2004.8 中国ヤンケン村ワークキャンプ感想文
志賀純子
1、種まきキャンプ
ハンセン病に対する偏見解消は、実際に人にあって同じ時間を共有することが一番だと思う。私がハンセン病快復者の人と初めて出会ったときは正直ギョっとした。気持ちが硬直して交流など出来なかった。しかし、村の中に入り込んで生活を共にすることで、彼らの人間としての魅力に触れた。次第に硬直した気持ちは溶けてゆき、村を離れる頃には、スキンシップして涙を流して別れを惜しむようになった。
このような心の移り変わりを身をもって体験した私は、この『ワークキャンプ式交流法』が偏見解決には一番だと自信を持って言える。
中国キャンプは、2001年に始まったが中国人参加者がいなかった。そこで、2003年春には、ヤンケン村で小さなキャンプをした後、中国人にワークキャンプ式交流法を伝え、参加者を募るために「種まきキャンプ」をおこなった。
しかし、私が中国にいったのは初めてだった。広報活動をする前にヤンケン村の人たちに出会えたことは本当に幸運であったと思う。そのおかげで、広報活動に力を入れることができたのだから。
「癩はアジアを結ぶ」という言葉があるが至言だと思う。FIWCは50年前に発足し、その後、ハンセン病の人でも宿泊できる施設を作ろうと奈良の大倭に「交流の家」を建設したのが40年前。そして韓国のハンセン病快復者定着村にて韓国の学生と「日韓合同ワークキャンプ」を始めたのが30年前。
そして、日本から韓国へ。韓国から中国へ…。癩(ハンセン病)というひとつの問題を軸に人が集まり、世界へと向かう活動となった。ハンセン病の「医療」面での先進国「日本」から、途上国の「中国」へと広がった。「種まきキャンプ」は、アジアを結ぶ一員であるということが自覚できたキャンプだったと思う。
しかし癩はアジアを結ぶだけではない。『癩は広州の学生を結ぶ』ということも実感した。
「日中合同ワークキャンプ」にむけ、私達は3つの大学を回った。初日はキナン大学。キナン大学の何人かの学生と共に外語外貿大学へ。そして、次の日は商学院へ。商学院からの帰りのバスの中で、私立カレン大学の日本語学科の学生と出会い、話をする。
広州には4つの日本語学科をもつ大学があるが、このようにして3つの大学が結ばれた。打ち上げの日、これらの大学の学生が輪になって連絡先などの交換をしているのを見ると、「癩は広州の学生を繋ぐ」という言葉が思い浮かび自然と心がゾクゾクするのを感じた。
広報活動はたった3日。しかし、出会った瞬間からたった3日間で、心理的な警戒も急速に解け、これからキャンプを共に作っていく仲間として精神的に強く結び合えたように思う。離れていても近くの国に住む、同じ人間として、いつも心のどこかに存在する関係になるような予感がした。しかしこのキャンプは、3年前に「中国キャンプの開始」という1枚目の扉に続いて「日中合同ワークキャンプ開始」という2枚目の扉を開けたに過ぎない。実際に合同キャンプを行うために日々奮闘しなければならないと決意した。
2、日中合同、第1回目記念キャンプ
その熱き思いを砕いたのは、SARS(重症急性呼吸器症候群)だった。中国からの帰国と同時に急激にSARSが世の中を騒がせ、2003年夏にキャンプをするのは不可能かと思われた。しかし、嵐が去るように厄介なSARSも終焉に向かい、3月に種まきをした中国側のメンバーがヤンケン村を訪問したという吉報をケヤキからうけた。
「まじで??私らも行かないかんな!!いつやったら行ける?」こんな会話から突然夏キャンプを実施することが決まった。天から降ってきたような幸運だった。
もちろんその時点で参加人数は、ケヤキと私の2人だけ。でも、今から集めたらいいじゃないか・・。なんて楽観的に考え、ケヤキと私の予定にあわせてキャンプ日程を決めた。
そして、「私、総リーダーやります!」というケヤキの一言で、歴史的な日中合同ワークキャンプ「第1回目」の幕が上がった。
今回の私の目標は、「生活調査」。村の人がどのような生活をし、どのようなことに困っているのか?それを31人の村人全員に聞き、今後に役立てると共に、日本での快復者の人の生活との違いを検討したいということだった。
今回通訳をしてくれた曽子嬌と共に村の代表である欧さんを何度も訪ね村と周りの地域との関係などを聞いた。そして、村の人をキャンパーで分担して訪問し、質問用紙に最低限のことを記入してもらった。
キャンパーと話をすることで、村の人が本当に喜んでくれている様子が分かった。周りを見渡すと、いつも誰かが村の人と話しをしている。村に溶け込んだキャンパーの姿が自然な風景となっていることに喜びを覚えた。
欧さんは、「2001年から韓国人と日本人が村にきてくれるようになった。しかし、中国人が来てくれるのは、10年先、15年先かと思っていた。しかし、こんなに早くに来てくれるなんて・・。」と自らキャンパーのミーティングに参加して喜びを積極的に語ってくれた。
私たちキャンパーが行くことで、周りの村の人たちの偏見も解消されていっているという。
私は生活調査リーダーをやることで、本当に深く村人と関わることが出来た。村のどの人をみても、どこに住んでいるかがわかるまでになった。
最後の夜、日本人が主体となってコーディネートした茶話会を、中国メンバーが盛り上げた。そこには、部屋に入りきれないほどの村人がやってきた。私には、村の人の表情に、長年の複雑な思いを見た感じがした。そして、本当に頑張ったリーダーケヤキの表情にも感無量の表情を見た。私も「種まきキャンプ」で集まった中国人メンバーと、遂に第1回日中合同ワークキャンプが実現したとの思いで、胸が一杯になり、この村からは抜けられないと感じた。
今、ワークキャンプという軸で繋がった日中の朋友(友)が、同じ飯を食べ、同じ汗を流し、ひとつの目標を達成することに心ひとつにしたことで新たな「日中合同」という歴史が築かれたのだ!
中国の定着村の経済レベルはまだまだ発展途上、いや、発展途上にして行き詰まりといっていい。ワークキャンプという新たな交流法が根をおろし、人のエネルギーによってこの活動がうねりとなっていくことで「歴史は必ず変わる」と、このキャンプで実感した。
[志賀純子、2003年10月]