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NIRVANA 009

ミャンマーのハンセン病クリニックへ薬剤費を寄贈
TMRCの薬剤贈呈式。左端:チョウチョウ先生、
前列右から2人目:TMRCの田代氏
© NIRVANA 2004

ヤンゴン市街にある国立総合病院の一角に、特別皮膚科診療所があります。ここでは、ハンセン病の外来診療をしています。責任者チョウチョウ先生は、誇り高いビルマ族の紳士で、全力で患者さんの治療に打ち込んでいます。

昨年ニルヴァーナ第3号で、連携団体TMRCの皆様から、この診療所で必要とされている薬剤が寄贈されたことをご紹介しました。今年もまた、TMRCから同クリニックへ薬剤費を寄贈されました。

また静岡の仏教団体BAC(NGO)の代表者伊藤佳道様からも、抗生物質の申し出があり、これもチョウチョウ先生の所に送っていただきました。

私たちが自由に使っているこれらの薬は、途上国の一般市民にとってはとても高価で、買えない人がたくさんいます。国民保険や社会保険などには、縁の無い世界です。

ハンセン病の治療薬は、WHOを通して定められた期間だけ無料で配布されますが、後遺症による障害や他の病気に必要な薬は、自分で買わなければなりません。薬が買えないばかりに、重度の障害を残したり、命を失うことも稀ではない地域では、戴いた薬のありがたさは、筆舌に尽せないほどのものです。チョウチョウ先生の礼状から、感謝の気持ちがよく判りますので、ここに紹介します。

イトウヨシミチ様

貴方からのすばらしい贈り物に、深く感謝致します。この薬剤は、手足に傷を持つ私の患者のために、本当に欲しかったものです。ここ私のクリニックでは、抗生物質はしばしば不足します。この供与が無ければどうしてよいかわからない患者がたくさんいる中で、薬剤の無料供与は、私と私の患者にとって本当にありがたいことです。今後も、ハンセン病との戦いにご支援いただきますよう、お願い申し上げます。

BACの皆様に、親愛なる敬意を込めて、

ヤンゴン特別皮膚科クリニック責任者 チョウチョウ(Dr. Kyaw Kyaw)

薬剤耐性の調査

世界のハンセン病患者さんの99%は、多剤併用治療(MDT)をうけます。かつてのDDS単剤使用に比べてきわめて有効な治療です。ところが近年、薬剤耐性の心配が出てきました。流行地の新患者に耐性菌が見つかるということは、重大なことです。MDTの有効性を維持するために、適切な対応が望まれます。ニルヴァーナは、上記診療所での薬剤耐性検査を支援しています。熱心なチョウチョウ先生との共同作業で、この調査は大いにはかどっています。過去1年間で、3例の耐性菌を持つ患者さんが見つかりました。以下も、チョウチョウ先生からの礼状です。

ナミサトセンセイへ

薬剤供与に関するご配慮、心より感謝します。今年もTMRCから、薬剤費を贈与され、つい先ほどその贈呈式を終えました。資力の無い患者たちにとって、皆様の援助は大変役立っています。またこの度は、貴方から特別な薬剤も戴き、これらは薬剤耐性例に使うことに致します。貴方の嬉しいサポートに対して、再度御礼申し上げます。

ヤンゴン特別皮膚科クリニック責任者 チョウチョウ(Dr. Kyaw Kyaw)

抗生物質や化学療法剤などは、確かな管理者の下で、注意深く処方されなければなりません。ヤンゴンでは、几帳面なチョウチョウ先生の、厳重な管理下で使われています。

途上国は何処でも、同様の悩みを抱えていて、ヴェトナム、インド、パキスタンからも、昨年から続いて、支援の依頼が来ています。

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<楽食便り>ビタミンの話

食品の宣伝に「ビタミンたっぷり」などと書かれていますが、ビタミンとはどのようなものでしょう?簡単に言うと「ほんの少ししか必要としないが、生命維持に必須で、かつ体内では作れないもの」です。現在全部で13種類が知られており、高齢者ほど不足しやすいようです。ビタミンは、水に溶けるもの(水溶性)と、油に溶けるもの(脂溶性)に分けられます。脂溶性のトップバッターはビタミンA。人参など緑黄色野菜に含まれるベータカロチンは、体の中でビタミンAに変わります。目の細胞や皮膚の代謝に欠かせません。続いてビタミンDは、骨と関係が深く、カルシウムを体の中に取り込みます。同じく脂溶性のビタミンEは、水溶性のビタミンCと助け合って、体をストレスから守ります。最後はビタミンK。これは出血した時に血液を固めやすくするので、これが足りないと血が止まりにくくなったりします。以上4つが脂溶性ビタミンで、その名のとおり油を使った料理に加えると、よく吸収されます。

[楽泉園栄養管理室:西岡]

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多絵ちゃんより(続)

1週間が経ち、カトマンズの汚れた空気やゴミだらけのトイレにも驚かなくなって、ネパールの生活に慣れてきました。しかしどうしても慣れることができなかったのは、ホームレスのおじいさん。悲しそうな目で私たちを見ては杖をつきながらヨロヨロと近づいて、「マネーマネー」。寮母さんの「お金をあげれば、この人は一生ホームレスのままだよ」の忠告で、結局お金を渡さなかったのですが…。

でも5分と経たないうちに、そのおじいさんは別の日本人ターゲットを見つけ、そちらへヨロヨロ。お金をもらって大喜び。あげた日本人も満足そうでした。こんな時、皆さんならどうします?

1 僅かなお金なら負担にならないし、あげた方が気分がいい。

2 寮母さんの言うとおり、この人たちをスポイルしてはいけない。

良識ある多くの人々は2の行動を取りますが、ここで物乞いをする人のほとんどは、先祖代々のホームレス。一つの職業のようなもので、私があげなくても次の誰かがあげるでしょう。数千年を生き延びてきた社会形態を前に、私の悩みが薄っぺらに見えました。

[岩井多絵]

これを聞いて、ミヤンマーの街角を思い出します。8年前のヤンゴンに、物乞いは見ませんでした。バガンの寺院遺跡は、夕日を受けて寂しくも美しいシルエットを見せていました。ところがその後、行くたびに様子が変わります。ヤンゴンのレストランでは、小さな子供がお金をねだり、バガンの遺跡で、満艦飾に着飾った少女が厚化粧で媚を売ります。翌朝南国の青空の下、大型バスから流れ出てくるフランス人観光客に向かって、子供が数人小さな手を並べました。ヴァカンスを楽しむ陽気な彼らは、小銭を渡してさっさと過ぎ去ります。子供たちは稼ぎを握り締めて物陰に消えました。あの誇り高いビルマの人々は、どこへ行ったのでしょう。開発途上の国々で、しばしば目にする寂しい光景です。施し、喜捨、恵み、これらの行為には、様々な歴史と分化の背景があります。イスラムの風習に慣れているヨーロッパ人には、日本にいる私たちの戸惑いがあまり無いように思います。しかしビルマ人のメンタリティーは私たちにとても近いはずなので、この光景が一層悲しく映ります。

[編集部 並里]

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利子さんの「譜を読む」お便り

作曲家の中で最高の人は誰? それは、モーツアルト。理由は、以下の3つです。

(1)オペラを作った、(2)短い生涯で、全分野に作品を残した、(3)「譜を読む」の見地から作曲の段取りがいい。

解説

(1)オペラについて:総合芸術であるオペラを作りたいと、作曲家なら誰でも思うようです。バッハは国外に出たことがないせいか、一曲もなし。そのライバルのヘンデルは、イタリア滞在の経験を生かして、オペラあり。ベートーベンは、「フィデリオ」1曲だけ。しかもそれを、10年かけて手直ししています。ショパンは、友人の勧めにもかかわらず、もっぱら観客にまわりました。モーツアルト以外で現在上演されている曲を持つのは、ワーグナー、ヴェルディ等々ですが、彼らはいかにもオペラ専門の作曲家。

(2)について:36歳と短い生涯。そのうち約14年を演奏旅行に費やし、家に居る時間が少なかったにもかかわらず、多くの曲を残し、また彼には不得意分野もありません。

(3)「譜を読む」から:<その1>

作曲では、場面の変わり目、今まさに内容が変わろうとする時の扱いが、特に重要です。手間取ると、長くなってすっきりしません。モーツアルトは、これをほとんど1音で、「スポット」の手際で、様子を変えてみせます。その上、この音が、ハズレになることはないのです。モーツアルト以外でこの芸当が出来る人はいません。大方の作曲家は、作るのより仕上げに苦労します。モーツアルトの場合は、「こんなんで、いいんちゃうの?」的ですが、失敗ナシ。だから短い生涯で、大量の作品が書けたのでしょう。作曲が上手なモーツアルトの曲は、「読む」ではなく、自然に「読まされてしまった」となります。(次回、<その2>に続きます。)

[桑原利子]

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<クマさん日記>踊りを観る

白鳥の湖やクルミ割り人形を演じるモスクワバレーにうっとり・・・どうしてこれほどまでに優雅でもの悲しい身のこなしができるのだろうか、と感動しながら観ていたら、1人の東洋人が出て来た。以前には考えられない事だが、現在モスクワのボリシェイユバレイ団で主役を演じる彼は、日本人男性だという。バレー留学してそのままモスクワに残り、同じ団員の女性と結婚して現在もモスクワ暮らしを続けている。そう言えば、数十年前にスペインでフラメンコを踊っている日本人女性がいたのだから、不思議でも無かろう。

繊細で優美なバレーの世界とは打って替わって、庶民の民族舞踊となると、その土地の環境や生活の匂いが色濃く演じられる。コサック、ポルカ、コーカサス地方の家畜追い歌などからは、どうしてもバレーの世界は連想できない。

ところは変わり、地中海沿岸アンダルース音楽は、アラブ音楽に似てゆったりと重たく流れる旋律であるが、踊りは完全に異なる。アラビアダンス程の躍動感は無く、しかし抑えた動きの中に力強さを表現している。アラブ音楽とアンダルシア音楽の区別を知るには数年かかるが、踊りは一見して違いが分かる。

地中海を南下してアトラス山系に達すると、肩を細かく震わすベルベルの踊りがあり、あーこれは随所に羊の行動が採り入れられた踊りだな、と直感する。

更に南下するとサハラ遊牧民の踊りがある。

この踊りは何とも悩ましく、見ていると民族のルーツなど考えるゆとりは無くなる。

ほの暗いランプの明かりに浮かぶ、踊り子の大きな瞳に魅了され、心臓が破裂しそうに興奮し、思考は完全に停止する。

さて民族舞踊だが、今日では住民移動やその後の学習などにより、現地の村人達でさえ、自分たちの原点を探るのが難しくなってきた。そこで、民族のオリジンを探る手段の一つに、彼等の民族舞踊を披露してもらうことにした。

ガーナの首都アクラから西へ20km余り、海岸から400?内陸に入った村に立ち寄り、村長に民族の踊りを見せてくれないかと頼んだ。自分は上手に踊れないので、近隣の婦人達に踊って貰おうと心安く引き受けてくれた。1曲、2曲、3曲と続き、それに伴う踊りが披露されたが、どうも想像していた踊り方とは違う。本来、民族の踊りと彼等の仕事には関連性があるはずなのに、そこの村の踊りは農耕民の踊りでもなければ、狩猟民の踊りでもない。5回目の踊が終了した時点で、休止してもらった。どうも、ハワイのフラダンスに似た振り付けが多い。フラダンスよりは個々の動作と間繋ぎが早いが、随所に類似動作が観られる。

村の長老に村の沿革を訊ねると、昔海岸で津波に襲われ、この地に移住して来たとの報である。なるほど、なるほど。

ボルタ湖の北、その昔、上ボルタと言われた地域、現在で言えばブルギナファソ南部地域の住民は、代々農耕を営む農耕民で、踊り方もちゃんと足が地に着いている。

方々で見た農耕民の踊りは、躍動的ではないが、大地に根を下ろし、大空を仰いで、これから生きていくんだと言わんばかりの、強い意志を感じさせる。

フィリピン、マニラのショッピングモールの一角に、現地に伝わる代表的な民族舞踊を見せてくれるレストランがある。出し物は、南から北へと5民族の踊りである。南部ミンダナオ島スルー地方の民族舞踊は、銅鑼をならしながら踊り、どことなくインドネシアのワヤンを彷彿とさせる。北部ルソンの山岳民イフガオ族は、首狩り族として知られた部族であるが、彼等の踊りを見る限りでは、土地を愛し、自然を崇める農耕民族の踊りそのものであった。またフイリピンではピナツボ火山の爆発により、山岳民族イタ(アイタ)の存在がクローズアップされた。本来狩猟民とされる彼らの踊りには、飛んだり跳ねたり、奇声を交えて躍動的に踊る姿は無く、森の動物、樹木、月、風雨が織り込まれた動作が多く、サバンナの狩猟民の踊りとは違って、静かな身のこなしであった。彼等の祖先は、狩猟よりも採集によって、生活を支えてきたのだろうと想像した。

森から川を下り、見晴らしの良い海岸に到達すると、沿岸には漁民部落が点在する。波静かな沿岸漁民の踊りには、波の動きと、一日中吹く微風が椰子の葉を揺らし、さらさらと擦れる葉音を奏でる光景が踊りに投影されている。フラダンスやフイリピンのティキティキは、そんな雰囲気がこめられている。

同じ沿岸漁民でも、珊瑚礁やラグーン、湖沼漁民の踊りの中には、磯に戯れる小魚を追う人々の姿が投影されていて面白い。琉球舞踊の「たんちゃめ」などが正しくその例で、チャカチャカしながら、軽快なカチャーシーのリズムに乗って、うるめ鰯かシルバーサイドなどの小魚を掬い、それをいち早く売り歩く動作が織り込まれている。コマネズミの動きを連想させる、ちょこまかと細かい動きを繰り返す。

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後記

今年は台風、大雨、地震が続き、浅間山まで怒り出して、本当に災難続きの1年でした。草津は、例年よりも暖かい日が続いていますが、山国の冬を迎える私たちには、北陸の被災地の大変さが身にしみます。一日も早く、落ち着いた生活に復帰されることを願わずにはいられません。ニルヴァーナから復興対策本部宛に、ささやかな支援金をお送りいたしました。

[編集部 並里]

[NIRVANA 第9号、2004年12月]

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