金新芽長老の人生
小鹿島を訪問
韓国「タサラン」(豊かな愛)誌、1998秋号から
「人間勝利! 金新芽長老の人生」
小鹿島を訪問
大田から350キロ離れた海南の土地、全羅南道コフン半島の海岸地帯に位置しているノクドン。小鹿島に行くノクドン船着場は思ったより活気があり、一目見渡しても、多くの人々が行き来している所であると感じました。
小さい鹿の島と書き、手のひらに乗せられるくらい小さな島、天然の美しさに包まれている島村、それが小鹿島でした。朝の7時から夕方の6時まで、15分間隔で小鹿島とノクドンを行ったり来たりする動力船に乗ると、やがて小鹿島の船着場が見えて来ました。右側に「らい病は治る」という標語が立っており、その後ろに病院に通じる入り口がありました。
多くの哀感に包まれた小鹿島。小鹿島の歴史は日帝時代まで遡ります。1910年8月22日、韓日併合条約以後、日本人による弾圧によって韓国人の恨みが高まっていた頃、麗水、釜山、大邱などの地でハンセン病治療や収容施設など、患者たちの処遇問題が深刻な社会問題となっていた時、総督府が取り組んだのが、1916年、集団収容所としての小鹿島病院の開設でした。当時、朝鮮にいた大部分のハンセン病患者たちは疾病と共に家庭と社会から疎外され、経済的に苦しい生活をしていたため、日帝時には、医学的な管理対象よりは、政治的、社会的管理対象となっていました。そして、そのような処遇が一世紀という時間が流れる間続きましたが、ハンセン病に対する世の中の人々の無知と偏見によって、そのような事実も知られずにいました。
若い日、疾病のために世の中から疎外され、隔離されて生きて来た人々が集まって生きているここ小鹿島は、いまや社会的偏見と誤解が拭われ、多くの人々が愛を分かち合い、また、愛を配るために今日この地に立っています。金新芽長老をよく知っている小鹿島に住む初老のある老人は、金新芽長老を次のように話しました。
「金新芽長老は、私たちの仲間の間では先覚者と言うことができます。彼は知的な感覚が他の人よりはかなり傑出しているので、それがある面では、彼の長所になっていると言うことができますが、また別の面から言うと短所であると言うことができます。その知的で、先覚的で、前に立つ、そのような資質があるため、それが理解できない人々にとっては、むしろ多くの誤解を与えるという場合もあるのですが、しかし、彼は賢くて、あらゆる事柄についてよく心得ており、また、深い信仰によって勝利した尊い長老さんです。とても立派な方で、本当に賢い方であり、私たちの仲間にあって、とても尊い方であると言うことができます。」
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金新芽長老の歌
小鹿島を離れ、再び金新芽長老の現在住んでいる忠清北道清原郡プガンの忠光農園を訪ねた時、太陽は西空に傾き、山裾に掛かろうとしていました。村の中心部の丘にある美しい教会が目に入って来て、村の入り口に至った時、夕食を準備する白い煙がゆらゆらと立ち昇り、見知らぬお客さんを迎えるかのように尻尾を愛想良く振りながら犬が近付いて来ました。
前もって連絡をしたせいか、金新芽長老は私たち一行を喜んで迎えてくださいました。部屋の中に入ると、入り口に長く使われた古いオルガンが置かれてあり、壁には世界地図と韓国地図、そして、黒板が掛けられてありました。それを見た私たちは、金新芽長老がこの村の人々の何か精神的な柱のような方なのではないだろうかと考えながら席に座りました。
金新芽長老に、これまで歩んで来られた過去の話を聞くため質問をしました。金新芽長老の故郷は海に近い慶尚南道サチョンで、昔を思い起こしながら話し始められました。慶尚南道サチョンで10人兄弟中の6番目として生まれた金新芽長老は、貧しいけれども幸せに、愛と夢を育みながら少年時代を過ごしましたが、思いもしなかったハンセン病の発病により、愛する父母と兄弟から離れて療養所に入って行くしかなかったといいます。
「今、残っているのが兄一人と、妹一人、弟三人、甥がたくさんいますが、ですから、残っている彼らに対する愛おしさは常に忘れることができないでしょう。私が今、家を離れてから50年くらい経ちますが、その愛おしさは常に残っています。」
金新芽長老は50年が過ぎた今も海が見える故郷を忘れることができず、父母兄弟を思いながら故郷を愛おしむ歌を数多く歌っているということです。自分の生まれ故郷の南海は本当に夢にも描くような故郷であるので、彼の部屋に置かれた使い古されたオルガンをハンセン病のため不自由になった手の指で弾き、その故郷を愛おしむ歌を歌い始めると、いつしか目頭に涙を浮かばせて、うなじを少しずつ震わせ始めたのでした。
「♪私の故郷、南海よ、その青い海、目に見えるようだ、夢にいつも現れる。その麗しい故郷の海、今も海鳥たちが飛び交い、行ってしまった、行ってしまった、幼い時、一緒に遊んだ・・・」
最後の歌詞を結べないまま、故郷を離れたその時の心情を吐き出すかのように、金新芽長老はこのように言いました。
「私はどこに行かなければならないのでしょう?私はもはやどこに行けばいいというのでしょうかか?私がどこに行かなければならないか、誰が教えてくれるというのでしょうか?」
「8・15解放になって、他の人たちは家族と親戚を探して中国から、日本から、各地から帰って来て、家族との出会いの喜びを分かち合いましたが、私はその反対に、故郷のサチョン、家族や友人と離れて、自分の腐ちて行く体に棲むハンセン病を治すためにここまでやって来ました。それくらいまで、私を愛する母親まで捨てたのです。しかし、いまや!いまや!絶望です。腐ちて行く私に誰が希望を与えてくれることができるというのですか?」
「一日一日、目を閉じますが、それは生に対する希望ではなく、死に向って走って行く過程であるばかりです。誰が私をこの死の体から救い出してくれるというのですか?誰が!誰が!あぁ、いまや絶望です。」
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[原典:韓国「「タサラン」誌、1998秋号、オ・ヨンギュン/著、菊池義弘/訳]
金新芽長老の人生
金新芽長老の人生(1) 金新芽長老を訪ねて
金新芽長老の人生(2) 小鹿島を訪問
金新芽長老の人生(3) 年ごとに成長する忠光農園
金新芽長老の人生(4) 日本のワークキャンプ団体の訪問
金新芽長老の人生(5) 障害者のために余生を捧げたい