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ニュース ハンセン病 イベント&ワークキャンプ 茂木新聞社
NIRVANA 010

存明寺さま(浄土真宗)にお邪魔しました
存明寺ご本尊の前で
© NIRVANA 2005

ミヤンマーから来て日本で研修中のミヤッティダ先生は、マンダレーにある国立イエナタ・ハンセン病病院の院長代理ですが、大きな目をした可愛い女性です。家族同様の古いお付き合いで、我が家ではティダと呼び、彼女は私の夫を「おじさま」と呼びます。私にとって、彼女は大切な妹です。

2月の冷たい雨が降る日、ティダと、同じ病院の総看護師長・ミスタースエを伴って、存明寺様にお邪魔しました。浄土真宗のお寺で、ご本尊にお参りし、ご住職の酒井様より開祖・親鸞上人のお話を聞かせていただきました。その後心地よいお部屋に通され、外の寒い冬景色を見ながら、暖かいいろりを囲んで、切りたんぽとティダの作ったミヤンマー料理・ラペを楽しみました。その手際よい包丁さばきより、酒井様は相当な料理の達人とお見受けしました。

イエナタ病院のスタッフ集合
© NIRVANA 2005

浄土真宗大谷派は、ハンセン病療養所への慰問活動を通じて、古くから多くの在園者の方々と親密な交わりを続けてこられた教団ですが、日本の「らい予防法」が廃止された1996年、いち早く「ハンセン病に関わる真宗大谷派謝罪声明」を出した教団として知られています。

存明寺ご住職の酒井様ご自身も、日本のハンセン病問題についての深い理解と力強い行動力をもとに、さまざまな活動をしておられます。

存明寺の掲示板 「人間は偉いものではない尊いものです」―安田理深―
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真宗大谷派・桜田山存明寺

建立以来350年間、親鸞聖人の教えを伝える道場です。
http://www.zonmyoji.jp/

「ハンセン病に関わる真宗大谷派謝罪声明:1996年4月」より抜粋

国家による甚だしい人権侵害を見抜くことができず、無批判に国家政策に追従し、隔離を運命と諦めさせるような慰問布教を行い、園の内と外とを目覚めさせない誤りを犯した。

園の内と外とを目覚めさせないあやまりこそが、我々がもたらしてしまった、最も大きな「被害」である。

いま、共なる歩みを
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いま、共なる歩みを

存明寺様にお邪魔した日、ご住職から「いま、共なる歩みを」(真宗大谷派ハンセン病問題に関する懇談会・編集)と題する本を頂戴しました。かつて「らい予防法」の下で続けられた同教団の活動を振り返って、自らのあり方が、真に人間開放を目指したものではなかったと厳しく問いかけ、血の滲むような自己反省が示されています。そしてハンセン病回復者自らの人間回復が無い以上、そこへ閉じ込めた側の人間も回復されない、と高らかに謳われています。

随所に読みとれる、厳しくも清らかな内省の姿に感動し、我が身までもが、洗われる思いをしました。

[編集部 並里]

承元元年(1207)、師法然は土佐へ、親鸞は越後国府へ流罪となります。親鸞は僧名を許されず、藤井善信という俗名を名乗りました。
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以下は、真宗大谷派・同朋会運動で述べられている文章の一部です。

私達が行うべきことは、誰かのために何かをしてあげるという慈善事業ではない。ともに歩む運動を展開するということなのだ。そのためにもまずは自らが一人の求道者に立ち帰り、他者を一人の求道者として見出していくことが大切である。この点をおいて他に、他者と通じていく道は無い。自分と向き合う以外に、他者と向き合うことはできないのである。立ち上がり、歩き出す時がきた。人間であることを回復する道へ、いま、共なる歩みを「一人」から始めていきたい。

伊奈教勝著作
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「一人にして尊い」という人間観に基づき、人と人とが対等に出会うこと、それはいのちの本質的な要求である。隔離したもの、されたものが、共に開放され続ける道を見出していきたい。

存明寺の阿弥陀様は、前に向けた右掌の先を少し前方に傾けておられます。人々に向かって、「さあ、立ちなさい、そして共に進みなさい」と諭されているお姿です」と、ご住職よりお聞きしました。

私たち1人1人が、「孤立」ではなく「個立」して、共に歩もうというメッセージが、上記の本にも記されています。

予防法が廃止される前に、愛生園で亡くなられた伊奈教勝様は、かつて藤井善さんで通っていました。お寺の中に、生前の作品が飾られています。「善さん」は、その高貴な人格と見識の深さでよく知られていますが、私はまだ学ぶべきことがたくさんあります。いつか、このニルヴァーナでご紹介できるよう、勉強したいと思っています。

[編集部 並里]

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<クマさん日記>内蒙古

蒼き狼の異名で知られるジンギスカンが統治していたモンゴル帝国には、内蒙・外蒙の区別は無く、蒙古民族が支配する広大な帝国と、大小の部族が領有する衛星国家から成っていた。

現在中国の国境沿いに、帯状に西北に連なる地域を内蒙と称している。年間降雨量400-500mmの半乾燥地帯で、農業は夏に栽培可能な、葡萄、ジャガイモ、トマト、タマネギくらいのものである。主な産業は、短い夏の間に行われる牧畜と乳製品作りで、羊、山羊、牛、馬、駱駝などが飼育されている。短い夏が終わると、秋はあるのか無いのか気づかぬ間に過ぎ、いきなり寒い西風が吹き始める。風は昼夜の区別無く、風速10-15mで吹き荒ぶ。平坦な屋根に粘土を乗せた、丈の低い民家が点在する。室内はガンガンに蒸気が通り、シャツ1枚で居られるが、冷たい風の中を、星明かりを頼りに屋外のトイレに行くには勇気がいる。

冬になると緑黄野菜が無く、住民はビタミン不足になりがちとなる。極北や砂漠の遊牧民のように、家畜の血液や臓物を採る方法もあるが、高価なため、一般庶民にはとてもできない食生活である。

零下30℃!自然界では、動きを止めた物は全て凍結する。この中でビタミンを生産して効率よく供給するシステムを構築しなければならない。それには、微生物に頼るのが現実的だ。原料は穀物。熱源は、暖房用のボイラー。これならできる。

まず、玉蜀黍を粉砕して煮た後に、Aspergillus glaucus を植える。この黴は、革や乾物にも生える程強靱な生命力を持つ。この黴を培養して澱粉を糖化させ、分解が進んだ頃合いを見計らって、加熱する。ただし澱粉が変質しないよう、菌の活動を抑制する程度に加熱するのがポイント。続いて、同系統のA.Oryzaeを培養すると、培地内にVB群が蓄積される。ここに乳酸菌を添加して、VC含有量を高める。培地には大豆を加え、味噌の形で消費する。うん!これで出来上がり。量産体制を整え、後は帰国。滞在期間1ヶ月半の仕事ととしては、上出来。宿と食事の提供を受け、北京までの旅費と地元の特産品を土産に貰ったが、技術料の感覚は無く、それきりになってしまった。

そう言えば近年、元東北試験場長の田中さんが、朝鮮族移住地で、浅い溜池をビニールで覆い、太陽熱で暖めた温水を利用して、稲作栽培を始めたそうだ。また別の場所では、サッポロビール付属農場を定年退職した人が夫婦で移住し、ホップや葡萄栽培の技術指導をしていると聞いた。なるほど、持てる技術は分け与え、利用しながら継承して行くのも、開発者の生き甲斐なのだろう。

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村の小学校
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<多絵ちゃん便り>

ネパールでのある日、Kさんという日本女性を訪ねました。彼女は、長いキャリアを持つ看護士さんですが、定年を間近に退職してネパールへ渡り、この国の中でも特に貧しい地域に住み、村人に無料で保健指導に当たっています。Kさんが住む村は、首都カトマンズからバスで約30分の、ハティゴダという地図にもない寒村です。

村の診療所に来る人の家を、訪問しました。
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バスを降りて道無き道を進むこと数十分、やっと人口約800人の村に着きました。僅かな家畜と、零細農業に頼る生活です。早速Kさんの案内で、村を歩きました。家屋の壁には、牛の糞がペタペタと貼られています。これですきま風を塞ぐのです。なるほど!でも臭くないの?大丈夫。外気にさらされ乾燥した牛の糞は、臭くありません。

民家の様子
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村中どこも、ハエがいっぱいです。でも村人たちは、老若男女を問わず皆いきいきとした笑顔が素敵です。家の中は12畳ほどの空間で、そこに6人くらいの家族が住んでいます。台所や寝室の区切りはなく、もちろん電気も水道もありません。敷物無しのむき出しの地面の上で、生活しています。全て自然の恵が頼りで、日照りが続けば田植えもできず、井戸の水は底をつきます。そんな時には、僅かに水の残る小さな川が、村人の命を繋ぎます。

ある一軒で、私たち5人はお昼ごはんをいただきました。それぞれ1人ずつに、豆5粒ぐらいと、とても辛い香辛料たっぷりの芋の煮物、それにチャンというにごり酒です。「きっとこの家族の一食分にあたるだけのごはんよ」というKさんの一言が、胸に刺さりました。…

[岩井多絵]

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<利子さんの「譜を読む」お便り>まだまだモーツアルト!

前回の続きで、さらにモーツアルトにアプローチ。

まず曲の構成については、20代前半まで弦楽器出身的な感覚の作風でした。というのは、音の流れが、隣の音への移動を繰り返すものでした。美しくはありましたが、チマチマしています。それが20代後半に、打楽器出身的に変わりました。音は遠く離れたポジションに飛んで、位置を取るようになります。作風は、「立体的、大胆、骨っぽい」と、こんな性質が加味されました。どうして急に変わったのか不思議に思い、彼の人生を調べてみました。

1781年(ウイーン、26歳)、モーツアルトはプロイセン大使だった貴族と知り合いになり、この貴族の所有していた、ヘンデルとバッハの楽譜のコピーを見せてもらえる事になります。そこで毎日曜の正午と決めて通ったり、借りたりすることができました。バッハの作品を目にしたモーツアルトは、「目からうろこ」だったハズです。

と云い切る根拠に、バッハとモーツアルトの「頭脳回路」が似ていることが挙げられます。バッハは音符を、「左右」「上下」の位置を逆に並べてイメージすることが得意でした。モーツアルトも逆さ言葉が大好きだったので、バッハを見てヒントが得られ、アイデアがいっぱい浮かんだことでしょう。何事も、「先達はあらま欲しきことなり」です。

この形の頭脳について、思い出すことがあります。レオナルド・ダ・ヴィンチが、鏡に映したときやっと判読できる本を残したそうですが、三人とも左右、上下の意識を、円にまで置き換え可能なのでしょう。

モーツアルトのエピソードを1つ

「彼が折り紙を始め、折りあがったものを、上から、下から、横からと眺めて、クク・・・と笑った時は、もう作品が完成。後は楽譜にするだけ」、建築家が設計図を引く気分で、折り紙をしていたことが想像される話です。

[桑原利子]

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編集者よりお知らせ

予定より遅れて、ニルヴァーナ10号をお送りします。草津からのお便りはこの号が最後となり、次回からは埼玉県の所沢より発信致します。

私並里は、今年4月末13年間の療養所勤務を終えて新たな出発をいたします。埼玉県所沢市でクリニックを開設することになりました。

皮膚科(並里まさ子)のほか、東洋医療と内科を併設して、6月開院の予定です。誰もが気軽に受診でき、各科専門医が互いに連携することで、よりよい医療を提供したいと願っています。

様々な障害のある方も無い方も、ためらいなく受診できる組織を作りたいと思います。2年前よりソーシャルワーカーの方々の丁寧な気配りに支えられて、各患者さんが最も適した診療を受けられるよう、一般医療機関へ自由に紹介できるシステム作りを進めてきました。

冬の栗生神社
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ニルヴァーナの立ち上げは、私の辞職準備でもありました。これまで国の内外に築いた友達の輪を、今後も大切にしていくことが主な目的です。開業後もこのNGOは続けますし、より活動範囲は広がると期待しています。栗生楽泉園自治会への報告は、大変苦しいことでした。「必要な場合には、いつでもお手伝いに来ます」との約束を、生涯守るつもりです。

多くの残された諸問題に対して、これまでとは異なる角度から取り組みたいと思います。今後とも、どうか見守っていてください。

新クリニックの開設:平成17年6月1日
「おうえんポリクリニック」AUEN Poly-Clinic
〒359-0002 埼玉県所沢市中富1037-1番地
駐車場の開放:日曜朝市、バザー、季節の催しなど

6月中旬、ニルヴァーナの支援でパキスタンから皮膚科医師が来日します。施設見学、現地状況の紹介、今後の協力体制に関する討議などを行なう予定です。ご興味のある方はご連絡下さい。

***

小林茂信様、小澤英輔様、津村厚子様、山本隆英様、山崎弘子様より、ご厚志をいただきました。厚く御礼申し上げます。

途上国の、主にハンセン病対策に関する支援で、有効に使わせていただきます。

[編集部 並里]

[NIRVANA 第10号、2005年3月]

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