泥濘を沃土へと変えた 香村園
春、洛東江に沿って流れる水は寒気を感じさせるくらいに冷たいが、ぽかぽかと暖かな風は万物が蘇生するかのような新しい精力を与えてくれる。そのような春の気運の中、膝までつかる泥濘を踏んで、黎明園(ハマン郡所在の定着村)を出発した十余世帯、三十余名の開拓者たちは、当局より与えられた低湿地を耕すためにやって来た。戦争の廃虚と政治的な変動期の中、彼等に覆いかぶさって来た窮乏と苦痛の生活は言葉では言い表わせないくらいひどいものだった。当局の政策にしたがって、当初、黎明園に定着した彼等は、その後、健康を回復すると、自分たちができる仕事は何かないものかと探し始めたのだが、適切なものをみつけられなかったため、結局、低湿地でもいいから熱心に開拓して農業をして行こうという決意を抱いてこの地にやって来た。
ハンセン氏病から解放はされはしたが、それまで仕事の経験が全くなかった彼等にとっては、全てにおいて不慣れな事ばかりだった。それでも空腹にあえぎながら物乞いをしなければならなった時代を考えると、現在の方が数倍幸せだと思ったため、働き場を与えてくれた当局に感謝しながら、腕をまくり上げて熱心に大地を耕して行った。強い突風が吹き付け、また湿気も多い低湿地帯に、彼等は天幕を張りシャベルと鍬で土地を耕し始めた。そして、そのように自分たちの居所を確保した上で、神様の前に祈りを捧げた。彼等は意気地のないベデルのヤコプとなったような心境で、涙を流して訴えた。
「それまで私たちはあまりにも意気地がなかったけれども、これからは力強く生きて行けるように能力をお与え下さい」「私たちはこれまで病魔と苦痛の歳月を送る中で心身共に疲れ果てていましたが、それらを克服できる知恵をお与え下さい」
そのように延々と続く彼等の懇求は凄絶なものだった。
しかし、神様は信じる者が平安と驕慢の中で怠けるという事を許さない方だった。いくら肉体的生活が憐れむべきものであっても、それによってかえって霊魂が潔くなる事を願う主は、彼等をさらに新たな苦痛へと導いて行った。黎明園を離れ、十余世帯が香村洞に定着するという知らせに接した近隣の住民たちは、角材まで手にして彼等の定着に反対した。それに対して、命よりも大切な大地を死守しようとする彼等の決意の方は、決して充分なものではなかった。しかし、建てた塔が崩れれば、再び建て、また崩れれば、再び建てる事を繰り返しながら、粘り強く住民たちの激しい反発を克服して行った。当局から耕作地として認可を受けた三万余坪の土地は、言葉だけ三万坪であって、実際に見ると作物を栽培できる面積は、その半分にも満たなかった。それでも熱心に耕して稲を植えて行ったのだが、洪水に襲われた時には川の増水でそれらが全て水の中に沈んでしまったり、また、梅雨時には作物が皆腐ってしまったりした。定着してから味わった数々の逆境に耐えながら、ようやく収穫した米は、一マジキ(二百坪)に一抱えくらいにしかならなかった。しかし、村人たちにとってその産物は、お金よりも大切なものであり、かつ誇らしいものだった。
本当に久し掘りに食べる白い米飯。それも自分たちが直接作って手にした糧食である。その恋焦がれた米飯を1さじ掬って口に入れてみた時、感激のあまり喉をなかなか通って行かなかった。そして、それまで足を向ける事のなかった近隣の住民たちも彼等の勤勉で誠実な生き方を目にして激励の拍手を送るようになった。ハンセン氏病が治って定着した人々なのに、その彼等をこれまで患者呼ばわりして敬遠していたが、一生懸命に生きて行こうとする彼等の姿に接して、だんだんと身近に感じれるようになったのだ。
このようにしてその年の寒い冬を、村人たちは心豊かに送った。
しかし、来年にはさらに多くの所得を上げて、耕作面積も増やして行こうという村人たちの意欲は、冬の訪れも忘れたかのように田んぽを整備し、水路を作ったりと、全てのカを注ぎ込ませた。そして、冬を送り、また新しい春を迎えた。老若男女の区別なくシャベルと鍬を手にして、苗代作りにカを注ぎ、さらに多くの土地を耕しながら、稲を育てて行った。そして、苗代作業を終え、新しい土地に植えら
れた稲株が根を下ろし、その生気が感じられるようになった頃、村人たちは満ちたりた微笑みを浮かべた。突風が襲って来ても軽やかに揺れる稲穂は、豊年を約束するようにすくすくと育って行った。
だが、その後、明るく草取りをしながら陽気な豊年歌を歌い出す頃になって、草原に激浪が襲って来た。暴風雨を伴った集中豪雨が嶺南地方を強打したのだ。降水量が百mmを越える豪雨によって、洛東江の支流が氾濫し、心血を注いで耕し来た農土も踏み荒らされた。そして、香村園もその例外ではなかった。そうでなくとも低湿地のために、これまでにもたぴたぴ農作物が病虫害などによって多くの被害を負っていた。また、堤防の氾濫と水門の逆流による被害は、農作物ばかりでなく人家にまで及び、冬の間に土レンガで念入りに築き上げた家屋も削り取られた。その上、比較的高い場所に建てたはずの十九棟の家屋までもが完全に水没するという不運も重なり、彼等はやっとの思いで必要最小限の食料と家畜をつれて、裏山に身を逃れるのでせいいっぱいだった。
だが、悪夢は洪水だけで終わらなかった.それまでの間、定着に反対して敵視していた近隣に住む一部の住民が、水没した農地と山に避難している彼等の姿を見て拍手をしたのだ。その真意が一体どこにあったのかは定かでないが、常識を外れた行為としか言いようがなかった。何日か山で釜を炊き、粥をすすりながら水が引いて行くのをただひたすら待ち続け、彼等は再び挫折の痛みを味わわされた。その心の痛みを果して、いったい誰が理解できようか。
しかし、神様は公平で義理固い方だった。彼等の苦境を察して、あちこちから日用の食糧と必需品を支援して来て下さったのだ。当時、水没で被害を受けた彼等の凄惨な状態を伝え聞いた漆谷・愛生園のキム・デパル院長は、各界へこの事実を知らせて支援を要請した。そして、各宗教団体と民間人たちが送った暖かい愛の手は、彼等を派の中から引き上げ出してくれた。当局の方でも一世帯あたり五万ウォンずつ復旧費を支給して、彼等が再び農地を耕して行けるように支援した。
失望と挫折の中にあっても神様に対する信仰と勇気を決して捨てなかった彼等は、住宅をまた新たに建築し、壊れた水路を整備し始めた。そして、各教会からも十八万ウォンという多くの誠金が送られて来たため、その資金が重装備を動員しての住宅地の造成作業に大きな役割を果たしてくれた。水没の被害を復旧するため外部から送られて来た真心のこもった支援と村人の再建のための努力が合わさって、村は完全に新しく生まれ変わる事ができた。当局から許可を受けた農地を二万二千余坪へと増やし、また、新たに農作物を栽培して山を耕し、真桑瓜を植えて所得を増やして行った。
短い歴史にもかかわらず、たぴ重なる不運を不屈の意志で克服して行った香村園の村人たちは、困難を打ち勝つ新しい知恵も手にして、あらゆる面で自信を持つようになった。また、これからは農業より畜産にもっと目を向けるべきだという意見もたくさん出て来たため、これを実践するための準備も行ない始めた。
一九八〇年代を迎えると、香村園では他の定着村にならって畜産業へと転換する準備に追われた。家畜も最初に鶏数匹から始めて、今や百余匹へと増え、内実ある経営によってさらに千匹以上の規模へと拡大して行った。そして、そればかりではなく、豚と非肉牛も買い入れて本格的に畜産へと生業を転換させて行った。そして、そのように、これまでの農業にだけ依存した経済構造を畜産業へと転換すると、近隣の他地域よりも経済力で前に立てるようになった。現在も彼等は内実を期しながら、借金のない畜産業で所得増大を図っている。
角材を手にして対立していた近隣の住民たちとの不幸な関係から二十年が流れた今、経済的にも精神的にも彼等の前に立っている位置関係へと変わリ、また、それによって彼等との協力間係もこれと言った区別もなく行き来できるようになった。熱意と誠実さをもって生きて来た二十余年の生活は、決して平坦な道ではなかったが、今、彼等は神様からの祝福を受けながら楽園の中で生きている。
四十余名に至る中・高校生たちを熱意をもって教育している彼等は、自分の子供だけは誰にも増して立派に育て上げなければならないという情熱が非常に強い。
現在の村について一つ物足りないものと言えば、それはこれまで不遇な人生を生きて来た老人たちのための対策と施設がなく、今後それが大きな心配の種になると思われる点である。福祉国家を志向して行く当局の立場を考えると、彼等のために確実な生計支援策をもって保証してあげてほしいと願わずにいられなくなる.
香村園はそれまでの間、行政区域上、分洞(洞を分ける)になっていなかったために様々な不便を被っていたが、去る七月一日付で分洞昇格が認められ、それまでの問題点を解消して行ける目処がついた。村ではそれまで長い間、代表者として働いて来たキム・ジェソク長老が住民たちと円満な行政を行ない、まろやかな福祉村を培っている。また、定着当時から常に村人たちの指導者として奉仕して来た人たちも、引き続き全ての面で率先して先頭に立って働いている。健康な精神と誠実な生き方で築き上げた泥濘の中の福祉村、香村園がこれからもさらに発展し、神様の祝福を受けて行けるように願いながら文を結びたい。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]