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韓国における定着村事業の歩み


在宅患者の登録
1926年7月から癩患者の定着事業を下支えするために並行して行なわれた癩患者登録事業は、4ヵ月後の11月未までに1万名以上の患者が登録をする事によって、登録業務の基礎を築くに至たった。このような結果は、当初の目標人員であった5万名にはかなり物足りない数字ではあったが、それでもその意義は生かされたものと評価された。
11月末までの各市・道別の癩患者の登録状況を見ると、まず慶尚北道が5813名で最も多く、その次が慶尚南道の3543名。忠清北道、434名。忠滑南道、273名。ソウル、72名。江原道、37名。済州島、14名など。総計して、10226名に達している。
一方、協会を再整備して、政府の積極的な協力にカを得て活発な救癩事業を展開した癩協会は、1962年も暮れる12月27日午後3時、国立保健研究院で定期総会を開催した。ソウルを始めとして、全国から47名の代議員が参席したこの定期総会での討議案件は、定款改定と1962年度事業報告、及び経過報告、して1963年度の事業計画、及び予算案などであった。この他に、ソウル支部を特別支部として認定するようにしようという提議があったが、表決の結果否決され、1963年度の事業計画として、1962年度の主要事業だった定着事業をさらに拡大するための方案などが主に論議された。
1963年に入ってからも癩患者定着事業に主力を注いだ政府は、2月に入って癩診療事業におけるそれまでの方針を若干変更し、患者の在家診療も並行して行なうようにした。この患者の在宅診療は1962年から既に始められていたが、1963年に入ってさらに積極的な在宅患者治療が推進されるようになった。それは以前には多くの人々が「癩病は不治の病」だとか、「天刑の病」だとか言った間違った常識に捕われていたが、今では癩病は現代医学と最新の医薬品によって完治するばかりでなく、伝染カが極めて微弱な病なのだという事が知られて来たためでもあった。これとともに保健社会部は、1963年2月にWHOからの技術的な援助を受けて、罹患率が高い慶尚北道の1つの地域を癩病試験管理地域として選定し、癩病の疫学的調査を実施する計画を立てた。
一方、1962年に続いて1963年にも患者登録業務を継続して行なったが、1963年の目標は全体未登録者の推定数である75000名の7パーセントにも満たない5000名でしかなかった。これは1962年度に5万名を目標にして行なったが、結果はその半分に過ぎない25000名しか登録を行なえなかった事にショックを受けたためだった。
このように登録業務が行なわれると一部の癩事業関係者たちは、こんな登録進度では癩患者全体を登録させるのに何年もかかるだろうと推測したが、このような癩患者の登録が行なわれたのは、(1)癩患者自身が病気を隠そうとする気持ちが濃く、(2)一般社会人の認識不足から来る癩患者に対する敬遠性が、その最も大きな原因として指摘されている。
これによって癩事業界の一部からは、癩病も他の疾病のように完治できるという事と、その伝染性が希薄だという事をよく伝えて、一般人たちが伝染性のない陰性癩患者たちに対して正しい認識を持つようにさせるために、継続的な対民啓蒙を行なう必要があるという主張が強く起こった。

五馬島の定着計画
1963年3月、政府は全国の癩患者診療と陰性癩患者に対する定着事業を立案した。その内容を見ると、まず2000万ウォンの予算で全羅南道の五馬島(オマド)に陰性癩患者2100余名を定着させ、15500名の患者を管理している全国の私設収容所に、糧穀補助金として1600万ウォンを支給し、1100万ウォンで麗水・愛養院、安東・星座院、大邱・愛楽院に収容されている不具癩患者1300名に対して生活補助をし、最後に30万ウォンの予算で、全国の浮浪癩患者たちを捜し出し、国立病院に収容させるようにしたが、その目標人員は500名だった。一方、五馬島には癩患者ばかりでなく、一般避難民1000名も収容するようにした。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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