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韓国における定着村事業の歩み


朝鮮癩病根絶策研究会」の発足
安在鴻が中心となって作られた「朝鮮癩病根絶策研究会」の趣旨文には、民族愛と人間愛が刻み込められており、読む者の心を感慨深くさせた。「人類愛による押さえきれない衝動と、民衆保健の強い要求から、私たちは朝鮮癩患者の救済とその予防事業を確立することを熱烈に主張する・・・」で始まるこの趣旨文は、癩病は遺伝病でなく伝染病であり、不治の病でなく治療可能な病である事を強調し、すべての人々は人道の大義から救癩運動に参与するようにと訴えている。参考までに、この時「朝鮮癩病根絶策研究会」の発足に参与した委員たちの名簿を見ると、当時の我が民族の精神的支柱とも言えるユン・ジホを始めとして、安在鴻、ソン・ジヌ、金性洙、キム・ビョンノ、申興雨、李仁、崔奎東、呉競善、玄東完、明済世、李鍾麟、韓何雲、自寛洙、金弼洙、ホン・ビョンソン、ウォン・イクサン、チョ・マンシク、キム・テクウォン、楊奉根、パク・スンジク、玄俊鎬、ユン・ヒョンテ、チェ・フンジョ
ン、李基台、金応圭、李舜基、ユ・オクギョン、鄭仁果、申公淑、ソ・ジョンヒ、クッ・キヨル、柳光烈、イ・ソングン、金乙漢、朴淵瑞、朴容義、梁在旭など、38名の名がつらなっていた。
しかし、このようにチェ・フンジョン牧師が主導して、我が民族の先覚者たちか集まって発足した「朝鮮癩病根絶策研究会」だったのだか、当初は発起趣旨に比べて、その活動はあまり活発でなかった。その理由として、当時この研究会に参加した人士のほとんどが癩病とは距離が遠い人々であり、また、日帝の弾圧によって対民募金が思うように行かなかった事が上げられる。
しかし、その発起趣旨は、社会各界に少なからぬ影響を及ぽし、朝鮮総督府は「朝鮮癩病根絶策研究会」が発足してから3年後の1932年12月27日に「朝鮮癩病予防協会」を設立するに至った。
この「朝鮮療病予防協会」が設立されると、朝鮮総督府は癩患者たちのための事業を一元化するという口実の下、この協会以外にはどのような寄付金も受けられないように釘を刺して、朝鮮癩病根絶策研究会の活動はもちろんの事、その他の国民運動も一斉に禁止し、各方面で韓国人たちを苦境に落とし入れた。
結局、帰納的に考えてみると、日本人たちは始めは何の考えもなかったが、西洋人たちが韓国に来て慈善事業をしているのを見て、小鹿島に慈恵医院を作り約600名の患者を収容していたのだが、我が社会指導者たちが作った朝鮮癩病根絶策研究会からアイデアを得て、官製団体として朝鮮癩病予防協会を作った後、これをもって我が民族を弾圧するための道具として使ったと解釈できる。
この地で救癩事実をすると言って朝鮮癩病予防協会を作った日帝は、これと同時に慈恵医院を「更生園」とその名称を変え、患者6000名を収容できる世界最大の癩患者療養院を作る事業に着手した。この仕事の中心人物はもちろん、京畿道の警察局衛生課長であり小鹿島・更生園の院長を兼ねていた周防正李だった。
朝鮮癩病予防協会を創設した日帝は、小鹿島病院を拡大するのに必要な財源を捻出するために、朝鮮癩病根絶策研究会に参加した金性洙などを始めとする韓国人社会有志から多くの献金を募った。その時、周防はこの献金を受けながら、癩病根絶策研究会とその趣旨は同じ事だと言ったという。この時に集められた募金の金額は、当時の金で150万ウォンにのぽった。

小鹿島の拡張
このように小鹿島・更生園を拡張するために募金をした周防正李は、小鹿島全体の島民たちを全て撤去させ、すぐさま工事に着手した。一方、周防が小鹿島に6000名の癩患者を収容できる療養所建設工事を始めると、その当時、日本での癩病研究、及び癩事業分野において最高の権威者であった光田健輔博士がこれに全面的に反対した。
光田博士は東京帝国大学医学部の第1回卒業生で、その当時の同期同窓生たちが皆、教授や開業医として成功していた中で、唯一ただ一人だけ癩病を専攻し、その後、日本の癩患者問題を解決するために決定的な役割を果たした人物だった。
光田博士の考え方は、癩患者たちは社会的虐待と身体的不具の状態の中で生きているために、彼らを1ヵ所にたくさん集めて収容する場合、適切な治療と安定した保護を行なう事ができなくなり、また、人権も蹂躙されやすいというものだった。このように簡単でとても含みのある考え方から、光田博士は絶対に1000名以上収容する療養所は作らなかった。
しかし、周防は最後まで自分の説を曲げず、4年に及ぶ工事の末、ついに1936年、収容所を完成させ、全国にいた患者たちを収容させてしまった。周防が小鹿島病院を建設する時に用いた人力は、そのほとんどが患者たちを動員する事によって賄われたという事は言うまでもなく、その時の患者たちが受けた苦しみは想像する事さえ困難なほど悲惨なものだった。
このように大規模収容所を作り、6000名にのぽる患者たちを1ヵ所に収容してみると、ここに副作用が生じて釆ざるをえなくなるのは当然の事だった。その上、癩患者のための治療よりは、隔離収容を基本にすえた収容所だったため、普通の人でも耐えられないような監視と抑圧の下に置かれる事となった。
この当時、日帝は1年に1回ずつ、内陸で癩患者を物色しては、小鹿島・更生園に強制移送していたのだが、その時、癩患者たちはこの強制移送から逃れようとして、護送車から決死的に飛び降りたりするなど、見るに忍びないような残酷な様相を繰り広げていた。また、小鹿島・更生園に収容された患者たちの方も、どうにかして小鹿島を脱出しようと心を砕き、その結果、看護長や看護員の目を逃れて海の中へ飛び込み、泳いで陸地の方へと脱出しようとする者まで現われたが、その中には疲労のあまりそのまま命を落とす患者も少なくなかった。
このような患者たちの気持ちを全く頼みずに、癩患者たちを収容隔離していた周防は結局、1942年6月20日、報恩感謝日である銅像参拝の日に、慶尚北道・星州出身の患者、李春成によって刀で切りつけられ暗殺されてしまった。
この時、周防を切った李春成患者は、「始めは周防を切る意志はなく、患者たちをとても苦しめていた憲兵出身の看護長を殺そうとしたが、その看護長が見あたらず、周防を切った」と語った。その理由がなんであれ、周防が患者の刀によって非業の死を遂げたという事は、結果的に見れば、周防の主張よりも光田博士の理論の方が正しかったという事を立証する事になった。
周防が死んだ後も、小鹿島・更生園は引き続きそれまでの方式通りに運営され、その後、日帝がアメリカを相手に太平洋戦争を起こした後からは、朝鮮総督府の御用団体である朝鮮癩病予防協会の活動は遅々として進まなくなったが、このような状態の中で我が国は1945年の解放を迎えた。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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