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ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島

初期にクリオンに収容された患者は、その後の生活場所となる寮が割り当てられるまで、3日から数週間を検疫施設で過ごした。クリオンにはフィリピン各地から患者が収容されたが、各地特有の感染症にがクリオン全土に広がらないための予防措置としての検疫施設だった。

1910年の暮れには、クリオンに収容された人の数は5,000人を超えましたが、死亡、逃走、解放などの理由から、クリオンにいたのは2,000人を超えるくらいの人でした。クリオンの手本となったモロカイ島のカラウパパ療養所の規模を超え、世界で最大規模のハンセン病コロニーとなりました。この後も、収容される人数は増えつづけます。

収容された人たちは次第に自分たちで生活を築き上げるようになり、漁業や農業などを始めました。なかには漁業会社を立ち上げる人もいました。漁業に出た人はその日に釣れた魚を、クリオン食堂に売りに行きました。農業を始めた人も同様に、収穫物は病院に売りました。農地までの行き来を簡単にするために、健康な人がボランティアで道路建設に携わり、療養所周囲からの道も整備されていきました。道路の整備と共に、森で収穫された物や、食料、人などの輸送ビジネスも盛んになっていきました。

1929年にクリオンを訪れた牧師は、こう書き残しています。「クリオンは、独立国のようなものである。すべての事業利益はらい病患者のものであり、らい病患者自身が選んだらい病患者が役人となっている。漁師も警察官までもがらい病患者なのである」

第8病棟

とはいうものの、クリオンの生活は明るい面ばかりではありませんでした。「生きる死者の地」として知られていたクリオンにある病棟は、足に障害を持った人や盲目の人であふれ、病気の人は生ける者よりはむしろ、死者に近いように見えました。することもなく毎日をぼんやりと過ごし、怒りや失意といった感情に流されるままの生活でした。このような生活に耐え切れず、ボートで逃げたり、自殺をしたりした人もいました。しかしそれよりも多かったのは、精神のバランスを崩していった人たちでした。クリオン病院の精神科は、第8病棟にありましたので、クリオンでは精神のバランスを崩した人のことを、「第8」と呼びます。第8病棟はいつも満員でした。

結婚

クリオン島での生活は厳しいものではありましたが、数年もするうちに、療養所の寮を離れ自分たちで住み始めた人たちもおり、道沿いには、小屋が立ち並ぶようになりました。未婚の女性は尼僧の厳しい監視のもと、寮で暮らさなくてはなりませんでしたが、男性は女性寮の訪問を含め、自由に歩き回ることができました。他にすることがあまりないクリオンでは、恋愛がここかしこに花開くようになりました。学校から墓場まですべてが完備していると考えられていたクリオンで、たった一つ考慮に入っていなかったのは、乳幼児の施設でした。

ハンセン病患者同士の結婚は禁じられていました。病気に対する免疫力の弱い子どもの誕生を予防するためです。結婚や家族を作ることは、最初の数年は考えられないようなことでした。クリオンに収容された人々の多くは、すでに結婚しており、家族や伴侶から無理に引き離されてきた人たちでした。故郷に残していかなくては成らなかった家族を思い、日々を暮らしていたのです。

しかし隔離の生活も長引くにつれ、クリオンでの新たに愛する相手を見つけるようになったのです。収容が始まって10年も経たないうちに、婚外子の数は急増し、尼僧や牧師を嘆かせました。しかし、男女が共に住むのを止める手立てもないまま、1910年には教会での正式な結婚が認められるようになりました。のちに再び結婚についての見直しがありましたが、1934年には最終的に認められることとなりました。結婚の見直しに際しては、様々な意見が出ました。行政側の意見として書かれたレポ−トに次のようなものがありました。

「らい病患者同士の結婚がなぜ許されないべきなのかということに関して、最もよく耳にするのは、結婚に伴う子どもの誕生であろう。『今でもこれほど多くのらい病患者がいるのに、なぜその数を増やす?』。これに対し、子どもが必ずしもらい病にかからないと言うのであれば、『すでにいるらい病患者の介護で手一杯なのに、子どもの面倒まで見なければならないのか?』。最後に、そしてこれが最も重要であるが、この世に永遠にらいの烙印をはられて生きていかなければならない子どもを、世に送り出すことは、悲劇的な不正ではないか…」

このような意見も多くありましたが、ハンセン病特別委員会では、結婚は許可すべきであること、ただしそれに関しては、新郎は断種手術を受けること、夫婦は小額の補助金を受け生活をすること、ハンセン病の子どもを養子とすること、といった条件を提示しました。また、故郷に家族を残してきた人については、離婚を許可し、それにより故郷に残した伴侶も、またクリオンに来た人も双方が再婚できるようにすることが提案されました。この中で実際に採用されたのは、結婚を許可するということでした。カソリックが最大の勢力であったフィリピンでは、離婚や断種手術には、強烈な反対の声があがったためです。

結婚は認められたものの、新しい条件が出されました。母親は生後6ヶ月までは子どもと一緒に暮らすことができますが、6ヶ月がたった時点で、子どもは保育園に移されるという条件でした。のちにハンセン病の症状が出た子どもは、家族のもとに戻されましたが、症状の出なかった子供たちはマニラにある国営の孤児院に移されました。

最初の子どもたちは、マニラのサン・ホゼ病院の孤児院に送られました。後の子供たちは同じくマニラにある、国営のホームレスの子どもたちを収容する施設に送られました。

1910年代の後半から20年代になると、1年で生まれる子どもの数は約75人にのぼりました。この数はさらに増え、1934年から38年の間には、1年で約142人の子どもが生まれています。療養所内の保育園の建設が急がれましたが、それでも保育園は常に満員のままでした。子どもたちの中には、3歳までクリオンで過ごす子もいましたが、健康な子どもの多くは、マニラにある施設や、養子縁組のために、クリオンから送り出されました。

2つの世界

かつて「清潔地域」と「Leper quater」と言われていた地域の境にあったゲート。この場所に消毒液の入った大きな貝殻が置かれ、医者や看護婦が出入りする際に手足を消毒していたという。今では、「ようこそ」の看板となっている。 © Hosino Nao

クリオンは、ハンセン病患者・回復者のためと、職員のための2つの世界を持ち合わせていました。この2つの世界の間には、はっきりとした線が引かれており、それぞれ異なる規則がありました。映画館、郵便局、学校、墓地もすべて、回復者用と職員用の2つ用意されており、就業時間以外はお互いに、かかわりあうことない生活が続けられました。

1913年から1920年代まで、患者・回復者用に療養所内貨幣を発行しました。患者・回復者に払われる給料、売上その他はすべてこの貨幣で支払われました。最初はアルミニウムで作られましたが、数え切れないほど消毒液に漬けられた結果、すぐに腐食してきてしまったので、後年はニッケルで作られるようになりました。

クリオンに住む人たちは、隔離は拘留の当然の結果として受け入れられ、さほど島内の健常者と回復者の差などについて考えられることはありませんでした。そこに住む多くの人にとって、クリオンは、病気を持ちながら生きることを容認してくれ、食べるものと住むところを与えてくれる場所として受け止められたようです。

仕事

職員の数は少なく、すべての仕事をすることはできませんでしたので、仕事の一部は、患者・回復者自身によって行われるようになりました。健康な患者や回復者は、毎月2日間、1日数時間、建設工事の手伝いをするように頼まれました。新しい寮や水道の工事、ごみ収集、公衆トイレ、溝、道の清掃などの仕事が殆どでした。クリオンの音楽隊も患者・回復者によって作られ、政府から小額の給料をもらっていました。

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[原典:Culion Island(クリオン財団発行、2003年)、星野奈央(笹川記念保健協力財団)/訳、2006年7月13日]
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