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韓国における定着村事業の歩み


朝鮮戦争と小鹿島
このように解放後しばらくは混乱した時期を経ながらも、1949年には癩患者たちも、そのほとんどが定着する土地を見つけて安住していたが、そんな中、我が民族における最大の悲劇である六・二五動乱(朝鮮戦争)が起こった。戦争が起こると、社会は混乱のどん底に陥ったが、癩患者たちの間には大きな動揺もなく、定着部落を離れる事もなかった。それはある機関の中でじっとしている方が、戦場でさ迷う事よりも安全であるし、糊口之策ともなると考えていたからだった。
ここで我が国の癩患者の集団部落として最も代表的な小鹿島・更生薗が経た六・二五動乱を紹介する事で、癩患者村が経た戦争の断面を表わしてみる事にしよう。
1950年、六・二五動乱勃発直前に小鹿島・更生園に収容されていた癩患者は6100名に達し、院長は金尚泰氏だった。そして、医者として安富浩、金英奎、洪南太氏などがいた。北(北朝鮮軍)の南侵が始まり韓国軍がだんだんと南の方へ押されると、まもなく小鹿島にまで危険が迫って来たため、院長を中心にして職員会議が開かれた。
この会議での一番重要な課題は食料問鐘であった。これまで全ての物資は海を通して輸送されていたため、万一、この道が塞がれたら、食料の確保は大変な事になる。したがって、食料が不足する場合、患者たちは食料を求めるために職員地帯に押しかけて来て、騒乱をひき起こす憂慮も多分にあったため、これにどう対処したらよいかが、ひとつの大きな課題だった。
このような憂慮は、解放直後に患者たちが職員地帯を壊撃した時、鹿洞に駐在していた警官らが出て来て、患者たちに発砲し、傷を負わせたという不肖事が既に起こっていたため出されたものだった。そして、この会議においてまっ先に出た意見は、事故を未然に防止するために、患者たちを陸地へ送ろうというもので、同席した者から相当の賛成を得た。しかし、この意見は6000名にものぽる患者たちを輸送しようとすれば、長時間かかり、また送り出した患者たちが1ヵ所に集まり、腹がすけば、住民に迷惑をかける場合もありうるという反対意見により否決され、結局、たとえ死者が出たとしても、島に押し込めておくべきだという方針に全体の意見が固まった。
そうこうしているうちに共産軍が入って来て小鹿島を占領し、全ての職員に履歴書を提出するようにと命じた。この履歴書によって、解放後、北部から南部へ移って来た職員たちは全て銃殺されたのだが、この時、銃殺された人々は病院の薬剤士を含めて30名を越えた。一方、金尚泰院長は捕えられ高興内務所に閉じ込められ、その後、釈放されたが、医師たちはその特性上これといった被害を受けなかった。
しかし、国連軍の仁川上陸作戦以後、共産軍の敗色が濃くなってくると、赤色分子たちは、職員たちを処刑する動きを見せたため、金尚泰院長は患者たちの中に隠れ、他の職員たちも職員地帯の裏山に隠れた。いつ捕まるともしれない緊張した状況の中、まもなく職員たちは島に入って来る二隻の大きな船を発見した。だが、これは我が方の警官をいっぱいに載せた船であって、いつも金尚泰院長と親しくしていた朴亨根総警が指揮していた。朴総警は、当時プサンにいたが、木浦警察署長として発令を受け、任地へ赴く途中、金尚泰院長の消息が気になって、小鹿島に立ち寄ったという事だった。それは本当に危機一髪の瞬間だった。

北からの癩患者輸送作戦
国連軍の歴史的な仁川上陸作戦の成功によって、これまで防戦一方だった韓国軍と国連軍は、一転して北へ北へと共産軍を攻め上げ、あと少しの所で我が民族の願いである南北統一が実現するまでに至った。しかし、中国軍の戦争介入により、国連軍は作戦上、後退をよぎなくされ、これにより戦争は長引く事となった。
この時、共産軍は北部にいた全ての癩患者たちを1ヵ所に集め、元山の沖にある大島という島に隔離収容していた。国連軍が元山を撤収した時、この大島に収容されていた患者は約100余名程度いた。そして、北へ北へと攻め上げていた国連軍が、中国軍の介入により後退させられると、共産党の圧政の下で、苦しんでいた北韓の地の住民たちは、長蛇の列を作って国連軍の後に従った。一方、元山まで至った国連軍はここから海上を通って後退する事になったが、民間人の避難も一緒に手助わなければならなかった。この時、大島に収容されていた癩患者たちは、自分たちも一緒に南下させてくれるようにと国連軍に懇願した。この患者たちの懇願に接した国連軍は、切迫した時期の後退という状況の中で、一般人を船に乗せているのに、癩患者だと言って船に乗せないというのは人道に反するとして、患者たちの中で願う者を全て船に乗せる事にした。当時、この船に乗った患者たちは九十九名だったが、病の症状はそれ程ひどいものではなかった。
彼らは大島に収容されていた当時、プロミンやダイアゾンのような薬は、名前すら聞いた事がなかったのはもちろん、在来式の薬である大風子油さえも飲めず、わずかに大風子種を食べたりする程度だったという。また、大部分の患者たちはハムギョン道出身であり、極小数だが、平安道出身の患者もいた。一般人避難民とともに、大島の癩患者たちは一端プサンに到着し、船は一般の避難民を下ろした後、癩患者たちだけを他の船に乗せて小鹿島へと向かい、更生園に引き渡した。このようにして小鹿島には、北からやって来た99名の患者が新しく加わる事となった。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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