韓国における定着村事業の歩み
「集団部落運動」の再開
一・四後退を径た後、戦闘は38度線を中心にして熾烈を極め、若者たちは全て軍隊に取られ、続々と前線に投入されていった。社会全体が混乱していたその当時、若者たちは全て入隊させられたが、その時、精密な疾病検査など行なう暇などはなかった。これにより我が軍には、少なからぬ数の初期癩患者たちが入隊する事になった。始めは別にこれといった症状もなく、自分自身も癩患者なのかわからない状態で入隊したこの若い患者たちは、軍隊に入隊後、戦場でひどい仕事をさせられると、まもなく相当数の患者の病気が悪化して、目で見ても明らかなくらいに症状が現われ出した。一方、甚だしい民族的悲劇である六・二五動乱のために、朝鮮癩予防協会も他の団体と同じように解体状態になってしまい、また、せっかくうまく行っていた集団部落運動も、事実上の停止状態におかれてしまっていた。
そのな中でも、臨時首都のあったプサンでは、保健社会部の癩病関係者たちを始めとした一部の癩事業家たちによって、協会活動に対する論議が行なわれた。しかし、これはただの論議に終始しただけであって、これといった実は結べなかった。1953年のソウル遷都後もまだ社会の形がしっかりと整っていなかったという事情もあって、団体活動を行なえないまま政府による消極的な投薬、及び患者輸送事業、そして各療養所別に関係する救癩事業家による患者治療や療養事業などが行なわれていた。
この当時の癩患者の推定数は、確実な集計が出されないまま15万人、あるいは20万人と、学者によって違う数字を上げられていた。政府はこのような様々な人々による癩患者の推定数を総合した結果、15万人はあまりに多いと考え、約10万人であると推定した。一方、六・二五戦争当時、あちこちの集団部落に収容されていた癩患者は富平・星蹊園を始めとして23ヵ所、約5000名に達し、これ以外にも数万名に達する患者たちが、家にそのまま隠れて治療していたり、街を彷徨していたりしていた。
戦争が終わり生活が逼迫してくると、数多くの癩患者たちが街にあふれ出し、物乞いなどをしながら歩いていたために、再び浮浪癩患者たちの事が大きな社会問題となり始めた。
この時、政府の方でも癩患者問題の深刻さを認め、癩病啓蒙事業に対して集中的にカを傾けるようになり、「癩病は直る病」という事実を一般社会に広く知らしめる広報活動を活発に行なう一方で、リーフレットやパンフレット、そして啓蒙用の書籍などを作って広く配布するとともに、療養所から出た患者たちを集めて集団部落を形成する事にカを注いだ。これとともに政府は浮浪癩患者を1ヵ所に集めて、安東、漆谷、龍仁、義城、尚州、永州、慶山、益山などに定着村を作って集団収容させた。
この定着村は始め作られた時、多くの困難を味わわなくてはならなかったが、その中でもっとも大きな障害だったのが、住民たちの反発だった。それによって政府は癩患者たちを1ヵ所に集めながらも、一方で頑なに反対の意志を曲げない住民たちを宥めるのに、神経を払わなければならなかった。一度、定着村を形成する事業に腰を上げた政府は、彼らの自活を助けるために救護糧穀を配給する一方、若干の補助金も支給し、また、OECからの援助も受け、家を建てたり薬を配ったりした。
この定着村を試験的に建設した所が、京畿道・龍仁の「東震園」であり、また、この時から癩患者たちを、伝染者、非伝染者に分けて、治療に臨むようにさせた。
新薬の普及
六・二五動乱以後、アメリカ軍が大挙して韓国に駐屯した事によって、西洋医学の国内導入が増加し、これによって新しく開発された効能の良い各種の癩病治療薬が、続々と韓国に入って来た。そして、政府はこれらの薬品を広く配布する事にカを注ぐようする一方、それまで使用してきた「大風子油」を使わない方針を取った。
この時、入って来た薬品はズルフォン剤としてダイアゾン、プロミン、プロマセジン、ソルペドロン、そしてDDSなどがあった。特にその効果が絶大で、今では多くの患者たちの間で救世主のように見られているDDSだが、当時はその副作用があまりに強かったため、患者たちの間でにひどい反発を引き起こした。このDDSを続けて使用すると薬の中毒症状によって貧血症状になり、皮膚炎が生じ、肝臓に変化が起こって、時には精神異常をきたす場合もあった。それゆえ、この薬を使いながら中毒症状が現われれば、すぐに薬の服用を中止して、医者の指示にしたがい、中毒症状がなくなったら、また使うという方法を取らなくてはならなかった。このような事前知識を知らないままこの薬を飲んだ患者たちが、薬によってひどい副作用が現われるのを見て驚くあまり、この薬に対してひどく反発するようになったのも当り前の事であった。患者たちの中では、.始めは少しずつ薬を飲んでいたのだが症状の好転を見て、病気が早く治る事を望む欲から薬を大量に服用するようになり、ひどい副作用を引き起こすという例が続出した。副作用を引き起こした患者たちの症状を見ると、その大部分が貧血を起こしたり耳が聞こえなくなったりする例であり、中には貧血がひどくて死んだ患者もいたという噂まであったが、これは確認されてはいない。
しかし、このような副作用にも関係なく、政府は薬の使用法の啓蒙とともに、引き続きこの新しい薬を普及させた。この投薬事業とともに政府は患者の実態調査も同時に行ない、1955年には英国救癩協会のロバート・G・コークリン博士を招請し、全国の療病患者の実態網査を実施した。3ヵ月間実施されたこの調査によって韓国の癩病実態をある程度把握したコークリン博士は、癩患者の数を約20万名と推定する一方、韓国政府に対して在家患者に対する移動診療実施を勧めて英国へ帰国した。しかし、国内では、それまで政府や国内の学者らが推定していた10万名という数字とあまりにも開きがあるという理由から、この20万名という数字は採択されなかった。
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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]