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金新芽長老「その麗しい帰郷」

発見


金新芽長老は、60年近くの歳月をハンセン氏病の苦しみとその後遺症に悩まされながらも、その心と魂の内面は、体が健康な人たちよりも、はるかにずっと明るく生気に満ちている。

解放(終戦)となり、世の中が一斉に万歳を叫び出したその日、心抑えることができず、隠れていた部屋から飛び出して、彼は家の屋上に上って行った。目の前は太極旗の波だった。どこから、あのように隠れていたのか、街は全て太極旗であふれていた。世の中は栄光に包まれていた。その波の中に入って行きたかった。一緒になって国の独立を全身で味わいたかった。しかし、すぐ心は萎んで行った。国の解放までが彼にとっては、「その人たちの解放」であるばかりだった。その時、彼の胸に熱い涙が、その心の奥底からどっと込み上げて来た。

家を出て、帰って来た大邱市の宣教師の病院は、何よりも愛があってとても良かった。大概は、患者たちは病院に収容されることを嫌った。彼らはいろいろなところを通って、どこからか流れて来た。しかし、彼は考えが違っていた。ハンセン氏病患者を助けるために、自分の家と国を離れて、この貧しい土地に帰って来た宣教師たちがいたという。何よりも、彼は既に教会生活を通して育んだたくさんのことを、病にある子供たちに分かち合うことができると思った。「人」がおり、自分自身の存在を訪ね求めることができる場所であるならば、どこでもよかった。小さくても、「その人たちだけの世界」で見物人のように生きなくてもよかったのだ。

彼の考えは的中した。病院の教会で彼は学生たちを教え、聖歌隊を構成して楽器を教えた。そこの人員は7百人を越える数だった。そこで、彼は中学校を作り、住民たちに啓蒙運動の次元から印刷物を作り、普及しようとし、手にはいつもインクが付いていた。それは、まるで乾いた薪に火を点けたようなものだった。病気によって世の中から断絶されてからたまっていたものが一気に吹き出たようなものだった。

また、この年は、病院の外で生活したりもした。共同墓地の土地で生活している患友たちを訪れては、その患者たちにも自分の手が必要であるということを知り、病院の快適な環境を離れて、彼らと一緒に共同墓地付近に天幕を張って、そこで生活をした。そこが新しい教会の始まりだった。27歳の時であった。彼には、いまや明らかな自分の道までもが見えたようだった。このように始められた教会は50年が流れた今では礼拝堂まで備えた教会にまで発展した。

その頃、徐々に悪くなっていた視力がさらに悪化した。家にいた時、飲んでいた薬の中に水銀があまりにたくさん含まれていたことが原因だった。30歳になった時には、本が読めなくなった。失明。いまや光から完全に断絶した。目で見えるあらゆる世界からの別離だった。彼の人生にとって、別離とは既に慣れっこになっていたが、その代価として払わなければならない小さくない心の痛みが彼の心に残っていた。

家族と離れて病院に入り、まさに自分がいなければならない居場所を見い出した者のように、一つの挫折は、また新たなものを生じたのだった。失明してから、彼は新しい目が見えるようになるのを経験した。内側で、さらに深いところを見ることができる心眼が開けて来たのだ。彼はそれを「霊的な目」と呼んだ。10年近い歳月の間、知識と実生活、心と実践、その間を行きつ戻りつしながら、彼は幾度となく自身に鞭を振るった。しかし、結果はいつも矛盾だらけの自分自身を発見しただけだった。ちょうど使徒パウロのように、彼も自分自身に向かって「私は苦しんでいる(ローマ、7:24)」と声を上げていた。そのように苦む内面の争いが失明と共に止んでいた。しかし、彼にとって失明と開眼は、まるで「昔の人」を脱ぎ捨てて、「新しい人」を着る意識のように思えた。今まで見えていた世の中は暗く閉じられたものだったが、いまや、その悲惨な皮を剥いて、新しい人生を迎えたような意識が芽生えたのだった。

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[原典:月刊「キリスト教思想」2003年3月号、ハン・ジョンホ/記、菊池義弘/訳]

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