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韓国における定着村事業の歩み


「大韓癩協会」の再建
戦争を緯て、社会がまだ充分に形を整えていない中でも、政府と一部の癩事業家たちによって救癩事業が行なわれていたが、やがて政府は癩事業のための民間団体の必要性を切実に感じるようになった。
ちょうどその項、若き癩学徒として、解放直後の混乱期に救癩事業に献身し、六・二五動乱の直前にアメリカヘ渡り、カリフォルニア大学・ロサンゼルス医学部で癩病研究をした柳駿氏が、1955年8月に帰国した。柳駿氏が帰国した日、汝矣島飛行場には、イ・ヨンソル氏を始めとして、ユン・ユソン氏、パン・スンジュン氏、陳文源氏、キム・ヨンマン氏など、癩病関係者たちが多数出迎えた。柳駿氏は飛行機のタラップから降りて、歓迎に出て来た人々と挨拶を交し、まず癩協会の事について尋ねた。だが、その答えは「一度も集まれなかった」というものだった。そこで柳駿氏は、このように集まったついでに、この席で癩協会の再建理事会を開こうと提議して全員からの賛成を得た。柳駿氏とイ・ヨンソル氏を始めとした一行は、その足ですぐさまソウル駅の二等待合室の二階にある食堂へと向かい、ここで彼等は韓国の癩事業に関するいろいろな話し合いを行なって、癩協会を再建する事を決定した。
このように癩協会の再結成を決定した後、1955年末頃、朝鮮癩予防協会は発展的に再編成され、「大韓癩協会」として再建された。また、当時は政府の方でも癩協会を発展させなければならない事を感じていたために、大韓癩協会の創立に対しては、政府からの積極的な援助を受けたために政府の認可とか何だとかの心配もなく、順調に設立された。このような経過をたどり、大韓癩協会は12月末頓に設立されたとされているが、正確な発足日はよくわからないまま今日に至っている。
1955年末、政府からの一定の書類もなく、そのまま協会の存在が認定され設立した大韓癩協会は、会長に保健社会部長官の鄭準模氏を選出し、副会長に保健社会部次官の申孝善氏と崔昌順氏、そして総務理事にユン・ユソン氏、総務に陳文源氏などを選出した.また、理事には前記の人士に加え、金尚泰、金哲柱、鄭駿氏.幹事には、方昇俊、車宗錫氏などがなった。このように、「官」を主体として部署を決めた事は、協会をこのまま純粋民間団体として運営させるには困難が多かろうとの見通しから、官が主導カを掘って救癩事業を積極的に押し進めようとしたためであった。
1955年、協会はその初仕事として、まず癩病に対する啓蒙事業を繰り広げる事とし、当時の保健社会部・医政局長、ユン・ユソン氏が著した「癩病の常識」を保健社会部と癩協会の共同名義で発刊した。この「癩病の常識」は、「癩病はどんな病気なのか?」で始まり、病原菌の正体、癩病の伝染経路、癩病と環境の関係、癩病の分布、癩病の症状、治療法などを簡単明瞭にわかりやすく解いたものだった。韓美財団の援助で出版されたこの書籍は4×6版で36ページの小冊子で、当時、全国の癩患者を始めとして一般大衆に無料で分配され、癩病啓蒙事実において大きな役割を担った。
しかし、これ以外の癩協会の活動は予算不足から、これといって目につく事がなされないまま、1957年11月に再び半官半民体へと変わり、総務理事に民間人の柳駿氏が就任した。このようにそれまで官主体であった協会を半官半民体にした理由は、協会運営に多くの困難があった事が一つと、民間団体にしても政府との関係には特に支障がないと判断したためであった。
このように半官半民の形態で運営を継続した癩協会は、その翌年の2月を保健当局と共同で「癩病の月」と定め、ソウル市内の要所に「癩病は治る」という掲示版を設置したり、柳駿総務理事と陳文源総務が数回にわたって、保健専門医委員会・癩病専門委員会に参席したりした。

大韓癩学会の創立
1958年と1959年の協会活動は、現在のような積極的な活勤はできなかったが、協会関係人士たちは、癩協会の基盤を一固めるために、ありったけのカを注いだ。
1958年3月には、保健当局と共同主催で、慶尚北道の大邱市で保健所要員のための講習会を開き、各市、道の保健所の医師、看護員、及びその他の要員に癩病に対する病因、病理、臨床、初期診断、治療、予防、そして癩行政などの全般に関する講義を行なった。また、この時、保健当局と共同で慶尚北道での癩移動予防班の運営方法を協議し、一般の官民それぞれにこの事業の重要性と癩に対する認識を改めさせる事に積極的に協力するようにと訴えた。
また、このように事業を進めて行くうちに、協会事業を学術的に裏付けるための学会の必要性も感じ始めた。そこで1958年6月15日、大韓医学協会の定期総会に集まった人々の内で、癩病専門家の10余名が学会創立のための発起人会を開き、8月8日と9日の両日、小鹿島・更生園で講習会を開催するとともに、40余名の癩病関係人士たちが集まった中で創立総会を開く事にした。この時、名称を「大韓癩学会」と定めたこの学会は、初代会長に柳駿氏、副会長に金尚泰氏、総務にユン・ソクウ氏、そして、学術にアン・プホ氏を選出した。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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