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NIRVANA 011

梅雨も終わり、夏本番となりましたが、皆様御元気でお過ごしでしょうか?

ニルヴァーナ11号は、所沢からの第一報です。私達は今年6月、所沢に「おうえんポリクリニック」を開業しました。今後はずっと、所沢からお便りを発信します。

見知らぬ土地で知人も少なく、ちょっと寂しい出発でしたが、ご近所の方々が少しずつ訪れて下さいます。退所者の方々は皆さん顔見知りで、久し振りのご挨拶を交わして賑やかです。我が家の続きのように、親しんでいただけることを願っています。

関東支部: おうえんポリクリニック

© NIRVANA 2005

クリニックの周辺

東京の近くですが、豊かな緑に恵まれた所です。狭山茶で知られた土地柄で、整然と並ぶ茶畑の向うにこんもりと繁った雑木林が点在します。あちこちに、栗の木が多いこと に気付きました。広々とした緑の平原は、かつてサイクリングを楽しんだ南仏の光景に似ています。あのころも今と同じ、コクリコの可憐な花が咲き乱れる季節でした。

退所者の方々からは色々と教わることが多く、高すぎた2階への階段を低くしたり、障害のある方にも使い易いドアにするなど、まだまだ未完成ですが、少しずつ形を整えています。

待合室
皮膚科診察室
受付  © NIRVANA 2005

皆さんが、ご近所の一般の方々と一緒に受診してくださいます。当たり前のことなのに、これまでなかなかできなかったことです。東洋医療・リハビリの部屋で、隣り合ったベッドにカーテン1つを隔てて、並んでマッサージを受けておられるのは、とても嬉しい光景です。

通信:ある退所者の方より

開院おめでとうございます。妻の仕事の休みに合わせて、6月7日、真新しい診察室で受診しました。我が家からは、ゆっくりとリハビリ治療を受けて帰宅するまで、約半日の行程です。大きな病院での楽しくない話がちらほら聞こえてきますが、ここが地域に愛されるクリニックになってくれることを期待しています。私達も、地域の人々の中に溶け込んで、受診しています。「おうえんポリクリニック」は、「安心ポリクリニック」です。

慣れない生活が続きますが、皆さんに教えていただきながら、より良い診療体制を作りたいと思います。

<おうえんポリクリニックの紹介>

診療科目:皮膚科 内科 東洋医療・リハビリ

皮膚科では一般皮膚科と美容皮膚科、東洋医療では、鍼灸、経絡、ホットパック、マッサージなどを行います。東洋医療では、主に慢性疼痛のある方が対象です。

人物紹介 ―ある60歳代男性の辿った歴史―

S氏は、小学校6年生の2学期を最後に、故郷を離れて療養所に収容されました。逆算するとちょうどこの頃、「癩予防法(1931年)」に代わって、新たな「らい予防法(1953年)」が制定されています。

S氏は古い通信簿を見せて下さいました。小学校6年生の1学期までは全科記入されていますが、二学期は学科の約半分が未記入、3学期は空白です。二学期のある日、校長室に呼ばれた彼は、翌日からの通学停止を言い渡されました。

急に学校に来なくなった生徒の居る家に対して、隣近所の眼差しがどのようなものであったか、容易に想像できます。村社会から一家を守るには、生まれ育った故郷から、彼の存在を抹消してしまう以外にはあり得ませんでした。また義務教育を受ける権利を剥奪された子供にとって、残された選択肢は療養所に入所すること以外には無かったのです。警察権力を行使せずとも、このようにして「強制隔離」は行われました。

S氏の経歴は、決して特別なものではありません。当時ハンセン病を発症した人達に共通する、ごく一般的な経歴です。

30数年前、S氏は療養所を出ました。隔離政策の下、退所希望者に対して何の支援も無い時代に自分の力で生きる道を選び、建築業での知識と技能を磨きました。しかし一時たりとも、病歴の露見を恐れない日はなかったと言います。

(参考文献)
「古い通信簿」:比企丘陵第48号 比企市民ネットワーク
「透明人間」日本社会福祉士ニュースNo.97(2005年4月1日発行)

戦後日本のハンセン病対策

1940年代初期に治療薬(プロミン:スルフォン剤)が開発され、ハンセン病は治る病気となっていました。日本では、1947年から本格的な治療が始まっています。有効な治療法の出現にもかかわらず、戦後日本のハンセン病対策は、益々厳格なものとなり、戦前からの「無らい県運動」は更にエスカレートして、「この病気が疑われる者」の存在を、無記名投書で役所に知らせよとの勧告すら出されています。

1951年療養所の主だった3園長が、強制隔離継続の必要性を国会で訴えました。同年設立された藤楓協会も、隔離強化によってハンセン病を根絶すべきであると訴えています。このようにして、療養所在園者達の猛反対にもかかわらず、1953年「らい予防法」が成立し、「ハンセン病は療養所でしか治療できない」体制が、その後1996年まで続くことになりました。

1960年代になると、療養所内でのリハビリテーションが進み、障害に対して形成外科的手術が行われるようになりました。しかし社会的・精神的な回復を目指したチームアプローチはほとんど無く、患者と患者家族に対する福祉活動は、らい予防協会・藤楓協会の事業として展開するのみで、福祉一般との交流は希薄でした。つまり「福祉」も、閉鎖された世界でした。一方当時の国際社会におけるハンセン病の位置付けが、どのようなものであったかを見てみましょう。これで分かりますように、国際社会では、早い時期から一切の差別的対応を強く否定しています。

国際社会におけるハンセン病対策の流れ
1941〜1943年: プロミン(スルフォン)の有効性が報告された
1948年: 第5回国際らい会議(ハバナ)
全ての患者隔離を無条件で否定
患者と家族に対する社会的援助が必須
1952年: WHO第1回専門委員会(リオデジャネイロ)
スルフォン剤の治療効果確認、偏見による隔離の否定
1953年: 第6回国際らい会議(マドリッド) スルフォン剤の効果確定
1956年: ローマ会議
この疾病に関するすべての特別法規は不要
患者の社会復帰を図るべき
1958年: 第7回国際らい会議(東京)
誤った理解に基づく法律を廃止すべきであるとの提言が出された

活動報告

6月6〜14日: ペシャワールから皮膚科医来日
「パキスタンにおける医療の現状」報告
6月30日: 札幌講演(並里まさ子)
7月23日:

「はまなすの里」会員と有志の訪問(退所者との懇談会)

10月(予定):

JICA医療研修員受け入れ

掲載記事

週間金曜日:6月10日号
北海道新聞:6月23日、7月3日
ジャミックジャーナル:8月号

―クマさん日記― <モーターサイクルダイアリーズ>

今回は、最近観た映画のご紹介です。製作総指揮者はロバート・レッドフォード。監督ウオルター・サレンス。主演エル・ガルシア・ベルナル。

カストロを支えてキューバ革命を成功に導いた、アルゼンチン生まれの医学生チェ・ゲバラ(Che Guevara)、本名 エルネスト・ラファエロ・ゲバラ・デ・ラ・セルナが主人公。物語は1952年23歳のゲバラ青年と親友のアルベルトが、今にもバラバラに分解しそうなオンボロバイクに乗り、南米大陸縦断の旅に出るところから始まる。小さな交通事故やバイクの故障で予定の立たない旅が続く中、途中で動かなくなったバイクをスクラップとして売り払う。以後は、文無し無宿の徒歩旅行。それでも二人は南米大陸縦断を諦めずに前進し、ついに1万キロを踏破する。

映画では二人がハンセン病療養所を訪問し、医療奉仕活動をする光景が二度ほど出てくる。ゲバラは患者と職員が河を挟んで対岸にあるのに憤慨し、お別れパーティーの夜河を泳いで渡る。途中持病の喘息が再発してあわや溺れそうになるが、何とか対岸にたどり着き、患者は勿論、職員達からも祝福を受ける。またある地方では、土地を奪われて鉱山労働者となり、過酷な労働を強いられる原住民たちの悲惨な運命にであう。行く先々で社会の不平等に嘆いて義憤に駆られ、次第に革命の必要性を痛感する。ゲバラの革命思想の原点がこんな所にあったのか、と感動するシーンであった。

蛇足:その1.親友のアルベルトはゲバラの意思を受け継いで、キューバに医科大学を設立した。
その2.ゲバラと言えば、筋骨逞しく、顎鬚を生やして、ベレーボーを被り、野性的でありながら知的な雰囲気。その点南米の若き人気俳優ガルシア・ベルナルは、十分に知的ではあるが、野性味には乏しいと感じた。

ゲバラの生涯と彼の生きた時代

5人兄弟の長男としてアルゼンチンに生まれる。2歳で喘息を発病。少年時代は読書とラグビーに熱中する。時折襲う喘息発作で、頻繁に試合を途中棄権した。ブエノス医科大学に進学し、アレルギー疾患の研究をした時期もあった。

革命成功後は、カストロ首相に請われて国立銀行総裁に就任した時期もあったが、1965年3月21日ハバナ青年集会に出席した後は、姿を眩ます。1967年10月7日夜、南米ボリビア国ユロ渓谷でゲバラとその仲間17名は政府軍6個小隊の夜襲を受けて足に負傷、逮捕され、翌日小学校の教室で射殺される。

ゲバラの生きた時代は、世界各地で旧体制が綻び、崩壊へ向かう兆しを宿していた。アジアではインドシナ全域を巻き込んだ米軍のベトナム戦争。ソンミン村大虐殺。「ベトコン」が世界用語になった。南米各地の多くの国々で、白人移住者による先住民への圧制に反発したゲリラが蜂起。アフリカではコンゴ動乱、チャド紛争が勃発。巷には反戦歌とビートルズが流れ、黒人運動の指導者キング牧師が暗殺された。日本国内では学生運動の最盛期で、大学からは学園の雰囲気が消え失せ、至る所に看板や赤旗が乱立した。小田実、市ノ瀬などのジャーナリストの活躍はあったが、情報源を西側の取材に依存していたマスコミの報道からはベトナム戦争の真実と現実は伝わらず、国民の多くはベトナム戦争景気に酔っていた。三島由紀夫の死は、時代を象徴するかのようでもある。

次頁の<利子さんの譜を読むーバッハ>余談:古典からの「教え」

「高く昇りたいと思った時は、手軽な手段はとらず、一旦ストーンと落ちて自力で這い上がって来ること」でしょうか。一言で言えば、「急がば回れ」。作曲の際の精神回路から、バッハは合理的で頑固、独立心の強いタチ。逆さ言葉が得意な頭脳の持ち主です。先妻さんと後妻さんとの間に、20人のお子様があります。丈夫で良く働く夫でした。

利子さんの譜を読む

一曲を「読む」のに一年かかりました。そんなに手間取った訳は、楽器が当時と異なるからです。1700年代の鍵盤楽器の低音は、今のピアノに比べて純粋で響きもきれいでした。しかし現在は、低音が鉄弦独特の響きを持ち、大きい音が出ます。今のピアノの演奏では、バッハの意図とは全くかけ離れた曲になっていたのです。

バッハは平均律の考え方を徹底させ、実践した人です。平均律とは、「ド」から「ド」までを12に均等に分けると、どの音からスタートしても「ドレミ・・ド」となる。少々の不具合はあっても、マア可としようとしたものです。このアバウトな考え方があって、音楽は今あるような発展を遂げました。「イタリアンコンチェルト」は、平均律権化らしい、調子にこだわった、彼の負けず嫌いな性質丸出しの曲です。「シ」の音に「♭」がついて足を引っ張る「へ長調」と「ニ単調」は、「ド」に昇ろうとしても手前の「♭シ」で弱る。結局高い「ド」にたどり着けない運命を持ちます。それを百も承知で、へそ曲がりのバッハは高い「ド」に昇ってから出だしの「ファ」に戻って来られる曲を作りたいと切望しました。

第1楽章。高く昇りたくて伴奏に応援をたのみ、ポンと突き上げてもらいます。しかしイマイチなので、トリル(揺れ)の応援を得て、マアマアの見通しがたちました。

第2楽章。すると揺れの応援をどけたくなり、自分自身で揺れが起こせる3拍子とし、短調に変えてみました。これでそこそこ行けたので、伴奏の応援もどけました。すると下がって失敗です。

第3楽章。(伴奏にも揺れにも頼らず昇れる方法は無いものかと思いついたのが、第1楽章の逆の設定です。)ちょっと高い「ファ」から落下し、落下の反動を伴って昇る計画。この考えがバッチリ当たって、目的を果たします。このように、第1楽章の出だしでの失敗をアレコレ工夫、改善して成功した時点で、最終楽章となります。「江戸の仇を長崎で」に近いものです。

[桑原利子]

[NIRVANA 第11号、2005年7月]

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