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韓国における定着村事業の歩み


定着場の実現
官民の努力により、1961年11月、大韓癩協会が再建された頃、政府は1億700余万ウォンをかけて仁川市・清川洞に154名、全羅北道・益山郡に246名、慶尚北道・月城郡に240名を居住させるための作業に着手し、そして、ついに12月27日、仁川市・清川洞にある山の麓で「清川農場」の入居式が行なわれた。
この定着場は柳駿氏がチョン・ヒソプ長官と会った時に定着事業の推進を主張し、これに対してチョン長官が決断した事により、9月からその工事が始められ、比較的短い時間のうちに実現したものだった。そして、定着場事業を推進する事を決定した保健社会部は、まず、この事業を推進するために、富平・シプジョン農場、益山・飛籠農園、南原郡・ポソン園、慶尚北道・月城農場など、4つの候補地を選定し、下見を行なう事にした。当時、慢性病課長だった崔始龍氏がこの考えをチョン・ヒソプ長官に伝えると、長官はすぐさま同意し、自分も直接行ってみようと答えた。このようにしてチョン長官と、その当時、長官の特別秘書官だった洪鐘寛氏、そして雀始龍氏など3名は、これらの候補地を見て回った。月城農場を訪ねた時は、秋雨が降りしきりる中を、ずぶ濡れになりながら山道を登った。そして、
その足で大まで辿り着いた時の3人の風体といったら、言葉では言い表わせない程だった。チョン長官は、既成服でも1つ買ってからソウルに帰ると言って、市場で服を探してみたが、チョン長官の体があまりに大きくて、ちょうど合う服がなかった。それで結局、チョン長官は服を買えないままソウルに帰って来たという。その時が、十月の初旬頃だった。
その後、予算設定をして3ヵ所に候補地を選定し、工事に取りかかった。だが、その年の12月末までに予算を使ってしまわないと、計画が無効にされる心配があったために、寒さに身を震わせながらも工事を強行しなければならなかった。そして、これとともに保健社会部は、入居者を選定するために、約9000名の陰性の癩患者を対象に医務検査を実施し、その中から労働力があり、自立が可能な2354名を選び、まず第一陣として、640名を定着させるという計画を立てた。
このような作業を進める事で、ついに12月27日、仁川・清川農場がその第1番目として竣工し、入居式を行なうに至った。この定着場には77棟の建物が建てられ、1棟あたり2名を基準に入居できるようになっていた。そして、政府は彼等に有畜農業による生活を奨励するために、1人当たり6合の糧食、80ウォンの副食費、農器具(鍬やシャベルなど)を1つずつ渡し、そして5家屋ごとに農牛1頭ずつを支給した。
この清川農場の入居式に続いて、12月30日には益山・飛龍農場の竣工式を行ない、1961年度の最初の定着事業を終えたわけだが、この年は寒さが特に厳しく、また、短い期間内に工事を強行したために、若干の問題点が生じざるをえなかった。清川農場の場合、定着場の工事に欠陥があり、セメントや土が乾く前に火をくべたために、壁に塗ったセメントが、はがれ落ちてしまった。この時の話を、延世大学・医学部の柳駿教授に聞いてみる事にしよう。
「1961年12月末の冬は、いつになく寒かった。あのような寒い気候の中で定着村の入居式を行なったのも大変だったが、癩患者たちが、そこで冬を越すのも大変な事だった。当局は短期間に陰性の癩患者を入居させる事を急いだために、欠陥工事になったのでしょう.とにかく、定着場が完成し、その入居式のために陰性の癩患者と来賓など、200余名が集まったが、入居者はもちろんの事、来賓たちもひどく震えていた。こんなに寒い中で入居式をしたら、患者たちの聞から自然と不平が出るのもしょうがないでしょう。黙って耳をそばだてたら、あちこちから愚痴が飛びかってるんですよ。『いったい、どいつがこんな事をやろうと言ったんだ?』『まったくだ.こんな所に俺たちを連れて来ておいて、この冬をどうやって越せというんだ・・・』こんな会話を耳にして、私の心は何と表現していいやらわからないくらい寂しくなりました。しかし、この寒い冬をどうやって過ごしたらいいのか、という患者たちの心配は、充分に理解する事ができました。私は心の中で言いました.『つらくても、どうか耐えてくれ。必ず、光を見る日が来るだろうから』と。そして、年が変わって春になり、清川農場を訪ねたら、不平を言っていた友人たちが、みんな元気に生きていた。」
また、この時、保健社会部の慢性病課長で、定着場事業を中心になって進めたカトリック医大の崔始龍教授も、次のように話している。
「定着事業が必要だったという事だけは事実だったが、少し急いだようだと思う。けれど、この時は12月までに予算を使いきれなかったら、その予算は全て無効にされたために、寒くても定着場の工事を強行せざるをえなかった。その年は、12月31日の益山・飛龍農場の入居式を最後に、1961年度の定着事業計画を終えたが、これをもって、この時、保健局長だったイ・ヨンスン氏と大田で別れて、私はその当時、我が家があったプサンヘ、そして、イ・ヨンスン氏はソウルヘともどり、新年を迎えた。」

癩協会の再整備
1961年末、大韓癩協会が再建されるにはされたが、当時の癩協会は全く微力であって、協会の再整備からまず手をつけなくてはならない状態だった。この時、協会の事務室はソウル駅前にあるキリスト教宣明会の特殊皮膚診療所の中にある小さな部屋を借りて使っていて、協会の財産と言えば机とキャビネットしかなく、そればかりか15万円の負債までも負っていた。このような困難の中で、癩協会の会長職を担ったイ・ビョンハク氏は、協会の再整備とともに支部組織についてチョン・ヒソプ長官と論議した。癩協会が政府の後援で作られたように、チョン・ヒソプ長官は支部組織を結成するために、あらゆる支援を憎しまなかった。
まず、政府と癩協会は各道知事を支部長として任じ、副支部長には保社局長を当てる事とした。また、各支部ごとに事務室を作り、3、4名ずつの職員を置いて、協会事務を任せ、同時に、各道が責任をもって会費募金を積極的に支援するようにさせた。
この時まで癩協会の支部と言えば、ソウルと忠清南道にあるにはあったが、本部とは連結されないまま、独自に活勤していたにすぎなかった。このように協会の内実を強化した癩協会は、その第1次事業として、政府が推進する定着事業の施行に積極的に参画するようになり、これとともに政府事業を裏付けるための技術支援も行なった。この技術支援の中で特筆すべき事として、特に柳駿副会長が軍医官たちを率いて、全国の癩患者の収容機関を訪ね歩き、陰性の癩患者を調べた仕事をあげる事ができる。

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[原典:「福祉」(大韓癩管理協会発行、1974年11月から1976年12月まで連載)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]
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