韓国における定着村事業の歩み
ダミアン財団の癩事業参与
1966年4月4日と5日、大韓癩協会は小鹿島と麗水で全体幹事長会議を開き、1967年度の事業計画を協議した。約30余名の幹事長たちが集まった中で開かれたこの会議では、柳駿会長の祝辞に続いて来賓たちの挨拶があった後、各支部の現況を見て、そして、1967年度の事業計画などが主な議題として論議された。初日のセミナーではキム・ヨンリン事務局長が担当した協会基金の捻出に対する方策を始めとして10余種に達する演題が真剣に論議され、癩事業が当面の緊急課題としている陰性治療者たちに対する対策問題、そして未感児保育問題、及び在家患者の発見、治療などの演題などについて長時間にわたって討議がなされた。
4月14日にはチョン・ヒソプ氏がオ・ウォンソン氏の後を引き継いで1961年以来、再び保健社会部長官に就任した。チョン・ヒソプ長官は五・一六軍事クーデター政府当時、保健社会部の長官に就任し、在任してした間は癩協会の再建を始めとして定着事業の推進など、救癩事業に最も功労が大きかった長官である。
チョン・ヒソプ氏が長官として就任すると、保健社会部は4月15日に国際救癩機構であるダミアン財団の理事長であるピ・バンドン・ワインガルト氏と全文7条になる協定書にサインした。この協定によってダミアン財団は1966年から1970年まで、年間18万ドルを支援する事となり、この資金によって国立小鹿島病院の外科病棟、及び施設を補強し、癩患者のための医療恩恵と整形手術を施し、全羅道に癩移動診療班一個班を新設し、運営できるようになった。これ以外にもダミアン財団では小鹿島に癩専門医2名と看護員6名を派遣する事にしたが、その医師2名中1名は整形外科専門医、看護員中1名は物理療法専門家だった。
一方、チョン・ヒソプ保健社会部長官はこの日、ダミアン財団と救癩協定締結を終えてから発言をし、今後、国立小鹿島病院を癩専門家、及び看護員訓練のために活用する方針であるとし、その対象として、国立機関や医科大学はもちろん、一般開業医師たちの中でも希望する医師は誰でも訓練を受けられるようにすると語った。また、チョン・ヒソプ長官は癩病専門医を希望する医学徒が少ない事を考慮して、訓練を希望する医師や看護員は訓練手当てを与えて訓練させるようにするという事を確約した。
癩協の大衆啓蒙事業拡大
1966年に癩協会が行なった事業は、大きく分けて、会員募集、啓蒙宣伝、浮浪患者取締り、未感染児童の育英、在家患者色出検診、定着事業などで、現在と比べてこれといって変わる所はない。癩協会が1966年度に繰り広げた事業を概括的に見ると、次のようである。
まず、会員募集事業は他の事業の中で最も基本であると言えるが、それは事業費を調達する先行事業ばかりではなく、この会費募金事業が順序よく行くか、行かないかによって、その年の事業実績が左右されるためである。今年の募金実績は約4000万ウォン程度で、当初目標の80パーセントでしかなかったが、これは前年度より700万ウォンくらい増額して目標を設定したためであり、実際の募金額は1965年度より上回った。そして、今までで最も頭痛の種になっている事は啓蒙事業である。1966年当時もこの啓蒙事業は最も大きな事業でありながら、最も難しい事業の内の一つだった。
この癩事業は社会問題と直結して、何よりも一般、及び患者たちの認識を把握しつつ高める、いわゆる前衛事業となっているのだが、その事業内容を見ると旧来の形式を抜け出せないでいた。癩協会と政府が癩患者定着村を作り、癩患者を1ヵ所に集結させる事業を、この年も重要な事業の一つとして数えていたが、浮浪癩患者の問題は今だになくならなかった。1966年度にも癩協会は約700名の浮浪癩患者を取り締まり、彼等を小鹿島病院を始めとして富平病院などの癩病院へと移送した。
未感染児童の育英事業としては、1966年度に2000名を世話した。この事実に投入された予算は約200万ウォンで、この年には目標人員の約96パーセントしか実績を上げられなかったが、癩事業が彼等に関する社会問題と育英事業に根気強く関心を見せたという事は目覚ましい業績であると評価される。
癩協会が行なって来たいろいろな事業の中で、最も際立った事業の一つが、患者色出事業だ。それまでの癩事業は治療問題にだけ重点を置き、その中で得た効果は実に大きなものだったと言えるが、しかし、新しく発生する患者たちを捜し出して予防する事業を行なえなかったために、癩病の退治に大きな問題点を残して来た。癩協会は1966年に入って、本格的に患者の色出事業にカを注ぎ600余万ウォンの予算を定めた。1966年には3万名の検診実績の中で、5000余名を診療対象者として登録し、彼等の全てが新患者ではなかったが、忠清北道地方の一斉検診の場合は、100分の3程度が新患者として発見されたという事実を見ても、この点検事実は大きな評価を受けた。
そして、癩協会が再建されてから最も重点的に行なって来た事業が、まさに定着事業である。
1966年に入って、定着事業はある程度軌道に乗り始めた。この陰性癒患者のための自活補助費として支給される金額は、癩陰性患者たちの完全自立のために必要なものだったが、1名当たり1500ウォンにしかならず、果たしてこの補助費がどの程度の補助になるのか疑問視されている。
この他に癩協はまた、陰性癩患者たちを助けるために職業補導事業も併せて行なった.しかし、当時の社会的条件により、職業補導事業はこれといった実効を収められなかった。また、その他に、この年に癩協会は、開墾事業、調査統計事業などを実施したが、まだ草創期の時期を抜け出せなかった癩事業だったにもかかわらず、1966年度のいろいろな問題点を提起した事では、その意義があったと評価する事ができる。
[
前のページへ][
次のページへ]
[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]