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韓国における定着村事業の歩み


八・一五解放と朝鮮癩予防協会の創立
8月15日の解放を迎えると、一般の社会と同じように、癩患者たちの管理も一時的に空白状態となり、これによって多くの癩患者たちが収容所を脱出し、再び全国の街頭に現われるようになった。解放前後当時は、癩病の治療薬といってもほとんど見あたらず、甚だしくは包帯までもなくなったため、患者たちは蒲団の布を破いて膿んだ皮膚を覆い隠して外へ出た。そして、患者たちは膿が流れる腕や足を引きずってソウル市内を点々としながら、物乞いによって糊口を凌いだ。
また、小鹿島・更生園の場合でもやはり例外ではなく、1年の間の死亡者が6、700名にもなったため、患者たちは皆、癩病は到底直す事ができない天刑の病だと言って自暴自棄に陥ってしまった。
このような失望状態から街中をさまよう癩患者たちの数は、1946年と1947年に入ってから頂点に達し、浮浪癩患者問題は毎日のように新聞で報道され、社会問題化した。しかし、社会は癩患者に対する問題点だけを羅列するのみで、解決策は提示できずにいた。ただ、漠然と癩患者たちを1ヵ所に集めて収容しなければならないと言うだけであった。
そんな中、1947年9月になって、柳駿、姜大鉉、方洙源などを中心とした癩病問題について意を等しくする人士が1ヵ所に集まり意見を交した結果、「朝鮮癩予防協会」を創立するに至った。これが現在の「大韓癩協会」の前身にあたる。
この時に選任された理事は、イ・ヨンソル、張勉、ユン・ホヨン、柳駿、全用淳、金明善、金尚泰、崔昌順などで、会長には、イ・ヨンソル氏、副会長に張勉氏、そして常任理事には柳駿氏が選出された。このように癩患者のための「朝鮮癩予防協会」が創立されるにはされたのだが、続いて事業のための財源の捻出が問題となった。それで結局、財源を街頭募金によって賄おうという事になり、主に女学生たちが募金活動に参加するようになった。
その方法は、社会事業を担当するパン・スウォン氏と学術的理論を担当する柳駿氏、そして癩予防協会の関係人土たちが女学校を訪ねて行き、まず柳駿氏が癩患者に対する医学的な知識を詳しく伝えた後、次にパン・スウォン氏が進み出て、女学生たちに向かって「みなさん!このような癩患者たちを助ける事業に協力して下さいませんか?」と問うと、女学生たちは皆「はい!」と手を挙げた。そうして女学生たちは街頭に出て、募金活動を行なう活動に参加するようになったという。

「集団部落運動」の推進
解放後、街頭にあふれ出ていた癩患者たちの問題を解決するために、意を同じくした癩病関係人士たちが中心になって設立した朝鮮癩予防協会は、感受性が強い女学生たちの参加による街頭募金を繰り広げ、その全ての金を使って患者たちの願う通いに、安定した自立生活のため自分の家を持たせ、自分のカで農作業を行ない、食べて行けるように導いた。結果的に見ると、政府が癩患者を収容管理する費用よりずっと少ない費用となり、その一方で幸福に生きていける可能性をも提示できた。
その後、全国的に癩協支部を組織し、六・二五動乱(朝鮮戦争)直前まで、約5000余名の浮浪癩患者を入植地に安住できるようにしたが、これがいわゆる「集団部落運動」と呼ばれる物の成果だった。
この集団部落運動は癩患者たちの自活努力を基に、遊休地に定着療養生活をさせる事によって伝染を防止し、規則的で科学的な療法を受けさせ、また、それとともに国家の経費をも節約する事にその意義を置いていた。そして、この集団部落運動の初仕事として、ソウル市内の敦岩洞一帯に寄り集まっていた癩患者たちを忘憂里に移住させて臨時集団部落を作った。この仕事を行なうにあたっては、協会幹部たちと金永萬、パン・スンジュン、ホン・スンピョ氏などの努力と、ソウル市内の男女中高校生たちの募金活動がその大きな裏付けとなった。この運動は当時としては非常に成功的であり、小さな経費をもって、多くの癩患者を救援する事ができたと評価されている。
特にソウル、京畿地域の場合、癩患詩人である韓何雲氏が中心になって、現在の国立富平病院である「聖蹊園」へ、主にキリスト教系の患者たちを集結させるのにカを注ぎ、安養の「聖ナザロ園」の方にはイ・キョンジェ神父が中心となってカトリック系の癩患者たちを集めた。
この聖ナザロ園はもともと日本人の結核患者たちが療養するための病棟だったが、セプランス医学専門学校出身であるソ・ジンタク教授(現/廷世大学医学部、寄生虫学教室主任教授)がその払下げを受けてセプランスに残したものであった。当時のセプランス医科大学は、そのまま結核病棟として使用していたのだが、その管理が不充分で経営もいい加減だったために、安ゲルチオ神父が癩患者たちの集団収容ないし治療をするために買い取ったのだった。
当時、癩患者治療に使われた薬品は、大部分「大風子油」だったが、この薬を患者たちに飲ませたり筋肉注射をして使用した。解放後、新しく導入された新薬としてプロミンとダイアゾンがあった。この新薬は、日帝時代に麗水の愛養院院長として我が国の救癩事業に大きく頁献したが、日帝によって追い出されたウィルソン博士が、解放とともにアメリカ軍政のハジー中将の癩病関係顧問官として再び韓国へやって来た時に持って来たものである。しかし、当時この新薬は外国ではその効果が高かったのだが、副作用が多く、また静脈注射を何度も打たなければならなかったため、多くの患者たちがこの薬の服用を避けた。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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