韓国における定着村事業の歩み
西ドイツ救癩会の癩事業参与
1965年6月3日、西ドイツ救癩協会・財政部長であるアーペン・ステインドル博士が来韓した。
西ドイツ救癩協会は1960年代から、韓国の救癩機関20ヵ所に50万ドルの救癩基金を支援してくれていたが、スティンドル博士はこの時も韓国政府と大韓癩協会が必要とするならば、カの及ぶ限り定着事業と癩移動診療事業を支援するという考えを明らかにした。また、スティンドル博士は、韓国の癩管理事業は非常に良く行なわれていると括り、定着村は全てが陰性癩患者であるために医学的な問題は解決されたとする事ができ、ここで育つ子供たちの健康状態を見る時、遠からず社会に復帰する事ができると思うと語った。また、スティンドル博士は、韓国人は癩病を格別に恐がって見るばかりでなく、偏見を持っている事を感じたと言い、このような点はマスメディアが理解を促して偏見をなくさせるべきだと注意深く意見を添えた。
このスティンドル博士の来韓は、韓国の救癩事業が一層活発に広がろうとしていた時期だったため、癩事業関係者たちを大きく励ます事となった。一方、大韓癩協会は6月12日午前10時に大韓癩協会の事務室でスティンドル氏に名誉会員証を伝達した。しかし、大韓癩協会の財政は、1965年度に入ってからだんだんと難しくなって、赤字運営を免れられなくなった。 これに対して保健社会部は、1965年6月10日、大韓癩協会に対して赤字予算執行止揚など、10項目の修正事項を指示した。
このような指示は、保健社会部がそれに先立って実施した検査で指摘していた事項、すなわち税収より38万ウォンも超過支出し、薬品の受払い帳簿も付けずに寄贈薬品を処理し、建物保証金である27万ウォンの内、13万2000ウォンを受け取らずにいる事を理由にしていた。また、会員募金においては、会員券を正確に交付して募金をしなければならないのにもかかわらず、一部では会員券を交付しない事例があって、協会の財産も評価できずにいたという事だ。
それで保健社会部が指示した10ヵ事項を見ると、(1)赤字予算の執行止揚、(2)未回収金を速やかに納付する事、(3)未清算額の整理(借用した物のうち、20万ウォンが未清算)、(4)不当な土地の買い入れ止揚(フェヒョン洞所在の事務室兼外来診療所用建物が無許可建物だった事)、(5)会員証の交付(一部に会員証を交付しない例あり)、(6)定款改定(定着事業を規定化)、(7)協会財産の未評価、(8)支部給料の支出支給是正、(9)薬品受払い帳簿を速やかに整理する事、(10)会員証の追加交付止揚(緻密な計画の下、会員証を配布しないでおいて追加配布する事例がある)などがあった。
このように協会に指示した保健社会部は、7月1日からユニセフの支援を受けて、4つの癩移動診療班を構成し運営させた。これによって癩移動診療班は、それまでの2個半から6個半に大幅に増えたので、1個の癩移動診療班は看護員1名、細菌検査員2名、運転手1名の計4名として構成される事となった。
一方、大韓癩協会は1965年度の重要事業として、それまで指摘されていた鬱陵島島民の集団検診事業を7月の1ヵ月間実施した。慶尚北道支部と共同で、鬱陵島全島民である2万余名に対して実施した癩病集団検診は癩病実態調査も兼ねていたが、癩協会は島民たちの拒否に備えて結核検診という名目で実態調査を実施する事にした。1965年度も暮れ行く12月2日から6日まで、大韓癩協会は小委員会を開き、1966年度の予算額を会員募金、5600万ウォン、国庫補助金、139万ウォンなど、全部で5800余万ウォンと策定した。これに引き続き18日に開かれた定期総会では、会長に柳駿氏を、副会長にはペ・ジョンウォン氏を各々選出し、理事6名と監事2名も一緒に選出した。この日、選出された理事たちを見れると、イ・ビョンハク、チョン・ヒソプ、キム・ハクフク、姜鳳秀、金重明、イ・ヨンジユン氏などで、監事は、車宗錫、南英浩氏などだ。柳駿氏は会長職を担い、「事業をする団体でなく、事業を助長する団体として作って行くために力いっぱい働きます。」と誓いの言葉を述べた。
それまでの柳駿会長の略歴を簡単に掘り返ってみると、京城医専を卒業した後、日本で癩病に関する研究をし、解放後、1947年に朝鮮癩協会を創設する産婆役を担った。また、会長になる前まで癩協会と緊密な関係を結び、常務理事として、また副会長として癩協会を引っ張って来た。前述したように、治癒癩患者のための定着事業のアイディアもこの柳駿会長の着案であり、柳会長の韓国癩病退治にかけた功労は計り知れず大きてものだった。
「世界癩病の日」の行事
1966年1月の最後の日曜日である30日は、13回目の「世界癩病の日」だった。大韓痴協会の柳駿会長はこの日、救癩事業に多くの協力をした朴泰元・京畿道知事に名誉会員証を授与した.そして。京畿道知事室で持たれた名誉会長証の贈呈式で朴泰元知事は、癩事業を直接に担う人々の犠牲精神と労苦を高く称え、今後も引き続いて救癩事業の先頭に立つ事を誓いながら、その他に談話文を通して、全道民に対して温かい救護の手を差し伸べてくれるように訴えた。一方、全国の各支部でも「世界癩病の日」を迎え、道内6ヵ所の定着部落と8ヵ所の医療施設を巡回して激励の記念タオルを渡し、京畿道では始興郡所在のセマウル定着場を訪ね、食器200個を渡した。2月に入って、柳駿会長は17日に江原地域を基点として、24日には忠北地域、そして3月17日には全南地域など全国を巡回しながら、第一線で癩事業に従事する救癩事業家たちと癩患者たちを督励した。
しかし、政府との緊密な協力の下に行なわれる癩事業であるはずが、時には地方官署と足取りがうまく合わない事もあり、地方によっては事業に大きな躓きをもたらしたりもした。1966年3月になって、ソウル市は赤十字社、結協、癩協など保健団体との合同募金を7月ごろに実施する事としていたが、会計年度が政府と同じ癩協ソウル支部の場合は、事業遂行に大きな躓きが生じるのを免れる事はできなかった。癩協の方としては、ひとまず3月から募金を始め、事業に着手しないわけにはいかなくなったが、ソウル市は既に内務当局と協議が終わったとして個別的な事業へ参画は不可能だという固い態度に固執したために事業に躓きが生じたりもした。
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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]