「中国のハンセン病と日本の協力」というテーマは、中国が公衆衛生問題としてのハンセン病制圧を成功裡になしとげた過程で日本がどのような貢献をしたのか、ということを前提としている。貢献という言葉は当然ながら肯定的な意味で使われるのが通常であるが、日本と中国の間には1900年代初頭から40年余にわたる戦争と侵略の歴史があり、「満州国」や台湾では、日本は国策として隔離施設の建設や隔離法の制定を行ったという否定的な関わりがあったということも忘れてはならない※1。
一方20世紀前半の中国のハンセン病をめぐる状況のなかで、日本の非政府の個人や団体がどのように関わったかについては、残念ながら筆者の知るところではない。文献で見る限り初期のハンセン病対策は、日本の場合と同じく、欧米のキリスト教ミッションが担っていたと思われる。1887年、杭州市内の英国キリスト教ミッション病院の活動の一環としてハンセン病の治療が始められ、国内の変動に翻弄されつつ、新中国建立まで医療活動が続けられたことは、残された数少ない文献から推測される※2。
中国医学科学院の招聘で1980年に訪中したスタンレー・ブラウン※3は、1949年の新中国成立時、中国全土には40ヵ所のハンセン病医療施設があったが、そのうちの39は「外国人」キリスト教関係者の運営するものであったと書いている※4。新中国建立とともにこれら外国人の大半は中国を去り、海外とのつながりが正式に回復したのは1980年前後であった。
(1)「いのちの近代史」(藤野豊、かもがわ出版、2001年)
(2)「中国をらいから解放する」(James Maxwell、中国医学誌、1930年)。国際らい学会
(3)Stanley G. Browne(1907-1986)
WHO 第5次らい専門委員会議長、国際らい学会事務局長として訪問
(4)「中国のらい」(Stanley G Browne、笹川記念保健協力財団、1982年)