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韓国における定着村事業の歩み


四・一九革命と癩協会
このように癩協会が、会の拡張など活動を繰り広げていた中、1960年4月19日、革命が起こった。この革命によって、世の中が急に引っくり返ったため、大韓癩協会としても体質改善をしなければならなくなり、6月30日、代議員総会を開き、純粋な民間団体として再出発する事となった。この日の代議員総会では、会長団以外に、方周減、金大發、陳文源、ユン・ジンウ、ベ・ソングン、ペ・ジョンウォン氏などを選出し、幹事には、車宗錫、パン・スンジュン氏を選出した。これとともに、新しく評議院会を設置し、各界各層の有志と関係機関の代表を中心に、30名を評議員に選出し、事業を推進した。
革命により新しく発足した民主党政府は、癩事業にカを注ぎ、全体保健予算の約50%を癩事業に使ったが、その効果はあまり大きくは現われなかった。この時、癩協会の柳駿氏は、医政局長であったユン・ユソン氏に会い、癩患者たちに自活できる道を与えなければならないと主張した。ここで話が進み、試験的に仁川市・清川洞と益山郡・飛龍農園、そして慶尚北道・月城郡などの新しい土地に予算がまわされる事となった.
しかし、1961年5月16日、軍事クーデターが勃発した事により、大韓癩協会は他の全ての社会団体と同じように、解散を命じられ、その機能が停止してしまった。

五・一六軍事クーデターと大韓癩協会
五・一六軍事クーデターが起こった事により、政府機構の一部が改編され、これによって保健社会部の機構も改編され、それまで癩病、結核などの慢性病の行政を担当していた施設課は、慢性病課となった。この時の慢性病課の課長は、崔始龍氏(現・カトリック医大教授、慢性病研究所所長)で、彼は五・一六軍事クーデター以前には、施設課長職だった。崔始龍氏は五・一六軍事クーデター以後にも、引き続いて慢性病課長職を担ったが、仕事を進めながら、官のカだけで慢性病管理をするのは、非常に困難であると感じていたため、軍事クーデターにより解散させられていた民間団体を、復活させなければならないという考えから、その設立を上層部に進言した。
一方、在野の癩病関係者たちも癩協会の再建を痛感し、当局と折衝をした。そして、このような官民の努力によって、この年の11月、ついに癩協会は再建された。この時、新しく選ばれた会長には、民主党政府当時、保健社会部の次官職を担っていたイ・ビョンバク氏(現・ソウル赤十字病院長)が選出され、副会長には、柳駿氏が選ばれた。会長にイ・ビョンバク氏が選ばれた理由としては、それまで長期間にわたって、保健社会部で働いてきたために、その行政能力の卓越性が高く評価された事が上げられる。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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