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ハンセン病の歴史:フィリピン・クリオン島

Culion Island © Hosino Nao

クリオン療養所誕生まで

マニラでは、1898年よりアメリカによる統治が始まりました。1901年には総督ウィリアム・ハワード・タフトによる文民政府が設置され、アメリカ内閣が誕生しました。内務次官はディーン・C・ワーセスター、後のクリオン島に大きな影響を与えた人です。

タフト内閣が着手したのは、フィリピン一掃でした。20世紀初頭のマニラは、アメリカ人の目には汚濁の町と映ったからです。実際、当時のマニラの衛生状態は良好とは言いがたいものでした。年間で6千人ものフィリピン人が天然痘で死亡し、新生児の2人に1人は1歳を迎える前に死亡していました。食べ物は素手で口に入れ、水は共有のたらいから飲み、農村部にはトイレや病院などの設備が整備されていませんでした。

フィリピンにおけるアメリカ統治に正当性を与えるために、劣悪なイメージが意図的に積み上げられていったのも事実です。しかし、1905年から1915年ならびに1920年代に保健省長官を務めたヴィクター・G・ハイザーは、貧しく不潔なフィリピン人というイメージを払拭するため、フィリピンの「徹底洗浄」を目標に掲げます。ハンセン病は、そのハイザーのあげた最優先事項の一つでした。

19世紀末から20世紀初頭にかけ、フィリピンには約3万人のハンセン病患者が住んでいたと考えられていました。近年では、この人数はいささか誇張されたもので、実際には5千人ほどだったのではないかと考えられています。患者の中には、病院に隔離されている人もいましたし、家族と一緒に住んでいた人もいました。しかしワーセスターによると、それよりもはるかに多い数の人が、森の中や孤島に隠れ住んでいたといいます。ワーセスターは、ハンセン病患者が自由に社会を行き来し、病気をまき散らしていると考えたのです。

ハンセン病対策は、フィリピン政府の打ち立てた保健問題の最優先事項の一つに取り上げられました。アメリカ統治の最盛期には、13万人弱のアメリカ軍がフィリピンに駐屯していました。アメリカ政府を心配させたのは、この駐屯しているアメリカ兵が、帰国時にハンセン病をアメリカに持ち帰る可能性があるということでした。

アメリカ陸軍少将ジョセフ・ウィーラーはこれを重大な問題だと考え、アメリカ軍をフィリピンから即刻退去させるべきだと考えていました。ウィーラーはこのように言っています。「らい病患者は…どこにでもいる。そして彼らの多くは、未感染者と自由に接触しているのである。彼らは教会のドアで物乞いをし、おそらくはさまざまな工場や職業についており、一般社会の市民が口にする食べ物や野菜さえ取り扱っていると考えられる…」

「フィリピンの島々に住む美しい女性の中にも数多くのらい病患者がいる。陽気で快活であるが、病気を知られればどのような運命が待ち受けているか知りすぎるほど知っているため、自らの病気のことをもらすことは決してないのである。手を握ること、装身具が触れ合うこと、キスなどによって、この病気は広がる。このような状況を考えるだけでも、恐ろしさに身が凍る」

ウィーラーは軍隊の退去を要求しました。これに対し、アメリカのハンセン病専門家であるニコラス・センは、フィリピンからアメリカに帰国した全兵士は帰国時に入念な検査を行い、ハンセン病であることがわかった時点で、「死亡するまで社会から隔離すること」を提案しました。ウィーラー、セン双方の提案は受け入れられることはありませんでしたが、その代わりに第3案が取られることになったのです。その第3案こそが、ハンセン病患者の隔離でした。アメリカの論理は、ハンセン病患者が完全に隔離されれば、ハンセン病は「早晩フィリピンから消滅するであろう」というものでした。

ハイザー保健省長官は「完全隔離は残酷なものであるかもしれないが、その影響をこうむる者の数は少ない。しかし隔離をしなければ、その影響は全人口に及ぶ。私は、隔離によってらい病が感染することを予防するだけではなく、らい病患者自身にとっても、隔離がもっとも人道的な措置であったことを確信する」と言っています。

Culion Island © Hosino Nao

アメリカにはすでにハンセン病隔離の前例がありました。ハワイのモロカイ島カラウパパ療養所です。1880年代半ばからハンセン病患者の収容が始められていたモロカイ島では、フィリピンと同じく、完全収容、完全隔離が行われていました。このカラウパパ療養所が、1906年から1930年代にかけての、フィリピンにおけるアメリカのハンセン病対策のモデルケースとなったのです。ハイザーは後にこう記しています。「綿密な計画に沿って実行されなければならない。さもなければフィリピン人はらい病患者を匿い、また隔離に反対するからである」

隔離のための場所選定が始まりました。フィリピンがスペインの統治下にあった際に、フィリピン人の犯罪者や反乱分子が送り込まれたパラワンやミンダナオの島々に目がつけられました。選ばれたのは、パラワン諸島の北部、コロン湾の奥まった中にある小さな島でした。マニラ320キロほどに位置し、周囲を小さい島に囲まれ、通商ルートから外れたその島が、クリオンでした。ワーセスター内務次官はクリオン島をこう描写しました。「周囲とのつながりもなく、島に住む人数は少ない。十分な真水が湧き出ており、患者が農業に従事するのにまこと適した島である」

ハイザー保健省長官は、ハンセン病患者がクリオン島に自発的に行くことを望ませるため、「クリオン島の写真を撮り、また当時としては画期的なことであったが、島の様子を動画で撮影し、いかにクリオン島がすばらしいところであるか知らしめ」ました。しかし自主的に海を渡ってきた人の数は、さほど多くなかったようです。

クリオン島には当時1,000人近くの人が住んでいました。大半が漁師で、多くが海辺や川の近くに住んでいました。ハンセン病コロニーの予定地は、島の南部の海岸近くでした。しかし建設に必要な材料を数キロにわたり、上流に手漕ぎボートで運び、そこから人足が運んでいかなければならず、工事は困難を極めました。このため、コロニー予定地は島の北東部に移されることになりました。

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[原典:Culion Island(クリオン財団発行、2003年)、星野奈央(笹川記念保健協力財団)/訳、2006年7月13日]
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