退所者聞き取り
聞き取りに応じた退所者3名は、社会復帰した後、家族と自分の生活を守るため、ひたすらハンセン病を病んだことを隠しながら生きてきた。境遇はそれぞれ異なるが、隔離の悲劇が2度と繰り返されることがないよう願う気持ちは、ひとつだった。
この聞き取りは、はじめに自らの体験を語り、次に委員の質問に答える形で進められた。退所者は話すうちに涙にむせび、会場からもすすり泣きが聞かれた。
1955年11月、17歳のとき、長崎から熊本恵風園に収容された。私はハンセン病の特効薬・プロミンを注射されていると思っていたが、実は違う薬 ―セファランチンか― を投与されていたため、症状は悪化し、眉毛は抜け落ち、目は見えなくなってきた。「モルモットになりに来たんじゃない!」と主治医と喧嘩し、「不良患者」と呼ばれた。幸い婦長が間に入り、プロミンの投薬を交渉してくれたため、症状は快方に向かった。はじめからプロミンで治療していれば、もっと早く治っていただろう。
私は4度転園したが、収容から17年後の1973年、多摩全生園を退所した。「軽快退所」は条件が厳しいため、毎月診療を受けることを条件に「長期帰省」の形で社会復帰した。退所後、私よりも5年早く退所し、看護婦をしていたハンセン病快復者と結婚した。この結婚は妻の母・兄(ともに療養所入所者)に反対され、実父からは「悩みが1つ増えた」と言われ、「おめでとう」の一言がない寂しいものとなった。
結婚後は名古屋に住んだ。妻はすぐに病院に就職が決まったが、私の就職活動は困難を極めた。「らい予防法」のせいで、療養所にいた空白期間の話ができないからだ。ある会社の面接官は、私が税金・年金を払ったことがないことを聞くと、刑務所帰りとでも思ったのか、面接を5分で終えた。結局、高校のとき隔離収容され、中卒扱いの私は肉体労働にしか就けなかった。しかし、知覚麻痺が残るため、運んでいる物を落としたり、出血に気づかないことが多く、仕事はうまくいかなかった。
現在に至るまで30年間勤めている工場に就職できたのは、妻が病院で看護婦として働いていることを面接時に話し、信用を得たためだ。それでも、過去を語らない私は入社後、同僚から「ヘンな奴」と思われ、「おはようございます」「失礼します」以外はほとんど会話をせず、いじめられこそしなかったが、友達にはしてもらえなかった。そんな私は、子供の頃から得意だった野球をキッカケに、同僚の仲間入りをすることができ、現在に至る。
私は、らい予防法廃止まで病院にいったことがなかった。ハンセン病だったことが知られてしまうことを恐れ、病気はすべて市販の薬で間に合わせた。まったく使われていない健康保健証を見た社長に不信がられることもあった。毎月1度行くことになっている多磨全生園での外来治療のときには、嘘をついて会社を休んだ。予防法廃止後、皮膚科にいったが、医者に「その顔はどうしたの」と尋ねられ、「子供の頃からこの顔だ!」と声を荒げると、医者は黙ってしまい、気まずい思いをしたこともある。
精神的社会復帰はまだしていない。心を許し合えるのは長らく多磨全生園内の人だけだったが、現在は東日本退所者の会で友人が見つけられそうだ。
質疑応答
鮎京眞知子委員(弁護士):東日本退所者の会の存在は最近まで知らなかったのか。
Aさん:退所するとみな隠れているので、訪ねることはなく、電話も遠慮していた。
神美知宏委員(全療協事務局長):ハンセン病問題を全面解決する上で避けて通れないのは、一般社会の差別をなくすこと。しかし、あまり目立つ啓発活動をすると、退所者は肩身の狭い思いをする。ハンセン病関係の番組が始まると、テレビをすぐ切る。退所者は「社会潜入」「逃亡者」のように生活している。全療協としては市民に呼びかけ、交流し、ハンセン病に対する真の知識を広めたい。
Aさん:私は裁判のときは日和見主義だった。テレビで裁判の様子が流れると、スイッチを切っていた。しかし、退所者の会に入り、他の人々の話しを聴くうち、自分の考えは間違っていたことに気づいた。積極的に出て行かないといけないと思い、今では本もたくさん読んでいる。
藤森研委員(朝日新聞編集委員):テレビでハンセン病を扱ったものを見るとスイッチを切っていたというのは、報道が間違っていたためか。
Aさん:間違っていたわけではない。しかし、私は「ハンセン病」という言葉を聞いただけでビクッとする。びっくりしたのは、町内会長が訪ねてきて「キミ、らい病を知っているか」ときかれたときだ。結局、彼は募金を集めに来ただけだった。また、あるとき家具屋にいると、そこの主人が「長島(国立ハンセン病療養長島愛生園所所在地)のほうはどうだった?」と大声で言う。ビクッとしたが、彼は営業の人に単に長島の様子をきいただけだった。テレビで判決を聴きたいとは思ったが、じっと見ていられなかった。
藤森研委員:働いている工場での立場はどうか。
Aさん:地位は上がらず、単純作業を続けている。2、3年で同僚と同じように仕事ができるようになり、野球でみなから認められている。
谺雄二委員(ハンセン病国賠訴訟原告団協議会会長代理):悪薬を投与したというその先生の名前を教えて欲しい。個人を攻撃するわけではないが、事実関係を明らかにすることが必要だ。
Aさん:その先生は故人でもあるので、その質問には答えられない。当時は、基本治療の先生に意見すると、すぐに「不良患者」といわれた。先生を信頼したのは、多磨全生園に来て初めてのことだ。
谺雄二委員:医療面でいちばん辛い経験は何か。
Aさん:患者をバカにする医者がいたことだ。ある薬を飲み、「アレルギーがでた」というと、医者は「難しい言葉を知っているじゃないか」という。また別のときは、「これはドイツ製の高い薬だ」と医者が言うその箱には、「日本製」とあった。
和泉眞蔵委員(アイルランガ大学熱帯病センター ハンセン病研究室):セファランチンを投与されたというのは事実か。
Aさん:医者は教えてくれなかったので、正確にはわからない。
和泉眞蔵委員:セファランチンは結核の薬として戦後使われた。若くて軽症の人に投薬され、それによって症状を悪くし、全盲になったり、手足を悪くしたり、亡くなった人さえいる。この薬については学会に報告されたが、失敗例はすべて捨てられ、少し症状が良くなった例や病状に変化が見られないものだけ残された。そのため、学会論文上、犠牲者報告はない。その後、セファランチンはいつの間にか使われなくなり、薬害が明らかにされていない。
金平輝子座長(元東京副知事):退所者の会への入会のキッカケは何か。
Aさん:裁判以後、気持ちが変わり、なぜ小さなところに1人で逃げ隠れしていたのだろうと思ったこと。
37年前退所し、現在大阪在住。ゴザを敷いただけの暗いポンポン船で1957年、6歳のとき母親と長島愛生園にいった。初めて乗る汽車、初めて食べる駅弁、船に乗る前に買ってもらったお茶の入れ物がうれしかった。しかし、母に置いてけぼりにされた。桟橋を走って、母が乗る船を追いかけたが、母は行ってしまった。お茶の入れ物は投げ捨てた。
父はすでに愛生園にいたが、園側は会わせてくれなかった。その父は1年後に亡くなった。夫を失い、一人息子を奪われた母は精神病院に入院した。退所後、1度だけ見舞いにいき、「お母さん!」と呼びかけたが、母はポカンと天井を見て、線香をタバコのように持っているだけだった。間もなく、母も死んだ。自殺か病死か、知らされていない。
1965年、15歳のとき愛生園を出たが、社会とのギャップに苦しんだ。金銭感覚もなく、「変人」「変わり者」といわれ、無口になった。誰も助けてくれない。定時制高校に進んだが、「自分は人から嫌われる病気」と植えつけられた。病気のことを知られそうになると、転居・転職を繰り返した。本名も2度変えた。病院には1度も行かなかった。深い関係になり、病気のことを知られたくないために、友人は得られない。愛生園のことを思い出したくないので、愛生園の友人とも連絡をとらない。愛情表現の方法を知らないので、「冷たい」とよくいわれる。
それでも、26歳のときある女性と駆け落ちするが、病気のせいで別れた。パートナーのいない人生は寂しい。隔離政策によって家族がバラバラになり、母も精神を病んだ。「母は国に殺された」と思っている。二度と私たちと同じ思いをする人が出ないようにしてほしい。
質疑応答
光石忠敬委員(弁護士):医師・職員からの差別はあったか。
Bさん:幼いときに入所したので記憶が薄い。ただ、医師には「おまえはもう二度と出られないんだぞ」と言われた。また、一部の患者からは「おまえも手足が腐るぞ。こんな恐い病気はないぞ」とおどされた。
佐藤元委員(東京大学医学部講師):退所できる可能性については知っていたか。
Bさん:知らなかった。中学3年に退所する寸前、同級生がなぜか退所していき、残ったのは自分だけになった。療長に理由をきくと、無菌になれば出られるとのことだったが、親がいないので難しいといわれた。しかし、誰かが引きうける人を探してくれたため、今も傷跡が残る検査を何度かして、退所することができた。
若いので社会への願望があった。TVの青春ものをみて、「社会はあんなもんやろ」と憧れていた。しかし、園内の教育レベルは低く、社会では右も左もわからなかった。いま考えたら「ようやってきたな」と思う。
佐藤元委員:相談窓口はなかったのか。
Bさん:なかった。普通、中学3年なら社会常識がある。しかし、園内の教育水準は普通の3分の1程度で、社会に対応できなかった。園内では5〜10年遅れの映画を見て、社会を思い描いていた。
3学期になると、中学の先生と進路相談をした。高校というものの存在を知り、いきたいと思ったが、普通科やら何やらわからない。結局、モノづくりが好きなので、工業系に進んだ。社会がどんなものかは、高校を出てもわからなかった。
谺雄二委員:愛生に入所するときの悲しみを思い出させてしまい、申し訳ないが、なぜ長島愛生園に入れられるのかは分からなかったのか。
Bさん:わからなかった。
和泉眞蔵委員:Bさんのケースは不幸だった。あってはならないことだ。というのも、(1)Bさんは大阪の生まれだが、当時、大阪大学だけでなく、京都大学にもハンセン病の専門外来があったので、愛生にいく必要はなかった。(2)また、6、7回光田反応を調べられたようだが、その時点ではらい菌に対する抵抗力があるはずなので、出所できる。愛生が大学病院を紹介すればよかった。大学病院についてのガイダンスをしなかった愛生は犯罪的だ。(3)さらに、各都道府県は軽快退所者についての届を受けており、「らい予防法指定医」によるフォローアップがなされるはずだが、それについては知っているか。
Bさん:知らない。退所後に病気が再発したとき、愛生園でかわいがってもらった人に電話した。園側はなかなか繋いでくれず、ずいぶん待たされたが、何とかその人に連絡をつけ、泣きすがるように再発のことを訴えた。藤楓協会へ連絡することをその人に薦められたので、協会に状況を説明すると、DDSを100錠送ってくれた。2度目の再発のときも藤楓協会に訴えると、今度は「二度とこういうことをしてくれるな」と言われ、ショックを受けた。
現在もまた斑紋が赤黒く盛り上がってきている。大阪のある先生のところへ行き、リファンピシン・DDSなどを飲んでいるが、今とてもしんどい。6ヶ月飲めといわれているが気が滅入ると話すと、リファンピシンだけ月2回飲むようにいわれた。飲むのをやめると、また斑紋が出てきた。
和泉委員:京都大学は毎週診察している。入院もできる。ここにはピカイチの先生がいる。大阪の先生が悪いと言っている訳ではないが、京都大学での治療を薦める。
1950年7月28日、中学1年の夏休みのとき沖縄愛楽園に収容されたため、小卒ということになる。中学に通っているときは、男子生徒に石を投げられることもあった。入所するように毎日せかされ、愛楽園にいくことになった。
一度は母とともに入水自殺しかけた。母と死ぬのは楽だったが、一人残される弟のことを想い、思いとどまった。私はスポーツが大好きで、教員だった父のように先生になることを夢見ていたが、それもかなわなかった。弟はいじめられ、関西へ引っ越していった。
強制的に収容され、家族と引き離され、園では泣き暮らしたが、5年後に軽快退所した。帰省すると、母は近所の人を呼んで退院祝いをしてくれたが、翌日から周囲の目が冷たくなった。それに耐えるのは1年が限界で、那覇に逃げた。母には「那覇で働く」と言って出たが、実は療養所に戻るつもりだった。ところが、そこで健常者の主人と結婚することになった。犀川先生に相談し、主人は病気を問題にしなかった。
しかし、商売が軌道に乗りはじめたころ、故郷の人が隣に引っ越して来て、その人は病気のことをみなしゃべってしまった。近所の人は、店の前を通るとき、ハンカチで口をふさいで通りすぎるようになった。商売はできなくなり、店は二束三文で手放してしまった。
現在も過去を知られないようにビクビクしながら生きている。このようなことは2度と繰り返されないようにしてほしい。
質疑応答
鮎京眞知子委員:母親のところに戻ってから辛かったことは何か。
Cさん:近所の人はすれ違うとき道の反対側を通った。那覇で、愛楽園から出てきたことを主人に告白するときも辛かった。「ヤンバルの病院(愛楽園)にいたんだけど…」といった。しかし、主人は問題にせず、結婚した。ところが、気を遣いすぎたのか、子供ができない。そうこうしているうち、子宮外筋腫になった。
光石忠敬委員:園の少年少女舎での学校生活はどうだったか。
Cさん:園での教育は楽しかった。それでも、母のために早く帰りたい一心だった。
井上英夫委員長:社会復帰後の差別・偏見は裁判後、変化したか。
Cさん:那覇の同級生はそれほど差別しない。しかし、田舎には帰りたくない。兄の7回忌にも行かなかった。もう7年間、里帰りしていない。弟もそのまま関西にいる。
宮田一雄委員(産経新聞編集局次長):退所した後、過去を知られないようにし、生活を守ってきた。その一方で、そのままでは偏見・差別の存在が隠されてしまう。ハンセン病をメディアが取り上げたとき、どう感じるのか。
Cさん:あまり触れてほしくない。裁判以後もこの気持ちは変わらない。近所に住む2人と散歩しているとき、1人が県営住宅に入りたいと言うと、もう1人が「ここはヤンバル(愛楽園)帰りの人が入るんだよ」といった。その人はそこに入居するのを即、やめた。この会話を聞いている私は、何も言えなかった。いまだに主人の親族は私がハンセン病だったことを知らない。ハンセン病がテレビで取り上げられるとき、皆と一緒なら知らん顔して見ているが、1人のときは消してしまう。
神美知宏委員:私はハンセン病啓発・差別の解消にこだわり、またその責任があると思っている。しかし、身を小さくして生きており、できれば啓発をやってほしくないと思うその気持ちもよくわかる。
では、啓発をやめてしまうのか。多くの人が思っているのは、理論的には啓発した方がいいが、家族に迷惑がかかるのであれば差別を放っておき、ハンセン病を病んだ自分さえ死んでいけば、それで家族が救われるということだ。しかし、これは違う。死んでも家族は救われず、「あそこの家からはハンセン病が出た」という差別が残り続ける。この事実を踏まえた上で、あなたの意見を聴き、これからの運動の参考にしたい。
Cさん:運動はしてほしいが、どう言っていいか分からない。今日も主人に「カメラがあったらどうするのか」と言われて来た。
一 | ハンセン病強制隔離収容政策に関する立法・政策の検討 | 井上英夫・佐藤元・藤野豊 |
1 | 1907年「らい予防ニ関スル件」―強制隔離収容政策の開始と責任 | 藤野豊 |
(1) | 江戸時代の「らい」病観とその形成過程 | 鈴木則子 |
(2) | 近代ハンセン病患者への差別観 | |
(3) | 強制隔離収容政策の開始と療養所の実態 | |
2 | 1931年「癩予防法」―強制隔離収容の強化拡大の理由と責任 | 藤野豊 |
3 | 1953年「らい予防法」―強制隔離収容の強化の理由と責任 | 藤野豊 |
(1) | 優生保護法第3条第3号制定の経緯―ハンセン病政策と優性政策の結合 | 松原洋子 |
(2) | GHQのハンセン病認識と政策 | 丸井英二 |
(3) | 強制隔離収容強化の理由と責任 | |
(4) | 藤本事件の真相 | |
(5) | 籐楓協会の役割 | |
4 | 1996年「らい予防法」廃止―廃止されなかった理由と責任(50・60年代の動向を含めて) | 藤野豊 |
(1) | 1996年の「らい予防法」廃止までの過程の検討 | |
(2) | 熊本地裁判決および「ハンセン病国賠訴訟」における論点 | |
二 | ハンセン病に対する偏見差別が作出・助長されてきた実態の解明―無らい県運動・マスコミの役割等― | 鈴木則子・藤野豊 |
(1) | 江戸時代の「癩」病観とその形成過程 | 鈴木則子 |
(2) | 近代ハンセン病患者への差別観 | |
(3) | 無癩県運動の推進 | 藤野豊 |
(4) | マスメディアと文壇のハンセン病観 | 能登恵美子 |
三 | ハンセン病強制隔離収容政策による被害の全体像の解明 | 実態調査班(井上英夫・能登恵美子・松原洋子・森川恭剛) |
1 | 療養所内の被害の実態―断種・堕胎・嬰児殺・重監房・監房・強制労働・貧困な医療、精神的影響等の療養所実態― | |
(1) | 強制隔離収容政策の開始と療養所の実態 | |
(2) | ハンセン病政策における性と生殖の管理―ジェンダーの視点を含む | 松原洋子 |
(3) | ハンセン病政策と優性政策の結合 | 松原洋子 |
(4) | 強制隔離収容の強化拡大と被害 | |
(5) | 「特別病室」および「癩刑務所」設置の目的とその実態 | 森川恭剛 |
(6) | ハンセン病療養所の医療水準 | 並里まさ子 |
(7) | 療養所内教育の実態 | |
(8) | ハンセン病と精神疾患患者 | 岡田靖雄 |
2 | 療養所外、社会における被害の全体像―教育権、労働権、職業選択の自由、居住移転の自由等人権の侵害、家族との断絶、課族被害、社会復帰の困難、社会における差別、隔離の精神的影響等― | |
(1) | 療養所外・社会における被害の実態 | 並里まさ子 |
(2) | 療養所以外のハンセン病患者の処遇 | 和泉眞蔵・並里まさ子 |
四 | ハンセン病医学・医療の歴史と実態 | 和泉眞蔵・並里まさ子 |
(1) | ハンセン病医学・医療の歴史と実態 | 並里まさ子 |
(2) | 療養所以外のハンセン病患者の処遇 | 並里まさ子 |
(3) | ハンセン病療養所の医療水準 | 並里まさ子 |
(4) | ハンセン病強制隔離収容政策に果たしたハンセン病医学、医療界の役割 | 並里まさ子 |
五 | ハンセン病強制隔離収容政策に果たした医学・医療界の役割と責任の解明 | 和泉眞蔵・佐藤元・並里まさ子 |
(1) | 医学・医療界の役割と責任 | 並里まさ子 |
六 | ハンセン病強制隔離収容政策に果たした関係学会、各界の役割と責任の解明 | |
(1) | 関係学界の役割と責任(各界について各委員分担)―法曹界、教育界、宗教界、福祉界等 | |
(2) | マスメディアと文壇のハンセン病観 | 能登恵美子 |
七 | 日本型隔離収容政策と諸外国の政策との比較 | 和泉眞蔵・佐藤元・藤野豊 |
(1) | WHO等国際動向 | |
(2) | 各国の動向―ノルウェイ・アメリカ等 | |
(3) | ハンセン病隔離収容政策の疫学的国際比較 | |
(4) | ハンセン病・精神疾患患者についての比較法制処遇史 | 岡田靖雄 |
八 | 沖縄、奄美大島等におけるハンセン病問題と政策 | 藤野豊 |
(1) | 沖縄等におけるハンセン病問題と政策 | |
九 | 旧植民地及び日本占領地域におけるハンセン病政策 | |
(1) | 旧植民地におけるハンセン病患者の処遇と政策 | |
(2) | 日本占領地域におけるハンセン病問題と政策 | 魯紅梅 |
十 | 再発防止のための提言 | 井上英夫・佐藤元 |
(1) | 情報を得る権利・知る権利の保障 | |
(2) | ハンセン病患者隔離に関する立法・法律、政策・行政の点検・評価システム | |
(3) | 再発防止システムの検討 | |
十一 | 資料収集・データベース化等による保存 | 宇佐美治・酒井シズ |
(1) | ハンセン病政策に関する資料等の収集、保存 |
教育・宗教・福祉・立法政策・社会調査の5分野に関しては委員を増員する。ただし、その分野の専門家なら誰でもよいわけではなく、検証会議の性格を踏まえた上で選ぶ。現在井上英夫委員長と森川恭剛委員の2人が担当している立法政策については、内田博文検証会議副座長がその検討委員を兼務することが決まった。
準備会のメンバー(鮎京眞知子委員・和泉眞蔵委員・井上英夫委員長・光石忠敬委員)は、検証会議の座長名で資料を開示・公開する方法について話し合った。
1 資料リストアップ請求
1.1 趣旨:検証会議座長名で、資料リストアップ請求をする。
公的責任を負っている検証会議の名で、資料を請求できることの意味は大きい。というのも個人名で資料請求した場合、行政機関等は、ハンセン病患者・快復者のプライバシー保護を根拠として請求を拒否することが多いからだ。もちろん、研究調査の段階で知った実名などプライバシーに関する情報は、研究成果を公表するときには伏せる。
また、ハンセン病に関する資料はまとまって存在せず、徴兵関連の資料など他の資料の中に含まれていることが多い。そのため、資料の単なる開示だけでなく、資料を探す調査の請求も検証会議座長名でできるようにしなければならない。
1.2 請求先:厚労省・厚労省以外の官庁・自治体・療養所・学会・諸団体(ハンセン病学会等)
1.3 対象文書の具体性のレベル
どの程度具体的に資料を請求するか。例えば、ワゼクトミー(断種手術)について調査する場合、どの資料を請求するのか。医師が手術していない場合、カルテにその記録はなく、日誌に載っているかもしれない。
2 情報開示手続マニュアル作成
2.1 基本原則:情報開示の必要性の判断は、検証会議設置の目的を考えに入れた上で、検証会議自体が判断する。情報開示を請求された側は、この判断を最大限に尊重する。
2.2 考え方:
(1) 情報公開と情報開示は異なる
(2) 療養所等は、検証会儀の事業に必要な範囲で情報開示義務を負う。
(3) 委員は守秘義務を負う。
(4) 公表の際は、患者名など患者を特定できる項目は付さない。
(5) 開示につき患者・遺族の個別の同意は求めない。
(6) マニュアルにつき患者・自治会の承認を得る。
2.3 情報開示請求者:座長
2.4 申請者:検証会議および検討会委員
協力者については、当該協力者を所掌する検討委員より座長あてに申請。
2.5 必要性・相当性の判断:申請ケースをA、B、Cに分ける。
Aケース:検証会議準備会で判断
Bケース:座長・副座長かぎりで判断
Cケース:事務局かぎりで判断
[原田僚太郎 2002年12月10日]
[写真:茂木亮]
(2002年12月13日更新)
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第1回ハンセン病検証会議レポート 2002年10月16日
ハンセン病事実検証調査事業 委員の紹介
ハンセン病問題に関する事実検証調査事業スケジュール