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中国のハンセン病と日本の協力 ―NGOの立場から―

ハンセン病「制圧」とNGO

すでに1982年の欧米訪問をとおして各地の研究者やNGOとの接点をつくった中国は、個々の団体との間に中国の主導で協力関係をつくりあげる作業を開始していった。笹川記念保健協力財団は、地理的にもっとも近いというばかりでなく、当時の石館守三理事長や湯浅洋常務理事の科学者として、医師としての真摯な人柄が、馬海徳顧問をはじめとする衛生部の指導者との間に組織を超えた信頼関係を作り上げたこともあり、中国の要請にすばやい反応で応えた。1984には馬海徳顧問他数名の中国専門家が始めて国際学会の場に参加する道を開き(第12回国際らい学会―於デリー)さらに同年、馬海徳、葉干運他の指導者を、翌1985年には衛生部防疫司長を含む視察団を日本に迎えた。その間当財団の役員、専門家も中国の状況を視察し、相互の理解と協力の体制が確立していった。笹川記念保健協力財団の支援は、1983年度のクロファジミン(50mg)120万カプセルを皮切りに、患者数の多かった6省(山東、江蘇、浙江、安徽、湖北、江西)に対し1984年度以降、ハンセン病治療薬(リファンピシン、クロファジミン)の総必要量を供与した他、フィールド活動のための自動車、オートバイ、プロジェクター、顕微鏡などを供与し、中国のハンセン病対策の全国的な展開に大きな弾みをつけた。

一方馬海徳顧問はすでに接触した個々の海外NGOにも参加を要請し、いずれのNGOも積極的にこれに応えていった。この過程で特徴的なことは、NGOの関与にいずれの場合も中国側の主導が貫かれたことである。当然といえば当然ではあるが、世界の各地で長年にわたる支援実績があるNGOは、往々にして自らの主導で自らの方式で支援を計画しがちである。広い国土と多様なハンセン病の分布の中国の場合、もしNGOが独自の判断で活動を開始していれば、「制圧」にもっとも効果的な形で協力体制ができあがったかどうかは疑問のあるところである。中国側は個々のNGOに対し、対策強化が必要と思われる省を割り当て、いずれの省に対しても、抗ハンセン病薬の供与やフィールド支援などを優先した。その結果、アメリカ救らいミッションは貴州省を、イタリア救らい協会は広東省と雲南省を、オランダ救らい協会は北部7省と河南省、河北省および四川省を、ベルギー救らい協会は広西省、福建省およびチベットをといった形で中国のハンセン病制圧への支援体制ができあがっていった。

笹川記念保健協力財団が衛生部の要請を受けて「第1回中国国際らい学術会議」の開催を支援したのは、1985年11月であった(於広州市)。これは中国政府としてハンセン病制圧に取り組むことを世界に公約するばかりでなく、この機会にハンセン病防治協会、ハンセン病福利基金会(財団)、ハンセン病研究中心(センター)の三つの組織を設立し、ハンセン病に関する多面的な活動を展開することを内外に宣言する意味もあった。さらに、この会議を出発点に、将来「国際らい学会」を中国に招聘することを視野に、中国の医師や専門家を鼓舞したい、という馬海徳顧問他専門家の意図の表れでもあった。すでに複数の国際的NGOの協力体制も広がっていたこともあり、WHOや海外の専門家のほかに欧米のNGOの本部代表も多数参加し、文字通り中国のハンセン病対策が世界のネットワークにつながったことを示すことになった。

その後も政府の強力な主導で「制圧」活動は順調に進み、1993年の第14回「国際らい学会」では5年後の学会の北京招聘を公式に表明し、1998年10月には第15回「国際らい学会」が北京で成功裡に開催された。中国政府衛生部と国際らい学会が主催したこの会議の実務的な運営は全面的に笹川記念保健協力財団が担った。中国政府はこの会議の冒頭で正式に中国が基本的にハンセン病を「制圧」したことを表明した※9

(8)ハンセン病病理学者(米国)(1917-1998)中国生まれ。ハワイ大学病理学教授。国際らい学会誌編集長、中国中山大学教授などを務めた。
(9)中国の場合、「制圧」の基準はWHOが1981年の総会で合意した人口1万人あたり患者1人よりはるかに厳密な人口10万人あたり患者1人を基準として設定している。

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[山口和子(笹川記念保健協力財団 常務理事)、原典:日中医学(財団法人日中医学協会、2005年5月発行)、2007年3月24日]

※この記事は、日中医学協会の許諾を得て転載したものです。
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