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ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島

地方自治体への変遷

クリオンの人々の間で、ハンセン病というレッテルをはずし、一つの地方自治体として、一般の市民として生きていきたいという気運が初めに高まったのは1960年代後半のことでした。フィリピンでは1952年にハンセン病隔離法が廃止され、1964年にはハンセン病の外来治療を定める法令が制定されました。これら法令の改正が大きな原動力となったのです。当時クリオン教会区のイエズス会司祭だったイグナチオ・モレタを中心に、当時クリオンに住んでいた患者さんや回復者の間で、急速に地方自治体への移行の希望が高まりました。ハンセン病の外来治療を奨励する法令が出された、約10年後のことでした。回復者の多くは、ハンセン病の治療薬の開発のこの機を捉え、地方自治体となることと望み、クリオンや遠くマニラまで出かけて、積極的に国会議員や政治家などに働きかけました。

国会議員の中には、クリオンが地方自治体となることを承認するための条例を提案しましたが、上院で、マルコス元大統領に否認されたのでした。クリオンの地方自治体入りに強く反対したのは、保健省だったといわれています。ハンセン病コントロールとリハビリの観点からの反対でした。

上院での否決の後は、徐々に地方自治体入りの話が聞かれることもなくなっていきました。しかし1990年代初めより、クリオンに新しい時代を迎えようと、再び地方自治体化が話されるようになりました。1992年にはアキノ大統領によって、クリオンの地方自治体入りが正式に承認されました。クリオン初の地方自治選挙が行われ、市長が選ばれたのは1995年のことです。クリオン初の市長は、長い年月を子供の教育のために捧げた、回復者でもあるヒラリオ・ギア氏でした。

日常生活や社会行事の中で親しまれてきたクリオン療養所音楽隊。1910年の設立以来、現在に至るまでさまざまな行事で演奏を続けている。
2006年4月に長島愛生園の入所者で青い鳥楽団のメンバーとして活躍をした近藤宏一さんからの寄付により老朽化が激しかった楽器を購入した。 © Hosino Nao 2006

島内の偏見を乗り越えて

現在のクリオンには約2万人の人が住んでいます。そのうち、ハンセン病を体験したのは約150人になりました。島民のほとんどは回復者の子孫や、初期の医療関係者の子孫です。現在では、医療関係者も回復者のその子供たちも、同じクリオンの島民として暮らしていますが、クリオンの中での「区別」がなくなりはじめたのは、1970年代に入ってからのことでした。

それまでのクリオンは、コロニーと呼ばれた療養所地区と、バララとよばれる「健常者」地区に分かれていました。コロニーには患者や回復者とその家族が住み、バララには病院の職員やその家族が住んでいました。2つの地区はフェンスで隔てられ、2つの地区を行き来するには、検問ゲートを通らなければなりませんでした。コロニー地区からバララ地区へ行く際には、検問ゲートで通行許可のスタンプを腕に受けてから、バララ地区に足を踏み入れました。子供たちの間では、コロニーとバララの区別は、特に大きいものとして感じられ、小さな出来事がコロニー対バララの殴り合いにまで発展したことも、少なくありませんでした。

通行が厳しく制限されていたため、クリオンには映画館、教会、学校など公共施設の多くが、コロニー地区とバララ地区にそれぞれあります。このような島内での差別が薄れてきたのが、1970年代に入ってからのことです。1971年には、回復者の子供のうち、数名はバララ地区の学校に通うことを許可されるようになりました。初期の子供たちは、バララ地区の学校でいじめにあったり、精神的なプレッシャーのために、何人も中退していったそうですが、クリオン自体が変わり始めた第一歩でした。また、70年代に入るまでは、回復者の子供と、病院職員の子供が結婚することは、まったく想像することもできませんでしたが、70年代から徐々にこれも変わっていきました。世界最大のハンセン病療養所であったクリオンが、島の中での差別を急速に薄れさせていった最後の出来事が、1985年に導入された多剤併用療法(MDT)でした。治療を受ければ簡単に治る病気になったことで、島内に存在していた差別や偏見もなくなっていったのです。現在のクリオンでは、自分や家族がハンセン病にかかったことがあっても、なくても、それが障害になることはありません。

100周年の式典では、クリオンの回復者やその家族が、クリオンの歴史を振り返った劇を演じた。高齢の回復者の中には、当時の状況を思い出し、涙を流す人も少なくなかった。 © Hosino Nao 2006

クリオン100周年

クリオンに最初の患者さんが収容されてから100年がたちました。2006年5月には、大規模な100周年記念式典が開催されました。100周年記念式典の目的は、クリオンが歩んだ100年の歴史を記憶すること、そしてクリオンが踏み出した、一地方自治体としての新しい一歩を称えることでした。クリオンの過去の100年の歴史は、ハンセン病と切っても切り離せない歴史でした。しかし、ハンセン病に対する差別、患者や回復者に対する差別、療養所であるクリオンに対する差別、そしてクリオンの中での差別、それらすべてを乗り越え、クリオンは新しい歴史の一幕を開けました。

クリオン開所当時は、軍艦がフィリピン各地をまわり、ハンセン病と疑われる人たちを収容していった。島の周囲が浅瀬のため、軍艦は沖合いに停泊し、クリオン島までは小さな船が使われた。ここは最初の患者が収容のために小型の船で連れてこられた地点。クリオンの隔離と収容の歴史を忘れずまた過去を踏まえながらも、一地方自治体として歩みだしたクリオンの未来をたたえるためにと100周年記念碑が建てられた。記念碑建立は、長島愛生園の石田雅男・懐子さん、ヒカリ真珠養殖、アメリカ救らいミッション、笹川記念保健協力財団が支援。 © Hosino Nao 2006

産業のないクリオンでは、今でも多くの人々は定収入がなく、自給自足の生活を送っています。クリオンの新しい100年には、まだこれからも多くのチャレンジが待ちうけていますが、それでもハンセン病療養所から、一地方自治体として歩き出す選択をしたクリオンの将来は、希望にあふれています。


100周年記念式典でリニューアルオープンしたクリオン歴史資料館。クリオンの人々や、フィリピン大学の専門家の尽力で、素晴らしい資料館ができた。資料館には多磨全生園の佐川修さんや、長島愛生園自治会の資金協力があった © Hosino Nao 2006



「誰の人生にだって、いいこともあれば、悪いこともあるわよね。
私はこの病気にかかったことによって、いろいろと辛い目にもあったわ。
でも、生きてきて悪いことばかりじゃなかったわよ。
ハンセン病にかかったからといって、これで私の人生もおしまいだなんてことはないの。
私はね、与えられた状況や環境で、何をするか、何ができるかっていうのは、
私たち1人1人にかかっているんだって、そう思うのよ。
ハンセン病と診断されたら、すっかり希望を失って、生きようとすることを
やめてしまった人って、本当にたくさんいたのよ。
なんで自分はこんなに運が悪いんだって嘆き悲しんで、自分の人生と
向き合おうとしなかったわ。

でも私はそうはしなかった。病気と向き合って、病気と一緒に生きていくことを選んだ。
たった1つの病気のために、人生を諦めちゃうなんて、私にはできなかったから」


[100周年記念式典で、ある回復者のスピーチから]

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[星野奈央(笹川記念保健協力財団)/著、2006年7月13日]
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