誠実な生き方で自立する 信生農場
密陽川の透明な流れと、燕のように空へ突き上がる嶺南楼の軒が、趣きある調和を醸し出している歴史深い街、密陽から国道に治って北西の方向へ十km入って行くと、左に「信生マウル(村)と書かれた看板が目に入って来る。そして、国道からさらに脇道へと入り百メートルほど上ると、高い山と欝蒼とした山林の中に古びた畜舎群がぴっしりと立ち並んでいる光景を目にする事ができるが、これがまさに信生農園である。
第二次世界大戦により緊張が高まった日帝時代の末期、それまでハンセン氏病のためにたくさんの苦労を重ねながら街々を俳回していた幾人かの人々がこの地に集まって来た事から信生農園の歴史は始まった。
*キム・チャンスク氏と信生農園
一九四五年八月一五日、民族の解放を迎えた韓半島では、自由の風に包まれて精気にあふれていた。しかし、このように国全体が解放の喜びに沸き返っていた中でも自由を失い、彷律し、寂しい生を生きなければならなかった人々がいた。解放の翌年である一九四六年八月一四日.慶尚南道・密陽郡・武安面・マフル里に教会を建て、最初の礼拝を捧げていた三十余世帯、百余名の人々は、天を仰ぎながら溜め息ついた。ハンセン氏病による病苦と飢え、そして一般の人達からの冷遇は彼等にとって耐え難い試練だった。偏見を持つ地域の人々は、彼等の定着を妨害するためにあらゆる方法を駆使して圧迫を加えて来た。時には取っ組み合いのケンカもしたが、勢いに押されて傾斜角七十余度に近い山の麓へと追い込まれ、廃坑の中で生きなければならないという事もあった。
この時、彼等の境遇を憐れんで、助けようとして立ち上がった若者がいた。プサンで聖書学校に通いながら伝道生活をして来たキム・チャンスク氏である。彼女は街々を巡りながら信生農園に住む人々の
困難を訴えて募金を集め、そのお金で食糧と各種生活必帝品を買い揃え、また、疾病退治にもカを尽くした。身も心も軟弱なため、まるで人生を放棄してしまったかのように暮らしていた彼等を助けるために、彼女は先靖に立って情熱的に活動して行った。
*朝鮮戦争と現地定着
そのように最も難しい時期を克服して、何とか安定を手探りし始めていたそんな矢先、一九五〇年六月二十五日。北韓(北朝鮮)軍の南侵により韓半島は再び戦争の砲火に覆われた。それによって、これまで少しずつ受けて来た各界からの協力も途絶えてしまった。そして、再び困難に直面した彼等は、また失意に陥って街々をさ迷うしかなかった。しかし、彼等を見守る神様は、困難に出遭うたぴに、それを共に賢く生きて行ける知恵も与えて下さった。肉体が虚弱な時には天の恵みによって、彼等の霊を慰め祈りながら生きて行けるように道を開けて下さった。
やがて休戦によって再び平穏を得ながらも、彼等は堅実な生活を送ろうとしていろいろな方面から仕事の種を探した。しかし、切り立った山と狭い居住面積という条件の中でできる仕事は何一つなかった。そんな中でも幸いだった事は、ハンセン氏病により苦痛を受けた村人たちが、当局から配られた薬によって治療を受け、健康を取り戻したという事だった。そして、ちょうどその頃、彼等の前に大きな変化が訪れ、自活意志を生かして行く道が開かれる事だった。一九六一年、五・一六軍事クーデターによって成立した政府は、彼等を現地に定着させて救護糧穀を配給し、自活のための土地を確保してあげる
事を決定した。精密検診を通してハンセン氏病から回復した人々だけを現地に残し、陽性患者たちは全て国立病院へと移送させた。そして、いざ健康で労働力がある人々だけ現地に残ってみると、何でもやれるぞという自信感と意欲が湧き起こって来た。
*養蚕で所得を増やす
若くて健康な人々が集まって新しい出発をするようになった信生農園は、密陽郡庁の協力により山麓に桑の木を植え、蚕を飼い始めた。これは初めて手をつける仕事だったが、金を稼げるという思いに夢を膨らませて、彼等は全力を尽くしてがんばった。真っ暗な夜明け前に起きて教会に出掛け、礼拝を捧げた後、露を払いのけながら彼等は山に登った。そして、伸びた葛の蔓を取り除いて、桑の木の苗木を植えて行った。時には食事時間も忘れて鍬で土地を耕しているうちに、陽が沈んで暗くなってしまった。このような努力の末、翌年には蚕を飼えるようになり、春・秋と分けて農協を通して蚕の繭を売りに出した。蚕の繭を売って儲けた金は彼等にとって何よりも貫い宝物であり、むやみに使えないようなありがたさまで感じるようになった。このように始めた養蚕が日を追うにつれてだんだんと規横が大きくなって行き、一九七〇年代に入ってからは信生農園で生産した蚕の繭の量は約十六トンに達する事もあった。
しかし、このような好景気と安定期間はそれ程長くは続かなかった。中国産の蚕の繭の登場によって対日輸出が塞がれると、養蚕農家は急に立つ場所を失ってしまった。信生農園の場合は他の所に比べると、被害がさらに大きかった。そして、汗水流して耕した桑畑が無用の長物となり、所得源が途絶えると、村人たちは生きる意欲を失ってしまった。
*第二の跳躍のための畜産
養蚕の道が塞がった彼等は一時期再び彷徨するしかなかったが、神様の助けと保護を情じたため、すぐに他の仕事を探りあてる事ができた。一九七〇年代の終わり項、彼等は畜産を行なうために指導者を各地へと派遣して養鶏をしている畜産農家を訪問し、専門的な技術を学んだ。幸いにもあちこちの定着村が畜産業でそれなりの好景気を迎えていたために、困難は予想外に手易く解決して行った。数十匹の養鶏を始めとして、農場全体に数匹ずつ豚と牛がいるのが畜産の全てだったが、彼等は我が子の面倒でも見るかのような真心で家畜の世話をした。
そして、やがてこのような努力の実が結ばる時が来た。数十匹のヒヨコは数千匹の鶏になって卵を産み始め、豚の数もそれに伴って延びて行った。養蚕で味わった困難も序々に解消され、几帳面に生きて行ったら、ある程度貯蓄できる余裕も生じた。郡当局でも彼等の熱意と黙々と努力する姿を高く評価して、一九七九年には牛入植資金を優先的に信生農園に割り当て、牛を導入するように勧めてくれた。彼等はその郡当局の配慮に対して、涙を流しながら感謝をした。そして、お互いさらに熱心に生きて行こうと誓いあい、一層の奮発を約束し合った困難にぶつかっても、それを賢く乗り越えて生きてく彼等の誠実な生活を見て、近隣に住む人々もだんだんと彼等を受け入れて行った。たとえ行政区域は違っていても、吉凶を気にしないで信生農園を往来し、温かい人間愛を分け合うようになった。
一九八〇年度、牛価波動で再び苦境に接したが、彼等はひどい困難は味わわなかった。熱心に努カして、植えた実だけを収穫しようとする彼等の素朴な生活は、いろいろな所へ良い模範となって広がって行っている。
*指導者たちの犠牲的な奉仕
「信生農園は今日では経済的な発展ばかりでなく、村人の知的水準、農場内の和睦と一致団結もよくできているし、慶尚南道内でも第一に数え上げられる程の冒険的な村である」と語る韓星協同会・慶南支部のチェ・ソンナク支部長の言葉通り、彼等はあらゆる面において均整の取れた発展をしている。現在、七十余世帯が従事している畜産の規模は、産卵鶏六万匹、豚四千余頭、牛九百頭で、各畜種にかけて非常に均整の取れた分布を見せている。
このように安定した農場のやりくりを賄って行けるようになるまでには、昨年、世を去ったシン・サンギ長老の献身的な努力と、現在、農場代表として苦労しているチャン・ウンソプ氏の努力が実に大きかったと何人かの指導者たちが指摘しているが、彼等ばかりでなく指導者たちがお互いに協力し合って合理的に農場を引っ張っているために、これといった問題もなく発展しているとも考えられる。
同僚患友たちの事であればいつ何時でも、献身的に世話をする医療要員のチェ・ジョンギ氏や十余年以上に渡って畜産組合を引っ張って来ているチョン・イファ氏は「対外的な信用を高めるために、いつも最善を尽くしている」と語る。それ以外でも教会指導者たちの目に見えない努力と協力の数々は、全ての定着村が手本としなければならないと評価されている。そして、このような良い土壌の上に発展する農場だけが真の喜びと栄光を手にして行けるのであろうと思う。地理的に困難な条件にありながらも、つらい顔一つ見せず生きて行く信生農園の村人の明るい表情を見ながら、さらに多くの発展を期待したい。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]