定着村に生きる
金さんご夫妻
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忠光農園長老・金新芽さんインタビュー(1)
金新芽さんのプロフィール
金新芽(キム・シナ)・・・1924年、プサン近郊の生まれる。1945年、20歳の時にハンセン病が発病し、1947年、小鹿島(国立ハンセン病病院)へ。1974年、療養所から現在の忠光農園へ創立者の一人として定着、現在に至る。1988年と1990年の2度、フレンズ国際労働キャンプ(FIWC)の招きにより日本を訪問しています。
Q. 金新芽さんご夫妻の生年月日は?
私は1924年2月24日(陰暦)。妻は、1927年9月5日(陰暦)です。
Q.発病してからの病院の移り代わりは?
宣教師のやっている愛楽園では期待通りの教えを受ける事ができましたか?
私は病院を三、四カ所くらい移りました。始めに愛楽園、それからテントを張って始めた教会で一年半くらい、そして、プサンの五六島が見える海岸にある相愛園ですね、今は龍湖農場と言うんですが、そこで一年くらい。それからまた愛楽園に戻って三十三まで。だから三年くらいですね。それから結婚をするために漆谷という所で、愛生園ですね、そこで十何年くらいです。そこで結婚をしてから長老になって、そして、政府の定着村の政策によって、私は小鹿島で七年間、それでその後、この村を作るために一九七七年に来て、今までですね。愛楽園にはですね、宣教師の要員でしたけど、私は自分自身の病気に対しては、やはり神様の思し召しであると考えています。それで外国の病院からお医者さんとか宣教師さんたちが来て、私たちの国の病気になった人達を、私たちのために働いてくれている。それならば、私は同じ私たちの同胞のために私も働くべきじゃないか。結局、神様は私にこのような病気をくれて、同じ病気で苦しんでいる人たちのために何かをせよという、そういう神様の思し召しとして私は愛楽園に行く事になったんじゃないか、というそういう考えでいたんです。しかし、そこへ行ってみたら、その時は二十二なんですが、学校を終えてまっすぐ来たような形なんだから、考えは非常に純粋な方でしたね。しかし、そこに行ってみたら私の考えと非常に違っていて、病院の人たちが非常に絶望的なんです。良い薬が出ていないし、病気があんまり治らないし、だから、同じ病院の人はこういう事を私に言いましたよ。「まぁ、病気は治らないんだよ。もし、君が病気を治したら、私は卵を壁にくっつけるよ」とかね。そういう冗談半分、ひやかし半分でね、私をからかうんです。だからそういう絶望的な雰囲気の中で、私はなんとかして、こういう雰囲気に染まってはいけないと考えていましたが、キリストの福音が私を支えてくれたのには違いありませんでしたね。
Q.いつ小鹿島の療養所へ行ったのですか? また、そこでの生活はどうでしたか?
さっき言ったように、私は病気は治ったという診断を受けたけど。六〇年度でしたね。政府が代わって、新しい軍人たちの政府になって.その時に柳駿博士とか、そういうハンセン氏病の権威者たちの一つの持論ですね。ちょうど、その時はWHOなんかでも、結局、ハンセン氏病は治るとか、そういう医学的なピーアールを熱心にしていたし。また、おおむね十万くらいの患者がいるんじゃないかという話もあってね。その人たちを療養所で過ごさせるというのは、なかなか大きな問題でしたね。それで柳駿博士たちが、決断力のある軍人政治の決断でこういう定着村という政策を立てたんですね。しかし、それには健康がいいとか、労働力があるという人たちにはいいんだけど、やっぱり払は目が悪かったしね、労働力は問題でして、陸地の定着村で過ごす事ができない人は自活しなくちゃならないわけだからね。弱い人とか年老いた人たちは、小鹿島の方へ行って国家の保護を受けながら過ごす方がいいんじゃないかという事で、私は一九七〇年頃に行きました。小鹿島というのは相当長い歴史を持っているんだけれど、その歴史を見れば悲劇の島であってね。日本時代に作られて、植民地の時には一つの恐ろしい病気の形でね。その中の病院の管理なんかも問題が多いしね。患者たちにとっては非常に恐怖の島に違いなかったんです。だから、いくら国家がよくやってくれると言っても、誰も行きたがらないんですよ。しかし、私は私なりに、始めは何とか行きたくないし、行かなくてもいいような方法はないかという事を深刻に考えた事もあるんですけど.やっぱり、君は今までは陸地の病院で働いたけれど、同じ患者たちの中でも、一番弱い方、一番かわいそうな人たちの中で、もっと神の思し召しとして働く、まぁ、何ですかねぇ、余生をそこで送るのが神様の思し召しじゃないかという事をね。そういう方面で私の心を一つ決めましたね。それで、その七つの部落の中でも一番小さな方の部蒋で、牧師さんの手が足りないから、牧師さんの代わりに説教をしたり、それで伝道の聖歌隊なんかもあってね。その聖歌隊のリーダーなんかにもなったり、まだ学校で、中学と高等学校、バイブルの方の高等学校がありましたね.そこで中学校で、あまり子供たちは二、三十人くらいかな、そこで音楽を教えてあげたり、そういう事をしておりましたね。
Q.病気がひどくなったのはいつ頃ですか?
私が二十五、六歳の頃です.その頃はまだ新しい薬が出ていない時代だったし、私は病院に入ってみたらね、あまり人々が病気、病気、病気と言う。病気のために他の事は何も.病気を治すために生きているような有様でした。そこに一つの反発なんかもありましたね。だから、彼等の目的は病気を治せばいいんだけど、その病気を治して、それから何をするのかという、そういう問題もね。とにかく、彼等の生き方で、私は気に入らないんですね。だから、私は病気を治す方よりも、むしろ仕事の方。子供たちを教えたり、聖歌隊を指導したり、ブラスバンドを作って教えたり、それからお祈りとか。そういう方に自分は。だから、治療と霊的な方面。一つのバランスをとっていないんじゃなかったかと考えるんですけど。そういう事もあるし。だから結局、治療にはあまり熱心じゃなかったですね。もう一つはね、やっぱリ薬よりも食べ物とか、そういうのが問題でした。だから、全然そういうのが充分でなかったし。だから、そういうわけで、私は二十五、六歳の時、病気が悪化してしまったんです。それが一年くらい続いたでしょうね。しかし、私はその後、新しい薬ができて、すぐ良くなりましたけれどね。
Q.撤兵はされなかったのでしょうか?
日本帝国時代にね、第一画日の徴兵に私は令状を受けました。令状を受けて、検査に行って、第乙種なんですけどね。合格なんです。その時、私は二十二だったけど。その時、私は病気で家に隠れた形でしたから。やっぱり少し、顔なんかとかね、体の部分で、病気の症状があったりしてね。そういう所に出たがらなかったんですね。また、そういう所に行って、ハンセン氏病がばれたら、人々の前で恥ずかしいし、また、そこでハンセン氏病がばれたら、そのまま小鹿島の方に強制送還されるんですね。それが恐ろしかったんでね。私は何とか、行かなくもいいような道はないかと寸前まで苦しんでたんです。その時にお母さんが私に非常に勇気をくれました。「行きなさい.神様がいろいろ導いて下さるに違いないから。勇気を持って、一つ当たってみなさい」と。そういうお母さんの慰めに勇気付けられて、私は行ったんだけれど、それが少し時間が遅れてしまってね。みんな集まっている所に私が行ったものだから、あの時、五分くらい遅れたでしょうか。ところがね、その日本人の中隊長だったかなぁ.「この野郎!どうして遅れたのか」と拳骨で非常に叩かれたんです。そして、検査の途中、なかなかよく分からないんだね。結局、このハンセン氏病が分からないで済むかと思ったのに、陸軍の軍医の中尉がいてね。私の目が一つは一・五なのに、一つはどうして悪いのかとね。ウソを言ってるんじゃないかと。それで彼が注意して見ながら、結局、何か感じたんでしょうね。これはやっぱしハンセン氏病じゃないかと感じたんでしょうね。そして、私に手を出してみろとか言ったんだけど、それでよく分からないままハンセン氏病がばれなくて、結局、目が一方が良くなかっために、それでも兵隊がたくさん必要だったから。まぁ、そういう条件でもね、第三乙種合格なんですよ。あの時ね、私は最後の陸軍大佐がその第乙種合格、それを復唱しなさいと言ったんですね。私は自分の出身学校の名前を挙げ、それから誰々それがし、第三乙種合格と復唱したら、その大佐が「声か良くてよろしい」と言ったけど。私は今でも覚えてるんですけど。その後で令状をもらいましたね。しかし、結局、私はこの病気をね、病気を病院に行って診てもらって、その診断書をつけて、結局、行かないですむようになりましたが.まぁ、その時、私の友達なんかも行って、苦労した人たちとかね、戦死した人たちがたくさんおるでしょう。
Q.子供の頃からお父さんと教会へ行っていたのでしょうか?
お父さんは二十たらずで結婚したんだけど。三十になる前、二十五、六になってね、やっぱり、新しい時代には小さな技術でも習わなければならない。新しい時代は学問と技術の時代だという考えで、プサンの方からソウルまで来て、今から八十年くらい前だけど。それでどういう技術がいいのかと、ずっとソウルの街を歩きながら仕事を探した。結局、その時はミシンが出て来たばかりなんですよ。韓国の方で.それで、「これを習うべきだ」と。そして、一年間くらい洋服を習ったんですね。だから結局、その洋服で私を始め多くの兄弟たちが勉強する事ができたんですけど。その時にお父さんはある青年の導きによって教会に通う事になったんですね。始めはなんやかやでね、まぁ、約束はしたんだけど、さて、日曜日になったらどっかに逃げてしまったりしたらしいけど。その青年がしっこく来て勧めたために行き始めて、結局、クリスチャンになったんですね。だから、三十たらずでお父さんは、一つの手にはミシンという技術と、もう一つの手にはキリスト教という信仰を持って、結局、生涯を終えたんですね。
Q.今のような熱心な信者になったのはいつからでしょうか?
それはどのようなきっかけがあったのでしょうか?
兄弟が十人だったんですけどね。一番上のお姉さんが、今、八十五なんだけど、早くに嫁いで。後は、妹一人はソウルにいて日本語の先生をしてるんですけどね。その他、八人兄弟なんですが。その中でも私が一番に、子供たちの教会の幼稚園から、もう教会に出ていたんだから、教会でいつも育ったと行ってもいいんですね。だから、クリスマスなんかでも、私が選ばれて演説なんかをしたりね。また、ドラマなんかをやったんですけど。中学校に行っては教会の方が、むしろ学校の勉強よりも教会の方にもっと熱心だったですね。だから、いつからクリスチャンのようになったのかと言われてもね.やっぱりね。幼い時から私は教会が一番好きで、教会を離れての自分というのは考える事ができない程でしたね。
Q.兄弟もお母さんもみんなクリスチャンだったのでしょうか?
そうですね.兄弟、家族全部が教会貞でしたね。私は五番目でしたけど。しかし、終戦後は散り散りばらばらという形でして。それから政情も変わるし、社会も変わるし、また、散り散りばらばらになって。戦前は東京に行って苦学して、アルバイトをしたり。また、南京に軍の徴用で行ったり。そして、戦争が終わってからは韓国の政情や社会は非常に変わってね.そういう中で兄弟たちの信仰生活とか教会生活とかは相当に変わって来たらしい.しかし、私はこういう事を考えます。さっきも言ったように、私がハンセン氏病でそういう療養所に入れられるのには一つ、神様の思し召しがある。それは、これからの世界は非常に複雑で、人々が自分の信仰を保つというのがなかなか難しい。だから、誰かがそのお父さん、お母さんの信仰を、その信仰の伝統を受け継ぐ息子が必要じゃないか。まぁ、神様のお考えなんですけどね。だから、誰かがこの兄弟たちの霊的な責任を持つ人が必要じゃないかという事をお考えになって、私に社会を離れて、そういう別世界へ行き、社会の移り代わりとかね、そういう物にあまり染まらないで、霊的な方面に精進して、兄弟たちの信仰を思って彼等のためにお祈りをする責任、霊的な責任を私に負わせたんじゃないかと考えたんです。だから、私ばかりではなくて、私の周囲の人たちの中には、今でも時々そういう事を話す人がいるんですよ。「長老さん。私は二十年、三十年、私のお父さんお母さんのために、私の兄弟のために祈ったところが、それがね、今、そのお祈りがかなえられて、お父さんが兄が妹がとかね、教会に出てクリスチャンになりました」とか。そういう事をよく言っているんですけどね。それなんですよ.だから、さっき言ったように非常に兄弟たちの事情とかは変わるんだから、教会からだんだん離れて行った兄弟たちがたくさんいたんですよ。しかし、それが一人一人と、また戻って来てるんですね。今はその中で、二人は天国に行ったんだけど。一番上の兄貴も相当にさ迷ったけど、やっぱり最後はね、キリストを信じながらアメリカで亡くなったんです。その他の人達は、ずっと元の信仰を再び持ち始めているような形なんです。入十五のお姉さんは幼い時から早くに嫁いだために、今まで信仰を持たなかったんだけど、この前払は八十のお姉さんをわざわざ訪ねて行って、信仰を勧めて来ましたけど.まぁ、充分ではないけど、今、七人の兄弟.だから、女が二人と男が五人なんだけど.一番末の弟がこの前、弟の妻にね、電話で「どうですか.息子さんは異国にまで行って信仰を持っているのに、お父さんお母さんはまだ教会に出て行かない。そういう状態では息子さんにすまないんじゃないか」と行ったらね。「いや、本当はね、ワイフの方が教会に行きましょうと言ってるんだけれど、私はまだ心が決まってません。これから出て行きます」というような話を電話でしたんですが。やっぱり、彼だけじゃなくて、甥たちの方もクリスチャンになっている方が多いんですね。だから、私が死ぬまでそういう子孫たちのためにお祈りをして、また、その祈りがかなうものと思ってるんですよ。
Q.視力が失われたのはいつ頃ですか? それはらい病が原因でしょうか?
本当はね、さっき言ったように、徴兵検査の時に一つの目がやられ始めているんですよ。ちょうど、その時は薬が良くなくて、私は隠れて治療していましたが、ある時、私はある民間療法の勧めで水銀を使い始めたんです。本当に今考えたら恐ろしい話なんですが。その水銀を蓬で焼いて、水銀を壊して、それを酒に入れて、その酒を飲み始めたんですよ。それは病気を治すためなんですけど。今でも私は酒は飲めない方なんですが。私はその酒を私は一年くらい飲んだでしょう。結局、その時に目がやられたんですね。後で白内障になるんですけど。そういう理由もあったんです。私は以前、水俣病の最後の裁判の模様をラジオで聞いた事があるんですが、そこに出て来た人たちの症状がいろいろなんですね。目をなくしたり、手も言葉も耳も。結局、体の全部をやられているんですね。だから、やはり私はそのハンセン氏病よりも水銀の方じゃないかと。それで手もやられ、目もやられているんじゃないかと、そういう事を考えています。二十二才頃でやられたんだけど、三十才までは私は本を読んでました。ある時、原稿を百枚くらい書いたんですが。どういう原稿を書いたのかと言えば、病院に行っても標準的な治療方法がないんですよ。この人はこれ、あの人はあれとかね。それで私は、これではいけないんのではないか。だから、こうした人たちの経験を集めて、標準的な治療方法を一つ作らねばならないという考えでね、ずっと原稿を書いたんです。その時のいろいろなお医者さんとか、患者たちの治療の経験とか、効き目とか、そういう事をずっと整理して、そして、それが終わった。私はあの時の事を浮かべているんですけどね。それが完結して、その原稿が終わってから、私は目が、本が読めなくなってしまったんです。だから、もちろん本が読めなくなっても、活字が読めないとか、ペンで字が書けないという程度で、その後は何年間か、筆で手紙を書いたりしたんですけれど。それから、だから三十才頃、本が読めなくなって、そして、白内障の手術をしたりしたんですが、小鹿島に行っても、私は杖をつかないで歩いていたんです。だから、こちらに来た時にも、私は杖は使わなかったんだけど。完全に見えなくなったは、十年.ここの村を作るという仕事はいろいろな苦しみもあるしね、まぁ、そういうのがね、自分の肉体にも影響したんじゃないかと思ってるんですが。食べ物なんかもそうだし、精神的ないろいろな問題なんかもあるしね。やっぱり、一つの教会を作るとか、村を作るというのは大変な事なんだから。それで、だんだん悪くなってね。完全に見えなくなったのは七、八年、まあ十年ぐらいでしょうね。
Q.今、兄弟と交流はありますか? どのようなおつきあいでしょうか?
そうですね。やっぱり、このハンセン氏病にかかった人たちの一番大きな悲しみというのは、家族たちとの生き別れなんですね。私は二十一才でした。まぁ、数え年で二十二才だけど。その時に出て来て、今まで。初めは二、三回くらい家に帰った事もあるし、お母さんが亡くなった時に一回くらいあるんだけど。全然、家族たちと、家に帰る時がないんですね。今でも私の兄弟たちなんかは、他の人たちと比べて、相当に暖かい方なんですけど。本当にわたしも行こうともしないし、彼等も家に来いという話もないんですね。それはね、兄弟だったら、兄、弟、それだけだったらいいんだけど。やっぱり、結婚もするしね、お嫁さんなんかが来るし、他の人たちが私の家庭に入って来るんだから、彼等に対する一つの心配なんですね。それで甥たちも育つし。それで結局、私は私たちの家に帰れないんですね。だから、家族たちがもっと同じ家族の患者たち、その病気にかかった人、その家族たちに暖かく接したり、人間的な心を持つべきなんだけど、それが問題なんですよ。全然、私と関係がない。他の人たちが私たちと付き合う分にはね。自分の家族の中で患者はないんだから、人の目をはばかる必要もないんだけど。やっぱり、自分の家庭に、その家族の中にそういう患者を持っているという事は一つの弱点なんですね。だから、多くの家族たちは人の前で自分自身の家族の中に病人がいる事を隠すのです。だから、今、電話とかね、ときどき、一年に一回か。まぁ、そうですね、私の兄弟なんかも、さぁ、なかなかですね。今年の四月、十何年ぶりに弟が訪ねて来ましたけれども。だから、結局、彼等は私が嫌だというよりも、私の変わった有様を見るのが苦しいんでしょうね。そうですね、心が痛いんですね。だから、私に経済的な支援をしてくれる弟もあったりするんですけど。兄もするし。だけど、お互いに会うというのは、なかなか忙しいしね。私もやっぱり、会いたい心はあっても、自分から来いとかね、会いたいとかなかなか言わないんですね。まぁ、そういう状態です。
[原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
定着村に生きる 忠光農園長老・金新芽さんに伺う
金新芽さん・インタビュー(1)
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