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出会い(15)ラウル・フォレロー

ラウル・フォレロー
© Fondation Raoul Follereau

『人はだれも自分ひとりだけが幸せになる権利はない。』

この言葉に代表される、数々の発言を具体的に実行し、結果を出し、社会の良心をめざめさせると同時にハンセン病の世界に大きな足跡をのこしたラウル・フォレローについては、かねがね知りたいと思っていましたが、著作がすべてフランス語であるため、手をつけることが出来ませんでした。さいわい、今回フランスのラウル・フォレロー財団を通していくつかの資料を入手し、ラウル・フォレローの現代性・今日性にあらためて認識をあらたにしました。※1

ラウル・フォレローは1903年8月17日フランス中部のネーヴェに生まれ、1977年75才の生涯を終えました。彼の一生を記す年表の最後には、「弁護士、稀有の雄弁家、詩人、著作家、ジャーナリスト、良心の覚醒者、時代の証人、行動の人、ラウル・フォレロー、1977年12月6日パリに死す」と記されています。
ヨーロッパのハンセン病にかかわる組織の中には、その団体の名称にラウル・フォレローの名前を冠したものがいくつかあります。フランス ラウル・フォレロー財団、イタリア ラウル・フォレロー友の会、ルクセンブルグ ラウル・フォレロー財団などですが、このほか、ベルギーやスイスの団体も彼のよびかけに応えて活動を開始したといわれています。これらの団体はやがて1966年「ヨーロッパ ハンセン病連合」をつくり、1975年にはアメリカとアジアの国々をメンバーに加えた「国際ハンセン病連合」となり、今日に至っています。※2

ラウル・フォレローの出発点は、心に炎をもった詩人とでもいえばよいでしょうか。14歳の時、自作の詩を高名な詩人エドモン・ロスタン(シラノ・ド・ベルジュラックの作者)に送ったり、20才のときには、自作の詩がパリのテアトル フランセーズで朗読されるなど、すでに若いころから才能を発揮し、その作品には彼の生涯のテーマであった、愛をもって苦しみや不公平に戦いを挑む、という思想が高らかに謳われています。24才で、自らのよってたつキリスト教思想を護るという立場から「ラテン連盟」を結成し、国の内外におおやけに発言を始めます。この連盟の活動の一環として、ヨーロッパ諸国をはじめ、中南米など諸国を広く旅する機会を得、世界にあふれる貧しさを目の当たりにしたのです。

ハンセン病との出会い

ラウル・フォレローとハンセン病の出会いは、1935年二人の修道女との出会いと、その修道会の招きで翌年アフリカのサハラ地方をたずね、川べりの茂みのなかに隠れ住む異様な人々の姿を見たときでした。「あれは一体どう言う人たちかね」というラウル・フォレローの問いに、運転手は何の感情も示さずに「らい病だ」と答え※3、さらに「どうしてこんなところに」という問いにも「あれは、らい病なのさ」とはき捨てるように答えたのです。このとき彼は、自分たちの側の無知と身勝手さが生み出したこの現実を許すことは出来ない、と「らいとの闘い」に生涯をかける決心をしたのです。

このことを見てもラウル・フォレローが正義と情熱の人であったことは疑いのないところですが、何よりも彼が優れていたのは、この情熱をわかりやすい言葉で広く社会各層の人々に伝え、聞く人の心に刻み込む術に長けていたことです。彼にかかると誰もがアフリカの奥地の貧困や不正義に対して無関心ではいられないと感じ、何がしかの貢献が出来る歓びを感じるのです。たとえば、ナチスに占領されたパリを逃れてフランスの田舎を転々としていた1943年、彼は戦争と破壊と貧困から世界が立ち直るために、「貧者のための1時間」運動を呼びかけます。1年に1度、自分の収入(労働による収入であれ年金収入であれ)の1時間分に相当する額を「貧者のために」ささげようというものですが、単にお金を出すという行為ではなく、1年に1時間で良いから、世界の貧しい人々の上に思いを馳せよう。そしてこの愛の鎖で世界をつなごう、とよびかけたのです。もちろん呼びかける彼の言葉が優れていたことは言うまでもありませんが、このよびかけに対して最初の年だけで25,000人を上回る人々が献金で彼に応えたのです。その多くは、むしろ貧しい人々からの申し出であったといいます。「貧者のための1時間」運動は10年間続けると彼は最初から宣言していました。これは、貧しい子どもたちが歩けるようになり、教育を受け、自立するか、あるいは養父母を見つけられるまでの期間、と当初から期限をきり、約束どおり1953年に終了しました。
もうひとつラウル・フォレローの面目躍如とでもいえる例があります。1946年、戦後間もないクリスマスを迎える時期に、「暖炉に3つの靴を」という呼びかけをしています。※4 「暖かい家庭の愛につつまれてクリスマスを迎える皆さん、世界にはあなた方と同じように笑顔でクリスマスを迎えたくても何一つもらえないこどもたちが何千何万といます。あなたの幸せやおもちゃを分けてあげたいと思いませんか?『クリスマスに靴を3つ暖炉に置いてもいい?』とお父さん、お母さんに聞いてみましょう。」「2つは君のために。もう1つの靴は、君のおかげで笑顔で朝を迎えられる子どもたちのために。」
この呼びかけも大成功でした。
「自分ひとりだけが幸せであってはならない」というテーマは、ラウル・フォレローの多方面にわたる活動の根底にあるもので、特有のジャーナリスト的センスで世界の不公平を描き出し、自らを振り返り他人の幸せを考えることの意義と歓びを社会に訴えたのです。「フランスで1960年に売られた口紅の数は2,720万本、金額にして80億フラン。」アメリカでは1年間に5億3,000万ドルが飼い犬の餌代に、1億2,500万ドルが猫ちゃんの繊細な胃袋に消えた。」「1分間で終了したボクシングの試合にかかった経費の総額は430万ドル。言い換えれば1秒あたり71,683ドル。これは100人のアルジェリア人貧農の1年間の収入に相当する。」などなど、機知と創造性にあふれたメッセージは読む人を納得させ、行動につなげていったのです。
1939年、先に述べた修道女の招きで西アフリカ、コートジボアールの首都アビジャン近くの浅瀬にある「欲望という名の島」を訪れました。彼がそこで見たものは、「らいを病む人々が集められた牢獄であり墓場」であったのです。この島に下り立ったシスターたちは、「白衣と笑顔に身をつつみ、病人たちの手をとり、話に耳を傾け、ともに涙をながしていた」のです。そのシスターの一人から、アビジャンから15キロ奥地に、つまり隔離の島ではなく陸続きの土地に、森を開墾して、この人たちの村を作りたいという、当時としては途方もない(と修道会が否定した)計画を打ち明けられます。これがその後10年間ラウル・フォレローが全力を傾けた、アゾペ村プロジェクトの始まりであったのです。※5 彼の役割は資金の調達でしたが、彼の持つ唯一の道具は、社会に訴える「言葉」でした。フランス全土はいうまでもなく、ベルギー、スイス、アルジェリア、チュニジア、モロッコ、カナダ、と講演を重ね、アゾペ村建設に象徴される、正義と愛の行為を、彼独特の弁舌で聴衆を魅了しつつ展開していったのです。アゾペにかかわる過程で、必然的に医療の専門家との接触もうまれ、彼の関心は世界のハンセン病の状況に向かいます。彼にとってハンセン病は、社会の不正義と不平等の究極の象徴であったことは理解に難くないのですが、彼の場合には、単にこの病気にまつわる「悲惨」を強調することによって、「救済」する行為の崇高さ、愛の高さを印象付けるという、一種の典型的ともいえるかかわり方ではなかった、と思われます。

世界に向かって発言する

世界の各地に知られざるハンセン病問題があることに気付いた彼は、1943年、世界らい病委員会を設置し、全世界の患者の数、分布、社会的状況、支援状況などの資料を収集することを提唱します。しかし、当時この提案に耳を貸す専門家はなく、これが実現するのはそれから20年後のことでした。世界の状況把握の重要性を感じたラウル・フォレローは、最初の世界一周の旅に出ます。このときダミエン神父の奉仕したハワイのモロカイ島も訪れています。次の年再び旅に出て、アフリカ、アジア、インド洋の島々を訪ね、ガボンのランバレネでシュヴァイツアー博士に会い、「その日はちょうど聖金曜日であったので、博士がピアノでバッハを弾き、その周りをらいの患者さんたちが囲んでその日を祝った」と記しています。この旅は「らいを病む人々への旅」と題した著作(絶版)になるのですが、その中で彼は、「二十世紀の今日、自由と博愛と民主主義が謳われる時代にこのような現実があってよいのか。私は恥ずかしい。何百万人という人々が信じがたい孤独と悲惨と汚濁の中に息絶えつつあるというのに、まともな食事をし、睡眠をむさぼる生活は恥ずかしい。旅をとおして、らいを病む人たちが、精神病院に監禁され、砂漠に追放され、牢獄にとらわれ、墓場に追いやられているのを知った私は、声を大にして叫び続けなくてはならない。世界の良心を目覚めさせなくてはならない。」と書いています。

このときからラウル・フォレローの活動は、より広い世界に向けてハンセン病患者の処遇をめぐる不正義を訴える方向に展開します。その第一は1952年の国連事務総長に宛てた陳情書です。ラウル・フォレロー自身これは自分のハンセン病への戦いの基本となる文書であると記していますが、※6 今から思えば、この文書が50年以上前に公表されていたということは驚くべきことです。この中で彼は概略を次のようにのべています。
「二十世紀の自由と民主が謳われる世界で、結核より感染力が弱いこの病気で、罪を犯したわけでもないのに、多くの人が社会から隔絶され、劣悪なゲットーに永久に追放されているという事態は許せない。しかもこのような患者に関する正確な統計がどこにもない。私は自分で見聞きし、調べた結果、世界の患者数は少なくとも1,200万人と推定する。これはつまり人口200人に1人であり、結核患者2人にらい患者1人の割合となる。この病気はどこでも恥ずべき病とされていて、国も家族も患者を隠している。したがって信頼できる統計もない。加えて、最近の科学の進歩で、この病気はほぼ治るか伝染性がなくなることがわかっている。我々が勇気を持ってあたれば、50年以内にこの病気を制圧することは可能である。患者を隔離する必要などまったくない。患者は他の病気の患者同様、在宅でケアされるべきである。早期の場合は特に。もし病状が危険である場合には、特別の病院に隔離棟が必要になろう。しかしその場合にも、患者の人格は絶対的に尊重されなければならず、各人のもっとも崇高なる善、つまり個人の自由は尊重されなければならない。治った人は社会に復帰すべきで、"私は癌だった"というように"らいだった"とためらいなく言えるべきである。今日、らいは医学の問題というよりむしろ人間の問題だ。単に病気になったということで何百万人もの人々が追放されている現実を許すことができるのか。沈黙はときとして共犯者をつくる。」
「国連総会、とくに社会経済委員会に訴える。らい患者の世界的な調査をし、現状を把握すること。直ちに、各国に対し、らい患者に人間としての基本的権利と自由を保障する勧告をだすこと。国連総会の名において宣言を採択し、さらに、らい患者の尊厳と権利を守る法令を作成するための国際会議を招集されたい。宣言は次のような内容を含むものとする。『牢獄や共同墓地のごとき、らいコロニーは文明国には認めがたい。らい医療の進歩の結果、コロニーは閉鎖されるべきものである。らいコロニーは入院介護を必要とする場合のための療養施設に転換されるべきで、一定期間が経過し、非感染となった場合は自由に社会に復帰できることが保障されるべきである。』」
ラウル・フォレローはこの陳情書を当時のフランス共和国大統領に手渡し、外務省、WHOなどの手を経て、1954年3月、フランス国会において全会一致で「次期国連総会に、フランス政府として、らい患者にかかわる国際的な法令の作成を提案する」ことが決議されます。※7

「世界らいの日」と「ローマ会議」を提唱

1950年〜60年代、ラウル・フォレローはハンセン病に関して国際的に目覚しい活動を展開します。その一つは「世界らいの日」の提唱であり(後述)、いま一つはローマ会議の開催です。※8 ローマ会議についてここで詳しく述べる余裕はありませんが、1956年4月16日からローマで開催された「らい患者の保護と社会的リハビリテーション」と題された国際会議は彼の提唱によるものでした。この会の目的について、彼は次のように述べています。
「らいの問題には、『らい』という病気そのものと、『らい病人(レパー)』という病気と二通りの病気がある。前者は今日完全になおる病気で、感染力も弱い。しかし、病気が治っても、その人は永久に『らい病人(レパー)』だというのであれば、治るということは一体どういう意味なのか。」「これはこの病気に対するバカバカしい風評や宣伝の結果だ。この現状を変えるには、この理不尽で犯罪的とも言える恐怖感に取り付かれた『健常者の側の治療』が必要なのだ。」
ラウル・フォレローの多彩な活動の全容は限られた紙面ではとても紹介しきれませんが、なかでも彼が提唱した「世界らいの日」は、今日なお世界の各地でさまざまな形で啓発と募金の機会として引き継がれています。1954年1月の最後の日曜日、彼は世界にむけて「今日の日を全世界の何百万人のらい患者のことを考える日としよう。なぜ自分ではなく、彼らであったのか」と呼びかけたのです。当初から毎年1回、1月最後の日曜日の「世界らいの日」は12年間継続する、と期限を切り、その間、治療、仕事、尊厳、権利、愛、平等を言葉をつくして訴え、また世界はそれに対して献金と行為で応えたのです。12年目の1965年には世界の127カ国でハンセン病に関連する行事が行われたとされています。彼にとって最後となった12回目のアピールの中には次のような一節があります。「らいとの戦いは単に病原菌との戦いに終わらない。またらい患者のコロニーの問題だけでもない。この戦いは我々自身の心の中の戦いでもある。我々1人ひとりが心の中に受け継いでしまったらいに対する恐怖感を勇気をもって乗り越える戦いだ。」「この病気に対する罪悪ともいえる恐怖感をいだいている『健常者』も同時に『治療』されなければならない。」

日本で光田健輔氏に会う

ラウル・フォレロー
ラウル・フォレロー 光田健輔氏(国立療養所長島愛生園初代園長、写真中央)とともに。東京で開催された第7回国際らい学会にて。1958年
自伝「Love One Another」より

その生涯で世界を32周した※9 というラウル・フォレローは日本にもその足跡を残しています。1958年11月、第7回国際らい学会が東京で開かれたときに来日しています。「らいの社会的問題」部会での彼の報告は、この学会に新しい風をもたらした記念すべきものであったと評価されています。※10 この学会で彼は「敬愛する偉大な光田健輔氏」に会っています。※11 以前、彼はフランス人のある男性から、「これは僕の若いころに相次いで亡くなった両親が残してくれた唯一のものです。これを気の毒ならい患者のために使ってください。」と一組の結婚指輪を贈られていました。感動的な善意の象徴としていろんな人に見せてきましたが、東京で会った光田氏から「君の話に僕は説得されたよ」と云われたので、二つの指輪を啓上しました。「ちょうど長島(愛生園)で入所者同士の結婚があったことを聞きました。この夫婦は前例を破って、あのおぞましくも非人間的な断種をまぬかれたそうです。」「ヴァン・ウィーゼル神父が式を行い二人の指にこの指輪をはめ、光田氏は記念に指輪の儀式を写真に撮らせた。」とあります。「君の話に説得されたよ」という光田氏の言葉が何を意味していたのか、これ以上はわかりません。このときラウル・フォレロー55才、光田健輔82才でした。

「らいは感染しない」 「なおれば誰も同じ人間」

1930年代から1960年代にかけて、ラウル・フォレローは世界をくまなく歩き、1,200万人とも1,500万人とも推定されていたハンセン病患者の救済をテーマに、大きな足跡を残しました。当時、ハンセン病は一方では専門医が取り扱う医療の問題であり、他方では宗教者による奉仕と救済の対象でした。そのなかで彼は、公衆衛生、隔離からの解放、差別の否定、社会復帰、人間としての権利、といった今日でこそ当たり前の視点でこの問題をとりあげて社会に訴えたのです。それも単に言葉だけにとどまらず、世界の各地の隔離の村々を訪ね、病む人々と親しく交わる行動を背景にした訴えでした。「私ほどらいの患者と沢山抱擁を交した者はいないだろう。それでも感染していないのだから、らいは感染しない。」「他の病気とおなじく単なる患者にすぎない。治れば他の人々と同じだ。」※12
少し意地悪く考えれば、社会の排除と悲惨の究極の象徴とも捉えられた「らい患者」の存在は、彼の正義感と人類愛のまさに恰好の対象であったのだ、ということも出来るかもしれません。平易な表現で大衆の心に刻み込む優れたアピールの数々。政界、宗教界、国際社会への大胆な挑戦状。彼は時代の先を行った賢者であったのか、それとも稀代のアジテーターだったのか。
30年にわたるハンセン病への取り組みを回顧して、ラウル・フォレローは「この戦いは勝利に終わる」と言っています。言うまでもなく、まだ問題は残るが、治療の問題もこの病気に対する社会の極端な恐怖感も、患者の隔離や排除もいずれなくなる方向にあることは確かだ、と大胆にも楽観的に言い切っています。

「残された課題は、人間を解放するということだ。そして自信を与えなくてはならない。絶望から立ち直り、身を隠していないで社会に出るように。病気は治ったら、もう皆と同じなのだから。仕事をもって、責任をもって、そして尊敬されて。」「この人間のために、私は今日まで30年間に31回世界を周ったのだ。」

ラウル・フォレローの時代を次いだ世界のハンセン病関係者たちは、この言葉の前に胸を張って答えられるだけの仕事をしてきたといえるでしょうか。いうまでもなく、彼の言動には「その時代」の意識にもとづいているものも多々あり、現代の我々には違和感を感じさせるものが少なくないのも事実です。しかしラウル・フォレローの30年にはそれを補ってなおあまりある本質的な正義があります。彼にとってチャリティーは単なる「慈善や施し」ではなく「人類愛・兄弟愛」とでもいうべき広く普遍的な概念で、死後30年近くたった今日も、その本質的な正しさでハンセン病にかかわる者みなに問いかけています。

  1. 参考文献「たがいに愛を」(英語版)ラウル・フォレロー著1968年/パンフレット「愛の書」(英語版)ラウル・フォレロー 他
  2. 笹川記念保健協力財団は1975年アジアから初めてこの連合に加盟しますが、そのころはすでにラウル・フォレロー自身は活動の第一線から退いていました。
  3. 本文ではラウル・フォレロー自身の言葉を引用する場合は「らい―原文レプロシー」を使った。
  4. フランスの風習では、サンタクロースの贈り物を受けるために、靴下ではなく靴を1足暖炉において置くのでした。
  5. 今日のアゾペ村は首都アビジャンから車で1時間程度。切り拓かれた平坦な地に村が拡がり、農業中心の生活。村には学校もあり、近代的とはいえないまでも医療施設があり、医療スタッフも常駐している。1961年、政府の財政援助が開始された。また、フランス フォレロー財団の支援で、ハンセン病に関する数多くの研究もアゾペで行われた。1990年代以降、ブルリ潰瘍の外科治療も行われている。
  6. 長文なのでここで全文を紹介することはできないが、邦訳予定。
  7. はたして国連総会が新たな国際法令を作成したのかどうか、確認されていない。1959年8月WHOの専門委員会がコロニーの縮小を勧告した。
  8. このほかにも、ラウル・フォレロー特有のアピールとして、世界のリーダーに信書を送り、それを公表して社会的アピールするという形があった。1944年、戦争の最中に、時のルーズベルト大統領に宛てて「戦争終結に際して、あと1日書類上戦闘を継続し、それに要したと想定される経費を、平和の構築に使うことを提案」している。1954年にはアイゼンハワー大統領とソ連のマレンコフ書記長に、さらに1959年には再度アイゼンハワー大統領とフルシチョフ書記長宛に「双方から戦闘機(推定1機50億フラン)を1機ずつ提供して欲しい。その費用で全世界のらい患者を治療し、らいとの闘いに勝利できるのに」と訴えた。指導者たちからの反応はなかったが、各地のハンセン病制圧への動きに弾みをつけた。
  9. 彼自身の世界各地訪問などに要する費用は、個人的財産や遺産を当て、献金はすべて現地支援に、というのが彼の活動の原則であった。しかし個人の資産にも限度がみえたとき、現地を訪れ、患者との交わりを重視していた彼は、目的を彼の旅費に特定した「会長−行ってらっしゃい募金」を訴え、大きな支持を得た。これはその後も繰り返されフォレローの主催する団体の活動費を捻出した。
  10. 「たがいに愛すること」145ページ
  11. 同書に挿入されている数少ない写真の一つに学会の会場で光田氏とならぶラウル・フォレローの姿がある。フォレローは終生彼のトレードマークであった黒いリボン状のネクタイをつけて。
  12. 「同じ人間なのだ」は彼に2冊目の著作(1956年)の題(絶版)。

[山口和子(笹川記念保健協力財団)、2009年、原典:「青松」]

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