金新芽長老の人生
年ごとに成長する忠光農園
韓国「タサラン」(豊かな愛)誌、1998秋号から
「人間勝利! 金新芽長老の人生」
巌に挑む波の群れ
「その時、私は何年間かの療養所生活にもかかわらず、かえって病が悪化していたため満身創痍になっていました。療養院とは言いますが名ばかりで、原始的な治療法の上に、極度の栄養失調などがその原因としてありました。」
「結局、私は釜山の東側の海辺にある、また別の療養院を訪ねて行きました。その療養院は海を臨む岩壁の近くにあって、私自身の将来を考えながら夜通し祈り続けました。そして、次の日、その岩壁の上に座って、止め処もなく目の前に押し寄せて来る海の波を見
つめていました。」
「空は清々しく、太陽の光は燦然と輝いて、波が打ち寄せる海の上に無粋に降り注いでいました。腐り行く私の肉体とは違い、その姿はあまりにも爽やかで、美しいものでした。私はしばしの間、その光景に心を奪われながら座っていた時、ふと左側の下方の近くに見える岩島に目が留まりました。その岩島は五六島の島々の中で最も最後列にある島でした。特に私の目を誘ったのは、その岩よりも、その岩に打ち寄せて来てはぶち当たって砕け散る波濤でした。」
「私の目には、その小さな波濤の群れが小さい赤ん坊の姿のように見えました。かわいらしく純粋な赤ん坊のように近付いて来ては、何のためらいもなく岩にぶつかって砕け散る姿が目に留まったのです。後からやって来る小波が、前に砕けた小波を見てたじろいだり、あるいは『お母さん』と叫び声を上げて逃げて行かなければならないはずなのに、ただ赤ん坊のように無邪気に近付いて来ては、その小さな小波たちは岩にぶつかっては砕け散り、その次に、また違う小波たちも同じように岩に近付いて来ては砕け散って行ったのでした。」
「にもかかわらず、その岩島は眉一つ動かさないでいました。私は考えました。あの赤ん坊の小波たちは、どうしてあのように恐れも抱かずに砕け散り、ぶつかって行くのだろうか。どれほどぶつかって砕け散っても、あの岩島は微動だにもしないのに。」
「それから、私は百年、あるいは数百年、数先年、遠い未来のことを思い浮かべてみました。」
「あぁ!そうだ。まさにそうだ!あの赤ん坊の小波たちの後には、より大きな波が後から続いて来るのであって、そして、それが積み重なって大波となるのではないのか。そうだ。その時になれば、岩島はいつか波濤によって崩れ、また、崩れて骸骨のような姿に変わってしまうのではないだろうか。」
「そうだ。本当にそうだ!」
「その瞬間、私は本当に尊いことを悟りました。」
「そうだ!あるいは私は自分の個人的な闘病には失敗したかもしれない。しかし、あの岩島のように踏みとどまって、この国の多くの同胞たちを苦しめ、絶望に陥れているこの恐ろしい疾病にぶつかって行く一つの小さな波濤になろう!」
「それは、あの小さな赤ん坊小波のささやかな挑戦のように、今はたとえ無力に見えて、無意味に見えるかもしれないけれども、遠いその日を信じて、その日を期待して、私の取るに足らない人生ではあるけれども、この病をなくすために私の体を実験道具として捧げるんだ。私自身が最善を尽くして、この病をなくすために先頭に立って進んで行かなければならない!私の人生は、はかない花火のように見えるかもしれないけれども、私の体は実験道具となって、また他の多くの人々の生命に灯りをともすことができるのではないだろうか。」
「そうだ!あぁ、まさにそうだ!その日、私は涙と喜びで繰り返して声を上げながら泣き、そして、笑いました。それから、私は生涯をかけて自分の闘病生活に対して信念を持つことができたのです。」
「それは、まさに病に対する勝利の意思表示のようなものでした。」
死の谷からの再出発
「100年、200年後のことを一度、考えてみましょう。いつのまにか、その小さい小波の後には、また少し大きな波が、また次に少し大きな波が、また、ある時は小山のような波がぶつかって来ます。そうしたら、遠い未来には、あの岩島、あの傲慢な岩島も砕け散ってしまうのではないでしょうか。」
もう一度、心機一転して、療養院に帰って来ると、彼は自分よりさらに重症な同僚患者たちを見守りながら看護の世話をし、つらい仕事も不平を言わずに熱心に、献身的に、愛をもって尽くす生活を送るようになりました。
そして、学生時代に習ったピアノとマンドリン、トランペットなどの演奏ができることから演奏団や合唱団を組織して、夏になれば、同僚患者たちの心を癒し、勇気を呼び起こすために、トランペット演奏会を持ち、冬の日、クリスマスになれば、トラックに乗って市内を練り歩き、刑務所にまで行って演奏したりもしました。その時始めた讃美生活は50年が過ぎた今でも続けており、6年前、69歳になった年には、讃美カセットテープを出したりもしました。
「そればかりではなく、讃美を熱心に教えたり、小学校や中学校のような所でも演奏団を作って教えたりもしました。そうしている間にも熱心に治療に専念をしたら、病もきれいになっていました。」
年ごとに成長する忠光農園
金新芽長老がこの地に足を踏み入れたのは、今から22年前の1977年のことです。
その当時、まだこの地は保健社会部の支援で定着村が建設され始めた時期だったため、荒廃地のようなこの土地で自活生活をして行くというのは手易いことでありませんでした。また、彼らを率いて行く指導者もいない状態でした。それで、金新芽長老を知っている人が小鹿島にいた彼を、分裂と葛藤を繰り返していた彼らの中に伝道師として送ったのでした。
「今後、定着地で畜産をしようとするなら水がなければならないのだが、水はいつでも大丈夫で、また、消費都市がなければならないが、消費都市としては清州、大田、ユソン、鳥致院、それくらいあれば消費都市としては大丈夫だ。交通はここの前をバスが通る可能性もあるから、何箇所か地域的条件を見て、この地域を選ぶようになったのです。始めは皆、全て苦労しましたが…。」
ハンセン病のために物を見ることができない彼は53歳にこの土地に入って来て、数多くの苦労をしながら、定着するようになった何名かの同志たちと一緒に村を運営しながら、手に何も持っていませんでしたが、夢と希望を持って土地を耕し、山肌を開墾しながら信仰をもって生活共同体を作って行きました。
「私が始めた時、スローガンが何かと言えば、イエス様をよく信じ、畜産をしながら生きて行こう。そんなスローガンでした。まさに教会が村であり、村が教会であって、一つ一つが教会村である共同体を構成しているのです。結局、今99パーセントの人々が教会に所属し、教会を中心として、私たちの村は全体が皆教会員であると言えるくらいに、一つのそんな団体となっています。」
始め、この土地に来た時、彼らを知る多くの人々は、弱い体で定着村を立て上げ、教会を立てるという話を聞いて、心配をしたといいます。幸いにも神様の助けと様々な人々努力と協力により1800坪で始まった土地は、2年後には8000坪に増えるようになり、畜産の基盤を備えることができるようになり、いまや20年が過ぎた今は5〜6万坪にも及ぶ土地と共に全国的に畜産団地となっています。
「本当におもしろいでしょう。いまや、そうするしかないくらいに畜産は畜舎をたくさん建てなければならないので早い速度で畜舎ができているため、この近所の村では私たちの村のことをオバケ村と呼んだりしているくらいです。彼らの村は70〜80年の歴史があっても、家の戸数や村の状態がそのままですが、私たちは1〜2年の間に、みるみる家や畜舎ができて行くのです。」
「私たちはまた、おもしろいことに団体生活をしているでしょう。ですから、皆が大工であり、皆が塗装工なのです。そして、実際に同病相憐の心と信仰で結ばれているのではないでしょうか。さらに、団体生活を長い間して来たという経験、そのようなノウハウとも言うべき集約された求心点があるため、日に日に成長し、変わって行くのです。」
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[原典:韓国「「タサラン」誌、1998秋号、オ・ヨンギュン/著、菊池義弘/訳]
金新芽長老の人生
金新芽長老の人生(1) 金新芽長老を訪ねて
金新芽長老の人生(2) 小鹿島を訪問
金新芽長老の人生(3) 年ごとに成長する忠光農園
金新芽長老の人生(4) 日本のワークキャンプ団体の訪問
金新芽長老の人生(5) 障害者のために余生を捧げたい