韓国における定着村事業の歩み
未感染児童の就学拒否
大韓癩協会が、困難な中でも癩学会を作り上げる等、様々に動き始めた反面、いまだに癩病に対する恐れを抱いていた一般大衆層は、癩患者はもちろん、癩患者の家族との接触さえも忌み嫌っていた。このような風潮は全国的に未感染児童たちの就学問題において大きな疎外要因となった。1958年6月、忠清南道・大田市にあるピエールズ愛育園の児童が、ドンガン小学校へ就学する事を拒否される事件が起こった。
この未感染児童たちの就学を拒否する人々の中心は、まさに事親会の幹部たちと父兄ら等の一般市民たちだった。癩協会はすぐさまこの間題の解決のために柳駿常務、陳文源総務、そして延世大学・微生物学教室の教室員などを大田へ派遣し、啓蒙のための講演とラジオ放送、そして座談会を通して、癩病に対する認識を改めるとともに愛育園児童らに対して検診を実施し、彼等は癩患者ではない事を明らかにして就学を斡旋した。
1950年代の癩協会活動のあれこれ
また、この年の9月には清州・愛養園の在園者だった数名の患者と20余名の浮浪癩患者が、清愛国を襲撃しようとする事を未然に防止して、主謀者たちに法的制裁を加えるとともに、数十名を小鹿島・更生園へ移送するという事も行なった。
そして、1958年10月30日と11月11日には、プサン市にある中央再汚園で各道の行政要員、療養院管理者、及び社会事業家たちが集まって、癩病に関する講演、行政方針の指示、事業実態、その他に対する報告、討議、質疑応答、第3医学に対する特別講演などを開催した。
一方、海外へも目を配り、1958年11月12日から19日まで、日本で開かれた国際癩学会、及びWHO西太平洋地域区・癩病会議に柳駿氏が参加し<「韓国癩病の疫学的研究」と「トリプシン消化法による癩病の初期診断に関する研究」など、2つの演題を発表した。1959年3月には、癩病完治者の職業紹介のために大田市の中央農民学校を訪問して退院者の技術指導について交渉をしたが、学院の事情から入学させる事はできないと拒まれた。しかし、協会が将来、癩患者のために施設を作るのであれば、その運営に協力するという約束を受けた。
このように小さな規模ではあるが、いろいろな事業を行ないながら、協会は治療のために訪ねて来た在家患者たちを延世医大、ソウル医大、首都医大などへ斡旋し、診察の後、DDSを配り、望む患者に対しては治療入院を勧め、1957年と1958年の約2年の間に517名の患者を取り扱い、6名の患者を療養院に入院させた。
一方、協会活動の拡張にしたがって、ソウル特別市、忠滑南道、江原道、慶尚南道などに支部を設置し、1959年10月8日から4日間、プサン医大で開かれた医協代議員会総会と各分化学会学術大会に参席した医師など、その他の人士たちに、ポスターと治療薬品を提示して、癩患者診断と治療方法などに対する宣伝、啓蒙活動を行なった。
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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]