NIRVANA 006 |
草津にも春が来ました。 |
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また同時にニルヴァーナからは、ウイルス性肝炎の検査キットを送りました。ヴェトナムを始め、アジアでは、昔からウイルス性肝炎が多いことが知られています。しかしこれまで私たちが見てきた限りでは、肝炎対策がきわめて不十分です。そこで昨年に続いて今年も、現地に肝炎の検査キットを送り、感染者の早期発見と感染拡大を防ぐための一助にしてもらうことにしました。私たちにできることはほんのわずかですが、幾ばくかの人たちの役にはたつことと思います。
ニルヴァーナから持っていった手紙と先方から頂いたお礼の手紙をそれぞれ日本語に約して、ここに紹介いたします。
献金:50,000円
検査試薬:C型肝炎検査キット200回分
桜井哲夫とニルヴァーナより
皆様お元気ですか? 今回は、特別プレゼントをお持ちしました。
桜井哲夫氏は、約65年前まだ化学療法の無い時代にハンセン病を患いました。長く続いた闘病の後に、重度の障害を残して治癒しました。彼は今日に至るまで、ずっと日本の国立療養所栗生楽泉園に住んでいます。桜井氏は詩人で、これまでたくさんの詩集を出してきました。作品の多くには、与えられた命を生き抜こうとする、彼の強い意志が表現されています。また桜井氏は一般市民の集まりや活動に積極的に参加し、"我々全てが、人間としての誇りを持った存在であること"を訴え続けています。彼の心は常に、病気、貧困、災害などで苦しむ人々に向けられています。
この献金は、桜井氏の詩の朗読会に参加した高校生たちが自主的に集めたものが元になって、それに桜井氏自身とニルヴァーナが賛助したものです。
我々は、桜井氏が常に心に留めている人々のために、この献金が使われることを願っています。
ニルヴァーナ東京支部(NGO)
バク・マイ病院の皮膚科病棟 |
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後遺症の治療を受けている患者さん。多くは、手足の変形を治すために、外科手術を受けています。家族のお見舞いが絶えず、一家団らんの場になっています。
[編集部]
桜井哲夫氏とニルヴァーナへ
内容:お志に対する感謝 親愛なる桜井さんとニルヴァーナの代表者へ
我々は、確かに上記金額を受け取りました。このお金は、ハンセン病患者とその家族のために使わせていただきます。敬意を込めて。
保健省
バク・マイ病院:皮膚性病科医師 ニュンエンチー
ニルヴァーナへ
今日ニュンエンチー医師から、貴方の訪問と肝炎検査キットの贈与について聞きました。我々のためにしていただいたご好意に対して、深くお礼申し上げます。
カング先生(バク・マイ病院ハンセン病部門の副責任者)は今留守ですが、帰られたらすぐにこのことを伝えます。ヒエン先生(上記責任者)には本日伝えましたところ、大変感謝しておられました。ヒエン先生から、「桜井さんとニルヴァーナに、心からのお礼を申し上げたい。このお金は、患者のために最も有効に使わせていただく」との伝言がありました。さらに、肝炎の検査キットも戴き、ありがとうございました。またニルヴァーナの方々にお会いできる日を楽しみにしています。
誠意と感謝を込めて バク・マイ病院皮膚科 ランより
北海道からニルヴァーナに声援を送ってくださるグループをご紹介します。
「はまなすの里」会員の方々は、北海道札幌市を拠点に、ハンセン病回復者とその家族との交流に力を注いでおられます。この会は平成14年6月に結成されましたが、ハンセン病回復者の方々とは、それ以前の長いお付き合いの歴史があります。
平中忠信様はこの会の代表者で、会員の方々と共に、一般社会で暮らしておられる回復者を訪問し、老人ホームへの入所のお世話や、全国に散らばる療養所訪問、また療養所にいる方々を北海道にお招きする「里帰り」など、行政の手が届きにくい分野へのボランティア活動を続けておられます。また昨年8月、栗生楽泉園の桜井哲夫さんを招いて、北海道で講演会が開かれました。たくさんの人々が深く感動してくださった様子を、機関誌「はまなすの里」から知ることができました。
[編集部]
(1599-1660年)作
この複雑な肖像画は、ベラスケスの独創性、革新性をあますことなく伝えている。5歳になる国王の娘マルガリータを囲んで、女官たち(ラス・メニーナス)が描かれ、左側にベラスケスが立っている。後方の鏡に映っているのは、国王夫妻で、ベラスケスは、この夫妻を描いている。マルガリータは両親に会うためにこの部屋に入ってきた。
亡き女王のためのパヴァンヌ ラベル作(1899年)
〜こんなことが書いてありました〜
今回は読んでいるうちに、不思議な気持ちになった曲の話です。
曲というのは、"提示部→展開部→再現部"という"流れ"で作られていますが、この曲の再現部を読んでいる時、臨死体験とでも言える様な気分になりました。高音のメロディで、伴奏が揺れを含み、美しく、優しい曲ですが、最後の3小節で、「パヴァンヌ(スペインを起源とする、孔雀に似せて踊る宮廷舞曲)」に合わせて、孔雀のように羽を大きく広げ、舞い上がって昇天してしまいます。そんな結末になる曲を読んだことがないので、私はしばらく唖然としていました。が、同時に、インパクトの強さから、これは歴史上実在した女王を描いたもので、彼女への鎮魂歌だと気付きました。調べてみますと、ベラスケスの描いた「女王マルガリータ」を見て霊感を受けたラベル、24歳の作品でした。このマルガリータとは、謎解きで有名な絵「ラス・メニーナス」(ベラスケスは一体誰の肖像画を製作している最中か?)の中心で、女官達にかしずかれている少女です。スペインのハプスブルグ家は死に絶えますので、最後の女王です。彼女は13歳で、オーストリア、ハプスブルグ家に嫁ぎ、22歳で1人の女の子を残して亡くなります。
ラベルは何故、絵から霊感を受けたのでしょう?
1 ラベルの母はスペイン人でした。(彼はマザコンで、一生独身)出生地がスペイン(3ヶ月まで)で、スペインびいき。
2 この曲の内容は、「良いことばかりのハズのマルガリータが、挫折を味わい、孤独の中努力して成長する」と云うものです。これは当時、フランスの音楽界でラベルが置かれていた状況そのもの。
3 ラベル自身の懐古趣味も手伝って・・・と、こんなところでしょうか。
ベラスケスは肖像画を描きながら、マルガリータの将来の姿が予見できたのでしょうか。そしてラベルにもそれが見て取れたのでしょうか。 一流の芸術家の霊感は、不思議な力で見る者の心を打ちます。最後に、マルガリータは何の病気で亡くなったのかをスペイン大使館に尋ねましたが、「そこまでは分からない」の返事でした。
[桑原利子]
有史以前の太古から、様々な刺青の習慣がありました。自分の存在を誇示する装飾として、または自分の強い意思を示すため、あるいは超自然の恵みを期待して、時には差別や刑罰の目的で、などが思い浮かびます。
最近のある医学雑誌に、印象的な記事を見つけました。
インドの片田舎でのこと、昔からこの地方では、女性の間で刺青が流行っています。日本では"彫り師"というのでしょうか、現地にも刺青を施す人がいて、市場の立つ日や結婚式など、人の集まるところで店を出し、人気を呼んでいます。
ここでは刺青が、天国の門をくぐる時の助けになり、また先に亡くなった女性の親族達にあの世でめぐり合うための、目印にもなると考えられています。そして"彫り師"に渡したお金は、神様への貯金となり、彼女達のこの世での財政を助けてくれると信じられています。不思議なことに、この習慣は女性だけのもので、男性にはありません。
埃の舞う道端での行為ですし、同じ道具を何人もの人に使うのですから、傷口からの様々な感染症が当然問題となります。しかし彼女達にとって、最も安価な、奪われる恐れの無い、そして墓場まで持って行かれる、唯一の"飾り"なのです。現地の医師達は、この習慣をどうしたものかと思案に暮れているようです。
[編集部]
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2002年の1年間に診断された、新患者の合計620672人の内訳
(WHO報告 2003年1月)
インドは世界で最も患者数の多い国です。
どうしても頭から離れない詩がある。
・・・粗い壁
壁に鼻ぶちつけて
深夜
虻が羽ばたいている・・・・・
この詩は北條民雄が多磨全生園で書いた詩だ。自らを、部屋に迷い込んで出られなくなった虻に例えて、絶望的な苦悩を表している。
東京の郊外東村山市にあるハンセン病療養所「多磨全生園」にいる作者が、川端康成に原稿を送り、川端がその文学への意欲と才能に感動し雑誌への発表、単行本刊行の労をとった。しかし作者は翌年の昭和12年暮れに24歳で病死した。この作者こと北條民雄の代表作が、上記の「いのちの初夜」である。
治療法のない時代、厳格な強制収容政策下にあった日本では、病名の宣告は絶望を意味した。地獄の中で人間性をうたいあげた北條民雄の作品を読み、彼が伝えたかったことを私なりに考え続けたい。
[岩井多絵]
北条民雄の作品については、色々な見方があります。楽泉園の著明な文筆家の1人、沢田五郎氏の歌集「夜のほととぎす」の中の「北条民雄を読み直す」の部分から、少し抜粋してみます。
・・・対象を描写する手並み見よとばかりらいの醜さ書きて容赦なし
・・・二十一の若者のこの筆さばき語彙の豊富さただ舌をまく
・・・この病けっして治らぬと思いさだめ絶望の闇に燃えて燃え尽き
・・・"病気進まぬ治癒者も多いと聞きますよ"民雄宛て書簡に康成は書き
若い北条民雄の鋭い描写を、「嫌悪のみにて愛なき描写」と沢田氏は記しています。「夜のほととぎす」 沢田五郎著 生活ジャーナル 2002年
あまりにも若くして世を去った北条民雄には、彼の心にもきっとあったはずの愛に、気付く時間が足りなかったのではないでしょうか。
[編集部]
星の瞬きが弱まり、東の空が明るむ。太陽が水平線上に顔を出すと気温は急上昇し、これまでの山風が止まって、忽ち島全体が無風地帯となる。午前7時半と云うのに、茹だるように蒸し暑い。
やがて、温められた海面から水蒸気が立ち上り、雲となって南の海上に浮かぶ。時間とともに陸と海の温度差が増し、風は海から陸地へと吹く。午前十時、雲は風に乗り島に向かって一直線に滑空を始める。陸地に到達した雨雲は、海抜二千メートルの山に行く手を阻まれ、重さに絶えかねて雨を降らす。カリビア海に浮かぶジャマイカの朝である。
殆ど毎日降る雨のお陰で、島ではコーヒー、コショウ、バナナなどがたくさん採れる。住民の殆どはアフロインディアンと呼ばれる、カリビア原住民とアフリカ移民との混血である。
ここには珍しい動植物や希少生物も多い。中でもルビーハチドリと呼ばれる世界最小の鳥は、虻と間違うほど小さい。だがしかし、あの見目麗しき姿は一目でハチドリと確認できる。ハチドリは、恰もヘリコブターがプロペラの回転軸を変えながら垂直移動、水平飛行、空中停止をするように、翼を回転させながら空中に浮遊した状態で、長い管状の舌を延ばして花から蜜を吸う。
島の西端にあるハンセン病の施設では、欧米のキリスト協団体から派遣された職員が島民に溶け込んで、ピジョンイングリシュと呼ばれる国籍不明の言語を喋りながら、笑顔で働いていた。
ジャマイカ:秋田県とほぼ同じ大きさで、カリブ海に浮かぶ島国。人口262万人(2002年)。1962年8月英国より独立、自治領となる。かつてこの島に住んでいたアラワク族は、この島を「ザイマカXaymaca」(「木と水の大地」の意)と呼んでいた。それが現在の国名の語源となっている。
[編集部]
[NIRVANA 第6号、2004年5月]