲も知ることになります。しかし成績も良く、意思も強い彼女は学業を続けました。大学2年の時、学生委員の選挙があり、シャラユーは立候補しました。対立候補であった男子学生は、シャラユーがハンセン病患者であったことを公然と攻撃の対象にしました。しかし学校当局がこのような個人攻撃を非難する姿勢を明らかした結果、シャラユーは学生委員として選出されたのです。またこの時代、シャラユーの手指の変形を見つけたバスの車掌がバスを降りるように要求したことがあります。これにたいしシャラユーは、内心動転したものの、何に基づいて、公衆の面前でこのような侮蔑的な要求をするのかと車掌に対しと詰め寄ったこともあったといいます。頭脳明晰で正義感に富んだ女性像が浮かびます。
シャラユーは、当時のインドの女性の多くがそうしたように、父の勧めにしたがって近くに住んでいたシャラド・サラフと結婚します。夫のシャラドは外見からはわかりませんが、ハンセン病の回復者でした。結婚当時夫は良い職についていましたが、その後いろいろな問題が起こって、二人は結局「ハンセン病回復者の天国」といわれていたシャンティバンに身を寄せたのです。この地で夫のシャラドはコンピューターの技能を修得し、シャンティバンのコンピューター技師として、シャラユーはここの図書館司書として働く場を得ました。生まれたばかりの息子を失っていた二人は、養女を育て、その娘も現在大学に在学中だということでした。
シャラユーの話しからは、一見絵に描いたような幸福な人生模様が見えるように思われます。今から20―30年まえのインドの社会で、ハンセン病を背負って生きる人生としては、これ以上を望むのは酷だということは十分理解してはいても、敢えていえば、この種の「天国」を作ることが解決であることを疑わなかった、'善き人々'の側の'罪'を感じさせる発言でした。

プラカシュ・パティル氏
プラカシュ・パティル氏(写真左)―回復者が経営する自動車部品工場の前で

プラカシュ・パティル氏も自らの人生を語った人の中の1人です。40代半ばのプラカシュの例はまさに、適切な治療ですみやかに病気回復を果たし、社会復帰した「成功例」でした。1978年、脚にあらわれた小さな斑紋でハンセン病と診断されたプラカシュは、大きなショックを受けましたが、ほかに何の症状もないので病気と信じることができず治療を受けませんでした。ところが2年後、今度は顔に腫れが現れました。この時は直ちに専門医の指導をうけ、2週間の入院後、服薬をつづけた結果、一年後には治癒となりました。ボンベイに近いプネには当時すでに優れたハンセン病専門医や専門医療機関があったということが幸いしたと思われます。

プラカシュ・パティル氏
プラカシュ・パティル氏(写真中央)―工場で働く女性とともに

当時、プネ郡ハンセン病協会が回復者に自立のための技能訓練をしていることを知り、治療が完了するとすぐ参加しました。そこには500人近い仲間が社会復帰をねがって努力していたといいます。動力織機の操作、工業技術、製箱、製本など、いずれも経済的自立を目指した技能のなかで、彼は工業技術のコースに参加しました。1987年には技能訓練の当然の帰結として、就労の場が必要ということで、プネ郡ハンセン病協会は内外の支援を得て、回復者や障害者が働くための工場を建設したのです。プラカシュは自動車部品の製造工場に就労し、インド産業界の大手の企業などからの注文を受けて部品を製造し、収入を得るようになりました。その結果人生は望ましい展開を見せました。結婚し、家庭を築き、夫婦ともにこの部品製造工場で働きながら、子どもを育て、小さな住居を購入するところまで来たプラカシュの話しは、たしかに成功物語の一つです。彼自身は、外見的にはハンセン病を想像させるものはなにもありませんが、早期診断、早期治療の恩恵を受けた者として、社会の人々に訴えることに何の抵抗もないと今後の活動への参加にも意欲的です。

この他に、マハラシュトラ中部のタポバン療養所で医療ケースワーカーをしているガジャナン・チューテ氏や、同所の事務長を努める男性。ボンベイ・ハンセン病協会に雇用され、障害のある回復者の訪問介護にあたっている人など、いずれも立派に'働いて、自活している'人々でした。社会での啓発の役割を、という今回の集会の主旨は十分に理解してはいるものの、手足に障害をもっている人の中からは、社会の人が障害を見て、ハンセン病は治っていないと誤解するのではないか、といった危惧の声が聞かれたのも事実です。

ハンセン病の患者・回復者にたいする偏見は不当であり、払拭されなくてはならないというメッセージは、当事者たちが声を挙げないと人々の心の奥深くには届かない、というのは誠に正しいとことであると思っていますが、そこに至るプロセスには時間がかかります。今回、マハラシュトラ州プネ市の集会に招聘された回復者たちは、いずれも働いて、収入を得て、家族を支え、人生を歩んでいる人達でしたが、この人達の生きる環境は、例外なく社会の'善意'が長年の努力で築き上げてきた'仮想'社会であった、とうと言い過ぎでしょうか。今から20〜30年前の社会は、ハンセン病に対する偏見があまりにも根強く、回復者が一般社会の競争の中で自分の位置を確保することは困難であった、というのも事実であったでしょう。マハラシュトラ州は患者さんの多い地方であり、一方大商業都市ボンベイや工業・文教地区プネには、ハンセン病の専門家や社会活動家も多数集まっていたからこそ、回復者の生活を保障するための各種の'先進的な'試みが可能となった、という事もあるかとおもいます。

この集会に参加していた、WHO南東アジア地域事務所のハンセン病担当官デレック・ロボ氏は、1970―80年代に南インドのハンセン病NGOの責任者であった体験から、次ぎのように発言しました。
「私は、今日発言され皆さんの勇気に心から敬意を払います。しかしながら同時に、シャラユー・サラフさんが、シャンティバンではなく、どこか外の図書館の司書であったなら。プラカシュ・パテル氏がプネの一般工場の労働者であったなら。ガジャナン・チューテ氏がトポバン療養所でなくどこか他の機関のケースワーカーであったなら、と思わずにはいられませんでした」と。
ロボ氏の言葉は、今回発言した当事者たちに向けられたものではなく、この状況を作り出してきた、そして、この事態を正当化し、賞賛してきた社会の側に向けられたものであることは、いうまでもありません。とはいっても、発言者たちは、現状の保護された安泰から一歩踏み出したことは疑いありません。願わくば、世界の各地で声を挙げつつある人々との交わりの中からエネルギーをくみ上げて、当事者自身がさらにもう一歩踏み出して自らが変わり、そのことを通して、これまでの環境を作り出してきた側が変わる、そのきっかけを与えて欲しいものと思います。

  1. ハンセン病といえば、多くの人達がインドに思い当たりますが、そのインドでも新しい患者の数は激減している。一方、1985年以降のWHOの統計によると、全世界で1300万人にのぼる人々が複合化学療法による治療を受けて治癒したとされている。その内1100万人はインドから。つまり、新しい患者の数は少なくなっているが、治った人々の数は膨大ということになる。
    統計上、ハンセン病患者の定義は、化学療法による治療を必要とする人、と狭義に限定されている。この定義によれば、2002年4月から2003年3月末までの一年間に、インド全体で新しくハンセン病と診断された人の数は367,000人。(一万人当たり3.67人)しかしながら、2003年6月、全国合計77の郡で、100人の専門家(ハンセン病治療歴10年以上)で構成されたチームによる、現状分析・評価を行った結果、インド全体で、9.7%の新患者は誤診断、つまりハンセン病ではない。13.5%は、過去に治療を完了した人が再度「新患」として診断を受け登録されていた。5%の患者は架空のものつまり存在しない、といった、深刻な問題点が明らかになった。2004年6月、政府は前年同様の現状分析・評価を実施した。結果は2003年と大差ないといわれている。これを受けて、政府は緊急対策として登録・診断の正当性の確認作業を指示した。
  2. インド中西部にある大きな州。人口はすでに一億人を超えるインド第2の州。首都はインド西端の商業・港湾都市ムンバイ(ボンベイ)市。マラティ語圏。
  3. 恵まれた環境の生活からハンセン病患者救済に転じ55年、農村のコミュニティの総合的な発展、環境保存など、自身の哲学に基づいた一大コミュニティを創造し、世界的に高名な社会活動家。インド政府勲章、ダミエン・ダットン賞、マグサイサイ賞など多数。
  4. 回復者の社会復帰には技能の修得と経済的自立が不可欠と、1980年代に各種技能訓練の機会を作ったジャル・メタ医師の努力の成果として、1987年に自動車部品その他の軽工業製造工場が発足した。その後メタ医師の死後、プネ郡ハンセン病委員会が経営を引き継ぎ、2004年4月以降は、ミノ・メタ工業共同組合として全面的に回復者たちによって企業経営されているが、企業としての生存競走にさらされており困難が多い。

[山口和子(笹川記念保健協力財団)、2009年、原典:「青松」]

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