韓国における定着村事業の歩み
定着場事業に重点
大韓癩協会が「癩病は治る」という大命題をかかげ、対民啓蒙と定着事業などを続ける一方、政府側でもその間の事業をさらに拡張するための作業を続けた。保健社会部は私設療養所に収容中であった陰性癩患者を現地に定着させる計画を立てたが、その対象は全国16ヵ所に収容されている1000名の陰性癩患者だった。保健社会部はこのために1200万ウォンの予算を組み、1964年7月末まで計画を進めた。これは1961年から3ヵ年計画として始まった定着事業の最後の計画として位置付けられていたが、この現地定着事業は、第1次年度として全国22ヵ所に4644名を、第2次年度に17ヵ所に2013名を定着させるというものだった。そのため保健社会部は私設癩療養所を整備し始めた。そして、当初の計画通り、癩患者定着事業を中心とした計画事業を引き続き推進して行った。
そんな中、この年の7月に癩患者定着事業の過程において、一つの事件が起こった。当然、無償で使われなければならない事業費と陰性癩患者定着事業費が、年1割の利子で貸し出されていたという事実が明らかになったのだ。
これに対して警察が介入し、捜査を進めたところによれば、陰性癩患者定着事業として使われるべき関係予算が、事業機関によって5年期限で陰性癩患者に貸し出されていたという。このような結果に対して民間団体機関の担当者たちは、資金を貸し出してあげている事は、患者たちの生活意欲を培うためのものだと語った。しかし、実際に大韓癩協会などが定着場へ事業費を貸し出したと言うけれども、回収された資金はほとんどなかったために、この事件はこれといって大きくはならずに、そのまま過ぎて行った。
大韓癩協会は事業の展開とともに外国の癩事業関係団体とも緊密な関係を結び、学術活動も並行して行なっていった。その一貫として大韓癖協会は、7月31日に日本癩協会・理事長の浜野キクオ氏と日本予防衛生研究所・副所長の柳決謙氏を招請した。この日本の2人の癩病専門家は10日間滞在する間、韓国の救癩事業に対する全般的な事を視察して、救癩事業に対する両国の相互協力と文化交流などに対して討議をして帰って行った。一方、保健社会部はさらに効率的な癩患者管理のために、9月16日の午後、保健社会部の会議室で癩病管理協議会を開いた。
車潤根・保健局長の主導で開かれたこの会議では、
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患者個々人の病歴を細密に把握する事によって、より適切な施療方法を追及し実践するための病歴誌の作成統一。 |
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細菌検査成績の判定法の統一。 |
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癩患者たちに対する規則的治療。 |
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患者色出方法。 |
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保健教育、及び啓蒙。 |
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「癩病の日」の制。 |
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その他、患者の家族計画に対する関心、等の討議が行なわれた。 |
ここから細菌検査の制定を、従来の方法からWHOの基準にしたがって3段階にする事とし、患者色出方法は各郡に配置されている各特殊皮膚診療所にいるケースワーカーによって行なわれるのが良いという議論があり、特にそれも治癒した患者と地方出身が有利であるという点に意見が集まった。保健教育は各種学校などの集団体を中心的に行なう方がもっと有効だ、という意見も出された。次に「療病の日」の制定問題は、その日時に関して様々な意見があったが、結論が出せず、家族計画問題についても何の結論も出せないまま、関心を持つという程度で終わってしまった。
特にこの会議の席には、韓国を訪問中だった日本癩協会理事の浜野キクオ氏が参席していた。また、この席では約10年の間、癩患者のための奉仕活動に献身して帰国する事になった英国救癩宣教会所属のロイド牧師に対して、保健社会部から表彰状が、大韓癩協会からは感謝状が授与された。
この日の会議に招請された機関は、癩病顧間官室(トラッドマン博士、崔始龍氏)、大韓癩協会(イ・ビョンハク氏)、宣明会持殊皮膚診療所(柳駿氏)、英国救癩宣教会(ロイド、ワード、ウォルソン氏)、カトリック救癩協会(スウォニー氏)、原州基督病院、全州CIDR特殊皮膚診療所(河龍馬氏)、倭館ベダニア園、5つの国立病院長、慶尚南・北道の移動診療班長、などだった。
一方、この日の午前には、やはり保健社会部から5つの国立療病院長と医務課長、2つの癩移動診療班長が参席して会議を持ち、癩病管理の全般にかかわる問題を論議したが、その内容は、
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病歴誌の作成統一問題。 |
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未感染児童などの隔離問題。 |
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治療基準、及び施設問題。 |
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家族計画の徹底した患者入院時の措置。 |
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啓蒙教育の強化、などだった。 |
そして、1964年9月16日、国立癩病院長、及び癩移動診療班長会議を持ち、癩患者の管理問題、及びその全般にかけて幅広い討議が行なわれた。
その討議の内容は、当時が癩患者管理の基盤を固めていた時期だっただけに、とても重要な位置を占めていた。会議では主に、去る7月に論議された患者病歴誌の作成統一、未感染児童などの隔離問題、在患者治療の基準設定、及び施療、入退院措置、啓蒙教育の強化と家族計画の徹底などに対して討議された。それまでは患者病歴誌の作成に各病院法、または診療所別書式と作成要領が各病院や診療所ごとに様々だっために、患者が移動した場合、病歴競作成や患者管理で大いに苦労したのが実情だったためである。
1969年度の小鹿島
当初から癩病の有病率調査を目的とした癩移動検診事業は、受検対象者を裸にして一人ずつ検査を受けさせるようにし、検査基準は全てウエート氏癩菌検査法に基ずいて実施した。そして、受検対象は患者がたくさん発生する癩病濃厚地域の国民学校の児童、定着集団部落民、孤児院、職業補導所生、一般住民、患者接触同居者などの集団地を選定して検診した。
ここから患者発見率を見れば、国民学校児童と孤児院、職業補導所生の中には、引き続いて観察を要する若干名を除いては、患者を発見する事はできず、患者接触者の中では56名中、1名が陽性者として現われた。そして、年齢別では15才以下が、わずか2名しか発見できなかったのに反して、16才以上では1604名中、30名の患者が現われ、今後、患者色出を目的として行なう検診作業においては、16才以上の者を重点的に実施するのがもっと効果的であるとされた。一方、保健社会部でも癩管理事業に引き続きカを注ぎ、1965年2月にはユニセフの援助で、癩病濃厚地域である忠清南・北道、慶尚南・北道、全羅南・北道地域の保健所長と保健看護員、そして、公医たち向けに癩病管理に関する講習を行なった。
春と秋の2回にかけて実施した癩管理講習会は、大田、光州、全州など、3つの道・市で各々1日ずつ実施したが、参加者にはそれぞれ手当ても支給するなど細かな配慮も行なった。しかし、このような保健社会部の配慮は予算不足のために幅広くは行なえなかった。この年の5月に指摘された事を見ると、癩患者が5000名ほど収容されている国立小鹿島病院は、予算不足などを理由として充分な治療ができずにいた。即ち、1964年度に患者1人当たりの1日の試薬代が4ウォンだったのが1965年度には3ウォン20銭に引き下がり、患者診療に大きな支障をもたらしているという事だった。そして、在院患者5000名の中には、結核患者が300名ほどいたが、薬代がなくて、やっとアイナだけ投与しているという有様だった。このアイナは別途から出た予算措置ではなく、試薬代の3ウォン20銭から一部を回し、緊急策としてアイナだけを購入していたのであって、医者はわずか3名にすぎなかった。
ここで少し1965年当時の小鹿島の現況を振り返ってみよう。小鹿島の総面積は148万7595坪で、その中で田んぽが5600坪、林野が119万6400坪、大地が8万坪、そして収容された患者は5000余名程度だった。施設は病院運営のための事務室、本館と治療室本館、及び治療所、そして357個の病舎があり、学校が3つ、その他に保育院、嬰児院があった。学校は鹿山国民学校と鹿山中学校、聖経高等学校に区分されており、国民学校は本校と分校が置かれ、本校では病院職員たちの子女を教育するようにしていた。その他の学校では、未感染児童や患者の中での適令児童を就学させて、教育法による正常な教育をさせていたが、学生数は国民学校が250名(本校、130名。分校、120名)、中学校が120名、高等学校が50名だった。この他にも島内には教会と聖堂があり、罪を犯した癩患者を集団囚監するための光州刑務所・小鹿島支所が設置されており、また小鹿郵便局が設置されていて島民たちの通信連絡を担っていた。
さらに電気施設と水道施設があり、島民たちは比較的文化生活をする事ができ、アンプル施設によって公知事項や指示事項は各病舎に一斉に連結されるようになっていた。島民生活を見ると、5000名の癩患者中、大部分が夫婦生活をしており、一部独身者と未成年者たちは集団収容していたの夫婦生活をしてる患者たちは、病室1つに1世帯ずつ暮らしており、一般社会のように田畑を耕しながら家畜を育てていた。患者村では大部分が養鶏と養豚をしていたが、穀物の他にもタマネギをたくさん栽培していた。農産物は土地が肥沃なために比較的良くできて、鶏と豚も多かったが、彼等の悩みはやはり販路開拓問題である。販売地は内陸地方だが、小鹿島で生産された物品だと言うと、実際価格でなく低廉な価格で購入しようとするので、一般の市場に出せば損害を受けてばかリで、それによって購売カの方も減退し、島内産物の販売は極めて混乱しているという。
病院当局者たちもこのような点を打開するために、新しい方策を模索しようとしたが、長い歳月に渡って根深く埋めこまれて来た一般人の反癩意識によって、困難を味わった。しかし、このように農作物の栽培をしながら家畜も飼っていたために彼等の経済生活は潤沢ではないが、かといってひどく貧窮だというわけでもないようだった。また、彼等は他から金が入る所はたくさんあった。木を植えたりする仕事などは労働力として充分にできる仕事であったため手易く処理していたが、一方で莫大な金をかける材料を必要とする物はできなかった。
病舎も竣工してから数十年がたつにつれて、だんだんと老朽化して行ったが、材料がないために手を出せずにいた。彼等はセメントさえあれば、腐った木で柱を作らないで、セメントで柱の基礎を作り、もっと永久に使えるようにする事もできたのだが、そのセメントがないために腐って行く柱を見つめているばかりだと、異口同音に溜め息をついていた。
最後に島民たちの希望としては、陽性患者は何よりも一日も早く治る事を望んでいるが、大部分の患者たちは、国家の補助を受けて生きる事よりも自活できる道を与えてくれる事を望んでいるという事である。
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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]