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真宗(仏教)とハンセン病差別問題について

隔離の時代

幕藩体制崩壊後、明治新政府は欧米諸国を目標に、天皇を中心に国家体制の確立と経済基盤の充実を目指し、解放令・学制発布・徴兵令・地租改正と矢継ぎ早に政策を発表し富国強兵、殖産興業を急いだ。その中で、「ハンセン病発症者」の囲い込みを始める。
前節で、ハンセン病発症者は患者ということ以外に「らい」という身分であると書いたが、1871(明治4)年に出た解放令により、賤民身分の名称は無くなった。それに伴い被差別身分が持っていた特権である旦那場や勧進場がなくなり貧困が深まっただけで、差別は残ったように、らい者も「物吉」「道近坊」制度が無くなる。そして「浮浪らい」として、例えば四国の「ヘンド(辺土)」【註11】のような生活しか無いような状態に追い込まれて行く。もちろん、在宅の発症者も多数あったようだが、治療のために悪徳売薬業者に引っ掛かり財産を食い潰された末に結局浮浪らいになるということが多々あったようで。浮浪らいになる原因は、日本の道徳律の基本である家制度を護るためであり、決して個を護るためではなく。また個を護るべき佛教思想も前世の業を説く故に発症者を抑圧する。その業論が近代に入り遺伝と結びつき、発症者は家制度・業・遺伝に挟まれ家庭に居住することがますます困難になっていった。
これに対して政府は当初何の対応もしていない。それどころか弾圧を加えてゆく。例えば、1922(大正11)年3月25日大分県別府町的ヶ浜の非人(山窩)部落を警官十数名により焼き討ちされるという事件があった、公安上、犯罪防止上有害と判断したので焼き払ったとの発表であったが、実際は載仁親王の日豊線通過のおりに目ざわりであったためというのが真相であろう。
それに対して、大分新聞が違法性を非難し、また憲政会(政党)による追究もあった。当時結成されたばかりの水平社は、色々と議論があったようだが米田富が代表として出向いている。
しかし、それより時代が下がる、1940(昭和15)年に熊本県本妙寺のらい部落が警官の手により強制的に解体させている。(同様のことは、全国で終戦後まで何回か見ることが出来る)これに対しては世論もマスコミも特に取り上げていない。熊本市側の資料によると「従来この部落は社会的落伍者、前科者、不具者、癩患者に依って形成された特殊部落であるので・・・・・」(「いのち」の近代史、藤野豊著)と当時の被差別部落への名称である「特殊部落」を使っている。しかしこの時は水平社も特に動いていないようである。
水平社を非難するわけではないが、この事件は日本のハンセン病への思いを表す典型的な事例であると思う。
唯一当時布教が解禁されたばかりのキリスト教の救癩活動【註12】があった。しかしこのことが逆に政府の無策が問われることになる。
1899(明治32)年に欧米間との新条約が発効され、欧米人が自由に国内を往来出来るようになると、神社仏閣の付近でたむろしていたハンセン病発症者の集団が国辱として認識され、政府は、1909(明治42)年に「癩予防二関スル件」として全国五ヶ所に公立療養所が設けられ発症者の収容を行う。しかしこれは欧米人の目の届かない所へ発症者を隔離するものであり、民族浄化の為であった。このことは「本案ニ於マシテハ主トシテ浮浪徘徊シテ居ル者デ病毒ヲ散蔓シ、風俗上ニモ甚ダ宣シカラヌト云ウモノヲ救護イタシテ此目的ヲ達スルト云フコトヲ第一ニ致シテ居マス」という審議録から見ても明らかだ。この法律は元来浮浪徘徊者を対象とした法律であったが、1931(昭和6)年に「癩予防法」に改正され全患者の隔離を対象に広められる。このことに大きく貢献したのが光田健輔であった。光田は1951年文化勲章を受けるなど所謂名士だが、彼のハンセン病に対する考えや行動を調べると疑問点が数多く出てくる。光田の考えに対しては大谷派(東本願寺)の僧侶で医師である小笠原登や本願寺派の僧侶でジャーナリストであった三浦参玄洞が反論をするが【註13】、結局はハンセン病患者の隔離を進めていくことになる。この政策の過程で、隔離の大切さを説くためにハンセン病の伝染性をことさら強調し恐い病気であるということを宣伝してゆく。この結果として差別・偏見や恐怖感をさらに植え付けることになってゆく。これが今も続いている差別の一因をなしている。
一方隔離した患者には、「監獄より一等を減じるという位」(全生園患者自治会・倶会一処より)という対応しかなされない処へ押し込む形になった。本願寺教団内で起こったS布教使ハンセン病差別法話の中に出てくる「病気というより収容所だね。」という言葉はあながち間違ってはいない。しかしなぜこのような収容所になったのかという原因を明らかにしないと、差別を再生産するだけである。ここで差別布教を弁護をするわけではないが、このような偏見を生み出されて来た経緯と、それに本願寺教団がどの様に関わりを持っていたの明らかにしないと、差別が見えなくなるだけで無くなることにはならないはずである。
残念ながら本願寺教団がハンセン病に対して何をしていたのかということは、今回この一文を作成にあたり調べたのだが、詳しくは解らなかった。しかし、療養所に関しては早くから関わりがあったことは解る。例えば多磨全生園の記録をみると、1928(昭和3)年5月19日に前年に門主になられたばかりの光照前門主(17歳)が訪ねている。これは他の宗教団体と比べて見ても門主レベルの訪問は始めてのことで、どのような経緯で訪問されたのかは解らないが、注目すべき出来事である。
特に長島愛生園との関わりは深いものがある、それは1931(昭和6)年に愛生園が開園した時から始まる、この園は81名の患者さんが開拓者として長島に入られてからのもので、開拓という名前から解るように、とても開園とは言いにくいものであった。その開拓者の中に栗下信策氏が入っておられることが真宗との縁となる。栗下氏はまだ浮浪徘徊の患者でないと入院できなかった1912(明治45)年に光田健輔に懇願して全生院に入寮する。以後光田に恩義を感じて「全生院入院後、先づ院内同病者の求道信仰相続を計り、『真宗報恩会』を組織し、各宗と共に精神文化向上を計り、五ヶ所療養所内の病友と友好を計らん・・・」として信仰運動を繰り広げていく。これに対して真宗は東西両本願寺教団ともに支援をしてゆく。これは近世後期からの国家神道【註14】への流れの中で起こった廃佛運動に抵抗するだけではなく、真宗は国家神道体制への移行の中にあって、いかに真宗が有意義であるかという「真俗二諦」【註15】論が影響していると思われる。
この俗諦の中で、入寮者も慰問に訪れる人間も動かされているように思われる。確かに接することが出来る数少ない外部社会の人間は宗教者だけという側面もあり、入寮者は慰問に訪れられる人に対して、大変感謝をされている。また、1964(昭和39)年4月の本山団体参拝は、愛生園始まって以来のことで、島の中にとじこもるという観念が破られたということで、療養所としても重要な意味があった。このことが全国の療養所に知られることになり、なんとか本山へお参りしたい(園外に出たい)という動きになったようである。しかし、当時はまだまだ偏見や差別が根強く残っていて、入寮者の宿泊先を確保するにも苦労したという話を聞いたことがある。こうして見ると、療養所に関わった人は偏見等は無かったように思える。しかし、視線は療養所内に向いていて、なぜ園外の世間では偏見や差別があり、その原因は何であるのかということを考えるまでは至らなかった、園内にいかに真宗の法を説いて、入寮者の安穏を願おうかということに苦心されていた。その象徴が、1935(昭和10)年に建立された愛生園の「恵の鐘」【註16】で、この撞き初式、落成式には大谷〓(糸へんに壬)子裏方の代理本願寺派の高木執行が参列し、裏方の御訓話を代読している、
「“恵の鐘”は無限の法悦を伝えるものでなければなりません。患者の心の救いを呼び醒まし、社会に向かっては、健康日本建設の先駆たる役目を果たすよう念願します」(長島愛生園真宗同朋会五十年記念誌―淨華―ヨリ)という主旨の内容であった。これは大谷派暁烏敏の「皆さんは自分が悪くて病気になったのではないが、国家のために、多くの同胞のために、ここに家を離れて病気を保養しておるのである。皆さんが静かにここにおられることがそのままたくさんの人を助けることになり、国家のためになります。」と述べていることと趣旨は変わらない。ここでは、外部社会と関わらないことが、社会の為であり、療養所が入所者の為に存在したのでは無いということが解る。いわば隔離に対する思想的協力である。このことは戦後も継続する、例えば愛生園では「法務部員」【註17】として園内だけでの衣体着用の許可を1955(昭和30)年、1969(昭和四十四)年に兵庫教区が出している。これは栗下信策氏の要望に応えたものだが、現在の続いているものであり、社会外の者として肯定しているような事例なので早急に対応をするべきものである。
かつて、岡山で愛生園・光明園の報恩講や降誕会に出勤させてもらったことがある。その時に長年にわたり園に通われて入所者の方々と交流を深められた方のお話を聞く機会があった【註18】。外部から遮断された園では、真宗のみ教えが唯一の生きる糧であったということを何度もお聞きした。閉じられた園にあっては真宗しか無かったのであろう。しかし、残念ながらそのみ教えは、世を問うてゆくものとしては働かなかったようだ。

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[棚原正智(浄土真宗本願寺派光輪寺) 2003年4月27日、原典:「同和教育論究」23号]

真宗(仏教)とハンセン病差別問題について
はじめに
身分の時代
隔離の時代
新たな差別を見据えて

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