定着村に生きる
忠光農園長老・金新芽さんインタビュー(3)
Q.今後、この村をどのように発展させたいですか?
村の当面した問題の中で、だんだん畜産のスケールが大きくなると、貧富の差が出て来るんです。鶏を二万匹をやってる人もあれば、五千匹をやってる人もある。豚を二千頭やってる人がおれば、百頭くらいやってる人もいるんだから、結局、貧富の差が出て来るんですね。だから、その貧富の差でお互いの心と心の持ち様が問題になるんです。金持ちになると高ぶりやすくなるし、まずい人に対しては軽蔑する人もおるんでから、村の問題として重要です。
それからもう一つは、世代の違いです。治療を受けた人達はだいぶ老衰した人達がいるんですね。初めからここに釆て村を作る。しかし、苦労したんだけど、今はもう五十、六十、七十を経て、結局、私のような老人ホームに住むような状態なんですから、その老人たちと若い世代の考えの違いが間近になっているんです。やっぱり、考えの違いとか、社会を見る目とか、いろいろな差があって、そういう一つの輪というものも非常に重要です。私は第二線に退いている境遇ですけど、やっぱり、村は教会を中心とした愛と平和のそういう村が望ましいんですね。そして、貧しい人も富んでいる人もお互いにいたわり合いながら、本当のキリストの教えに従って、お互いに愛し合い、いたわり合いながら生きて行くというのが望ましいんです。あまり、自分の事業を、畜産が拡張するというのも一つの発展ですけど、やっぱり、そういう問題よりも、もっと心の持ち方を堅実に持って行くというような、そういう村が望ましいんじゃないかと思っています。
Q.村にとって一番大切な物は何ですか?
やっぱり、今言ったように精神的にはキリストの教えでお互いがいたわり合うという事ですけど。まぁ、組合の方。実質的に村人の生活を保っている組合の合理的な管理の仕方。それから村人たちの堅実な金の使い方。あまり貧しい人がいない状態で、できれば飼料会社との信用関係なんかも良く保たれて、そういう村になってほしいんですね。面白いのは、韓国の方では一年に一回くらい犯罪のない村なんかを報償してるんですが、そういう面では私の村なんかもその報償の対象になってもいいんですね。だから、村全体が垣根もないし、家なんかにも鍵をかけない方だし、だから、村人がどっかに行って犯罪を犯したという事もないし、だから、本質的にも問題を起こす人は全然いないような状態ですね。まぁ、それが一般の村との大きな差なんです。それで、いつでも垣根のない村、犯罪のない村が続いてほしいですね。
Q.夢は何ですか? それは実現できそうですか?
今、七十才で夢というのは縁遠いものなんですけど。やっぱり、夢というのは人間を正しく強く生きるようにしてくれるんですね。その意味で、私は死ぬまで何かの夢を持ち続けたいと思ってるんです。それで今でも、ある障害者たちのために自分の歌のテープを売るというような、そういう仕事も何ですけど、そのために国内の教会を回って賛美歌を歌ったり、また、自分が経験した信仰上のそういうお話しをして歩いているんですけど。来年末で自分の計画がどのくらい達成されるかわからないですけど。まぁ、自分の募金の計画がある程度達成できれば、もっと大きな金を作って、障害者の人達の小さな、そして平和な村を一つ作ってあげてみたいなという考えを持っているんですね。
それから、もう一つは、阿奈井さんという作家なんですが、あの人の協力で自分の手記が日本で出版される間際になってるんですが、できれば、それが一部、二部と出版できればという考えを持っております。まぁ、どのくらい自分の健康が続くかわかりませんが、自分が会う事ができる多くの人々に対して、キリストの福音を語ってあげたいという考えが強いですね。それで、人間的にもキリストを信じる、そして信仰的にも。私たち韓国人と日本人はいい関係を、精神的、霊的な関係を持つべきじやないか.それでこそ本当に両国の人達が愛し合い、いたわり合える間柄になるんじゃないかと、そういう事を考えております。それで、できれば、賛美歌を日本の賛美歌を覚えて、機会があれば日本の教会なんかも少し巡り歩きながら、自分が味わった人生を通してキリストと自分との関係がどのようになっているかという、そういう一つの証も日本の人達にしてあげたいという願いもありますけれど、まあ、そういうものですね。
Q.生きがいは何ですか?
生きがいというのは.私はキリストに対する信仰を持ってる人なんですから、自分の一生涯がどのくらい神様の栄光のために生きて釆たかという問題は非常に重要な問題ですね。できれば、神様の栄光のためにもっともっと多くの人達のために自分の生涯を捧げる事ができればという、そこに自分の生きる意味があるんですね。
Q.ご夫妻にとってお互いの存在は何でしょうか?
私はこういう考えを持ってるんですよ。恋愛と結婚という問題なんですけど、普通の一般的な考えは恋愛が先で結婚が後であるというんですけど、ずっと三十年、四十年、一緒に夫婦生活をして来た今ではね、結婚が後じゃなくて。まぁ、恋愛がなくても結婚はできるんだから、結婚が先で本当の恋愛は後じゃないかという考えを持ってるんですね。とにかく、刺激的なそういう過去を持っている彼女。私は三十三才。彼女は三十才でしたけど、それが今、三十七、入年でしょう。だから、本当は私のような弱い人.目は見えないし、労働力は全然ないというそういう条件。それから、私にはあまり実際的な考えはなくて、理想的なそういう考えをいつも持っているというような形。それから、もう少しは精神的に生きようとする、そういう考え。だから、金儲けなんか全然わからないような、そういう私にとって、彼女としては人間的には非常に不幸だったでしょうね。しかし、とにかくお互いにいたわり合いながらやっているわけですから。一人になったら時々言うんですね。もし、一人になればどうしましょうとかね.そういう事を言ってるんですけど、彼女にとっては息子もいて、娘もいるんだけど。全然、お母さんとは距離が遠いんですけどね。結局、私が亡くなった時は彼女は人間的にはただ一人という形でしょぅね。だから、時々そういう未来に対して、未来と言ってもそう遠くはないでしょうね。だから、よく心配して考えている状態なんですけど。さぁ、お互いに重要な相手、大切な相手というそういう考えを持っているでしょう。
Q.今までの人生の中で一番嬉しかった事は何ですか?
また、一番悲しかった事は何ですか?
私は人生を嬉しい悲しいとか、そういう白黒では説明できないと考えてるんです。八十年に京都の日本イタリア会館で講演をした時にも言いましたけど、京都は京都織りで有名でしょう。その京都織りの話をしました。京都織りというのは、いろいろな色の糸を使うじやないですか。それで赤とか黄色とか育とか、そういういろいろな糸を使ってるんですね。だから、一つ一つの糸を使う時には、黒であり、赤であり、青であるというようなそういう状態ですけれど、それが完成した時は、もはや黒でも」亦でも白でもないんですね。それを越えて、全部織り合って、一つの京都織りという芸術品になっいるんですね。作品になっているんです。まぁ、同じような意味で私の人生もいろいろな色の糸が組み合わされて来たんじゃないかと思うんですね。だから、その一つ一つの事件とか一つ一つの出来事、そういう事が、その時は言えるでしょう.悲しいとかね、嬉しいとか.しかし、顧みればね、人生というものは神様の手で、そのいろいろな糸が織り合ったように、いろいろな事件が織り合って、一つの私の人生という作品が出来て行っているんじゃないかと思うんですね。だから、その意味で私の人生を通して嬉しいと悲しいとか、そういう単純な説明、判定と言いますか。それはあまりしない方ですね。
しかし、私の生涯で嬉しかったという事は、さぁ、どうですか.いろいろな事件があったんですけど、やっぱり、自分の霊的な問題ですね。自分が十年くらい罪という問題と。私が人を殺したとか、悪い事をした、法律にかかわるような悪い事をした事はないんですけど、やっぱり、自分自身の中にうずくまっているそういう霊的な罪の意識。それから解放するまでに十二年間くらいね、二十才から三十才、本当は病院で病気を治すよりも、その問題で苦しんだ後、結局、聖書の一部分の詣で、ローマ書なんですけど。ローマ書の八章の一節なんかで、その自分の十年間の霊の苦しみとの闘い。それからの解放がその言葉で。例えば、そのローマ書の八章の一節はこうなんです。「いまやキリストの中にある者には罪に定められる事はない」という言葉なんですよ。その言葉で自分の霊的な苦しみが解決したんですね。その後で、その八章の終わりまでの言葉が、私の生涯を一番はっきり、また強く支えているのです。その時の自分の霊的、精神的な快感や喜びなんかは、他の喜びとは比較できないんですね。他の喜びなんかはその瞬間の喜びとか、ある何日間の喜びとか、そういう短期的な問題で、ある時期が過ぎればその嬉しさなんかも忘れてしまうんですけど、これは生涯を通して自分に喜びと平和と自由を持たせて来る希望を持って来るんですから、やはり一番大きな事件でしょうね。
一番悲しかった事。そうですね。私は父の死を経験したり、また、自分の愛している一番上の兄の死も経験したんですけど、やっぱり、自分を一番愛していた一番上の兄とすぐ下の弟が私が病院にいる間に朝鮮戦争の時に亡くなっているんですね。行方不明という形なんですけど.兄はその時に三十代。弟は二十二、三くらいなんですけど。その兄と弟の死が今でも、絶対に自分が考える事ができないくらい、自分の陶を針で刺すような痛みを持って来るんですね。
Q.人生において転機と思うような出来事は何ですか?
やっぱり、病気が一つの大きな転機。それで病院に入ったり、社会から追われ、家に隠れ、それから病院にという一つの別世界に入ったのが転機であると思いますね。しかし、やっぱり自分の大きな転機は、さっき言った霊的な苦しみからの解放。それが自分自身の人生にとっては一番大きな転機でしたね。
Q.現在の日本についてどう思いますか?
日本人と韓国人は一番似ているんですね。見分けがつかないくらいなんです。だから、血統的には民族学の上から言えば、本当に同じ民族に違いない。同じ兄弟の民族じゃないかという考えをいつも持っているんですね。そういう民族がどうして二つに分かれて、こういう悲劇的な歴史を持って来たかという事は疑問ですね。また、それがお互いにとっても悲しい問題じゃないかと思います。私は日本には多くの友達を持っていて、個人的に十年、二十年の関係を持っている。そういう人もいるんですけど。お互いの心をさらけ出して、深い話までするようなそういう人もいるんです。だから、両国の問題が悪くなっている時、また、日本に対する国民感情が悪くなるという事件.また、日本での韓国に対する良くない評判なんか、いつも自分には楽しい事じゃないんですね。なるべくならば、両国は良くやってほしいという考えを持っており、ささやかですけど、自分もそのお互いの間が良くなるようにという考えを持って努力はしてるつもりなんですけど、さぁ、どうでしょう.どの世代になって兄弟のような間柄になるかはわかりませんが、お互いがもっと知り合ってほしいですね。韓国に関する事を日本の方ももっと知ってほしいし、日本人のそういう実体をこちらの方でももっと.知り合うというのは重要な問題なんですから、なるべくお互いが交流をする機会を多く持ってほしいです。しかし、人間的に触れ合うという事も重要ですけど、私としてはキリストの福音によってお互いが結び合うというのが一番はっきりした結びつき、一番根本的な結びつきじやないかと思っているんですね。まぁ、その意味で押し売りという印象を与えるのではないかと思って心配はしながらも、私は日本の方々に会った時には、自分自身の心を開くという問題。それから、自分自身に一番いい物を、大切な物をあげる事ができればという考えで自然に福音の話をするんですけど。とにかく、人間関係でもいいし、福音の方でもいいからお互いが本当の兄弟のように結び合ってほしいですね。
Q.韓国の定着村事業は大成功だと柳駿博士は言っていましたが、どう思いますか?
とにかくその時代、定着村が始められたその時代はね、病気は直ったとしても、やっぱり、人々が集まっているその村は、患者たちが集まっている村は、一つの収容所だから、癩収容所という形で認識されていたんですね。だから、隔離という形でしたね。それが結局、癩は直るという新しい療に対する概念。それがWHOから公開されて、それを一つの基本にして、この定着村に対する政策が始まったんですけど。今三十年くらいですね.百十個くらいの村があるんですが、全部が全部成功したという形ではないんですけど。やっぱり多くの人が自治する事ができる状態。経済的にも自活する事ができておりますね。それから、生まれた子供たちも社会的にも相当に重要な役割をしている人もたくさんいるんです。少なくとも高等学校、大学を終えた人がたくさんいるんですね。だから、いろいろな所で活躍しているんです。大学教授もいるしね、博士さんも、教会の牧師さんもたくさんいるし、会社の社長さんもいるし、いろいろな状態なんですけど、また、社会のいろいろな認識も変わっており、今はとにかく癩収容所ではなくなっているんです.始めは癩快復者の村という形でしたけど、今は区別がなくなって自然部落化している。だからソウルとかある所なんかは、その中に一般の人がたくさん来て、そのまま普通の町になっているんですね。どこからどこまでが定着村か境目がなくなっているようなそういう形もあるし、とにかくだんだん社会と同化して行くような、そういう状態です。また、子供たちの中でも病気が発生しているという話もあんまり聞いた事もないし。小鹿島でも十七、八年前に私がいた時には、学校の方で二十人くらいだったけど、今は一人も、その学校も門を閉ざしてしまったようなそういう形で、患者さんたちも三千名くらいですが、今は千二百くらいでしょう、たぶん。それがほとんど七十、八十、九十ですから。まぁ、十年くらいたったら小鹿島も門を閉ざすというような形です。やっぱり、定着村にいる私のような、今は一つの文化財のような形ですけど、まぁ、遠からずして治療を受けた人達は去って行くような、そういう形ですから、まぁ、二千年ぐらいで一旦は韓国の癩政策はピリオドを打つような形になるでしょう。それによって一つの定着村という政策は非常に重要なポイントじやないかと思うんですね。ですから、こういう一つの政策は、東南アジアの方でも一つのモデルケースとして実現してほしいですね。だから、私の村の若い人の中にもおりますけど、これからは私たちがフィリピンに行ってタイに行って、畜産を敢えてあげたいとかね。定着村を作る方法を教えてあげたいとかも言ってるし。また、多くの定着村の教会は少しずつ宣教費を集めて、タイやバングラデッシュなんかに宣教師を送ってるんですよ。そこで教会を作ったり、そこの患者たちの子供たちを集めて、彼等の教育のために熱心にやっている。また、金を集めて土地を買ってあげたり、そこで定着村を作ってあげたりする仕事をやっているんですけど、やっぱり、柳駿博士とかそういう人の計画は非常に正しかったと思っております。
Q.日本のような現在の癩政策(隔離撲滅)についてどう思いますか?
私は十何年前に全生園とか愛生園とかに行って、歩き巡りながら考えた事を京都の日本イタリア会館の講演の時に話した事がありますけれども。少しは生意気な話ですが。まぁ、ごめんなさいと言いながら私は言いましたよ。「全生園とか愛生園の看板を塗り変えてほしい」とね。全生園。まぁ、日本のハンセン氏病の歴史は百三十年くらいかと私は思ってるんですけれども、とにかく韓国の救癩の歴史よりも長いんですね。百年くらいでしょうかね。その間、非常に熱心にやって、とにかく多くの療養所があっても病人はだんだん少なくなってるというそういう形です。全生園に私が行った時には千名でしたね、患者さんたちが.ところがその全部が医学的には快復者なんですよ。ところがそのような多くの金を使って病気を治してあげた人達、全生園の患者たちから、その病者というレッテルを取ってあげていないんですね。たとえば、いつも全生園、全生園という形なんです、看板が。全生園と言えば全日本の人達が癩の病院という事を知っているんじゃないんですか。ところが、その中では癩は治っているんですよ。治してあげているんです。だから、レッテルまでも取ってあげねばならないんじゃないかと思うんですね。だから、その全生園という看板を塗り変えて、たとえば、「全生老人ホーム」とか、地域が多摩なんですから、「多摩老人ホーム」という名前に塗り変えてあげるべきじやないかと思うんです。長島愛生園なんかもそうなんですけど。やっぱり、その意味が違うでしょう。根本的な見方も違うしね。当の患者さん、治った患者さんの心の持ち様も変わってくるし。暖かいそういう管理の転換がほしいんじゃないんですか。まぁ、たとえば私連は癩収容所の大部分を定着村にしてしまって、昔の名前を全部取り消してしまって、そのまま一つの農園とかね、そういう名前に取り替えてしまってるんですから、小鹿島なんかも今はもう癩療養所とかそういう名前じゃなくて、国立小鹿島病院とかそういう名前に変えてるんですけど。患者たちへの暖かい心、彼等から癩を完全に取り除いてあげたいという考えを持っているのなら、そのレッテルをはがしてあげるべきじやないか。その意味で看板を塗り変えるというのは非常に重要な問題だと思ってるんですね。
それから、私の少し生意気な考えかも知れないけど、日本と韓国のハンセン氏病に関する政策の違いは、隔離という高い壁をそのままにしているんですね。そのままにしておいて、その中に隔離という方法で、韓国の患者たちに比べては非常に生活を良くしてあげてるんです。しかし、高い壁はそのまま置いてるんですね.韓国では政府、または社会のある一部の人達、それに患者さん自身の手で、それから多くの人の手でその高い壁を壊しているんですね。それから、私はFIWCや助癩会の人達に対してよく言ってるんですけど、FIWCもその壁を一緒に壊している人なんですね。まだまだそれは完全な物ではないんですけど、とにかく日本に比べるとその高い壁が大部分が壊されている状態ですから、その面で日本のハンセン氏病の政策とこちらの政策は非常に違ってるんじゃないかと思いますね。
[原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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