1963年、ある一人のハンセン病快復者が、無菌証明書を提示したにもかかわらず、東京YMCAホテルから宿泊を拒否された―― その事実を伝え聞いた当時のFIWC関西委員会のメンバーが、「らい園在園者が気楽に宿泊できる家を建てよう」と提案したことが契機となり、数々の困難を乗り越えて、4年後の67年、奈良市郊外の大倭(おおやまと)に学生たちの手で「交流(むすび)の家」が完成した。
交流の家が開かれてから4年目の71年、たまたま韓国からクエーカー教徒の呉奇天(オチェチョン)牧師が来訪、宿をとった。40代のおだやかな人物で、一韓国のハンセン病快復者定着村・再活圏(チェファルウォン)で伝道を続けているとのことだった。そこで話は一挙に広がり、翌72年秋、2名が渡韓、定着村を訪問した。
73年に入って韓国で最初のワークキャンプを開くにあたり、日本側だけでなく、韓国の学生の参加も募ることになった、しかし当時は、まだ韓国の学生とは何のつながりもなく、呉牧師は1人で大田(テジョン)駅に立って道行く人に声をかけた。
「この8月に日本の学生が定着村のワークキャンプで来韓するが、一緒に参加しませんか?」
その時、夏休みで帰省中のソウル大学の女子学生が協力を申しでて、友人知人、親類の学生に呼びかけた。たちまち17人が集まり、日本からも29人が参加して、再活園で第一回日韓合同ワークキャンプが開かれた。
その後、韓国側のメンバーも年々広がり、79年には地元、大田市の忠南大学に「KWCL(韓国助らい会)」が発足した。
さらに日本人留学生メンバーの働きかけにより、86年にはソウルの韓国外国語大学に「ハナヘ」という組織も発足し、以来毎夏2ヶ所の定着村においてワークキャンプが行われるようになり、現在に至っている。