南海高速道路に面した畜産前進基地 黎明農園
深い谷へ何もわからずに分け入った旅人が、空腹と疲労で死んだと伝えられている壮士谷。そこは行政区域上では、慶尚南道・ハマン郡・郡北面・慕老里に位置した黎明洞という所である。さわやかに伸びた南海高速道路の上を疾走する車がせわしなく行き交い、産業韓国の動脈としての威容を誇る道路の周辺には、黒い煙をもくもくと噴き出す中小規横の工場が林立している。わずか三十余年前まで、ここには裸山と倒れかかった草ぶき小屋くらいしかなかった。六・二五動乱(朝鮮戦争)により民心は荒れ果て、飢餓線上であえいでいた多くの人々は、希望を全て失い、生きる事に何の意味も見つけられない
まま、ただその日その日を無為に過ごすしかなかった。時折、聞こえて来る戦況は、我が軍の莫大な被害と南侵阻止線の度重なる変更であり、これによって混乱はさらに増大した。そんな中、壮士谷にやっ
て来た八名のハンセン氏病患友たちもひどく疲れきっていた。戦争と飢餓、そして、それにのしかかるような病の苦しみが覆いかぶさって、彼等は蘇生できない子葉のように、ますます首をうな垂れた。
*黎明農園の始まり
一九五二年七月の熱い太陽は、戦争にあえいだ大地を全て燃やしてしまうかのようにじりじりと照り付けていた。行けども行けどもその果てが見えず、ただ空だけしか見えないような小さくて狭い渓谷へやって来た八名の人々は草や木の根っこを食べながら生き長らえて行くしかなかった。そして、凄惨な姿で横になった彼等の口からは、疲れた嘆息だけが流れ出した。
しかし、そんな中でも彼等の引率者であったムン・ピルテ氏は違っていた。日本でたくさん勉強をし、世の中のあれこれをよく学んでいたために、彼等を慰労して激励してあげる術を心得ていた。神様から与えられた大切な命をむやみにできないと思った彼等は、暑さを避けるために天幕を張り、身を寄せられる場所を整えて行った。そして、雨露を凌げる場所を得た事で、彼等の中に新しい意欲が生じ始めた。まず、食生活を解決するため外部からの支援が必要となり、これを解決するための活動も積極的に繰り広げた。彼等を援助しようとかって出た所は「世界キリスト教奉仕会」で、その慶南地域の責任者であるキム・ビョンジョ氏が大きなカとなってくれた。支援された糧穀は、主に小麦粉と精麦で取るに
足らない物であったが、それでも当時としては立派な食料であり、集まって来るハンセン氏病患友たちにとってそれは唯一の乳腺であった。
八名が集まって成した小さな園は、わずか一年も過ぎないうちに数百名に適する大集団へと変わって行った。彼等はお互いに協力し合って、苦痛と喜びを一緒に分け合いながら毎日のように山地を耕し、サツマイモや麦など、食糧となるべき穀物を植えて行った。本当に悲惨な生活だったが、幸いにもキム・ダルチョン長老を中心として行なわれた信仰生活が村人にとって大きな慰めとなり、それまでの否定的な物の考え方を変えて行くためのよい契機にもなった。
病にかかった者を治療して貧しい者たちの友人となり一生を終えたイエス・キリストの愛と恩恵を身をもって体験した彼等は、全く別の生活観を抱きながら多くの同僚たちを引っ張って行った。
*陽性患友たちの移送と定着
一九五六年の春。二十余坪の木造の聖殿を建立し、神様の前に献げた彼等は、誠実な姿勢であらゆる仕事を処理して行き、安定を手にし始めた。その頃、当局では一九六一年からハンセン氏病管理事業の画期的な方策として定着事業を繰り広げ始めた。すなわち、治癒者たちは現地に定着させ自活基盤を構築するようにし、陽性(有菌)反応を見せた人たちは国公立病院へ移送して治療を行なうようにしたのだ。すると、二百余名いた住民たちがだんだんと減り始め、健康を取りもどした人々だけが現地に残り、全てが国立漆谷病院へ移送され治療を受けるようになった。
そして、健康を取リもどした人々だけが現地に残ってみると、どんな事でもやって行けるという自信感が生じるようになった。彼等は少しずつ集めたお金で田と畑を買い入れ、その土地に農作物を植え、情熱を込めて培って行った。四十余世帯に達した黎明農園は、一九六三年に十八世帯が近隣にある香村園へと分家して行き、わずか二十余世帯だけ残った。しかし、既に開墾しておいた土地を始めとして二万余坪にも達する広い農耕地を確保していたため、彼等は引き続き麦とサツマイモを中心に育てて所得を伸ばして行った。
*畜産業の始まり
いろいろな方向から所得を高めて行く方法を探ってみたが、農業だけではとても自分たちの手で食
糧を自給自足し、子供たちに教育を施す事はできなった。この時から彼等は、十余匹の鶏と数匹の豚を買い入れ飼育を始めた。そして、主業から得る所得より副業から得る所得の方が、もっと実がある事を発見した彼等は、さらに畜産規模を増やし始めた。十余匹の鶏が百余匹に増え、牛も一匹二匹ずつ増えるようになると、彼等は専門知識もないまま農業を後ろに下げて畜産にばかり専念するようになった。
小麦粉と麦糠で鵠を飼って卵を産ませ、所得を伸ばした黎明農園の村人は七〇年代後半までは大した困難もなく、順調に畜産をして行った。しかし、急に襲って来た疾病の流行によって数千匹の鶏を失ってしまうというひどい不幸に見まわれた。持っていた財産を失った彼等は嘆息して、再び絶望の淵に深く陥った。
しかし、その時に幸いだったのは、借金を抱えていなかったために、彼らは再び豚を一、二匹ずつ購入して新しい出発をし出した。そして、鶏舎を豚小屋に作り変えて、農場に豚を増やし始めた。一九七九年が近付く頃までは、一家屋当たり四、五匹の母豚を確保していて、産まれた子豚を売りながら所得を上げて行った。
しかし、一九七九年に起こった養豚波動によって、再び泥沼の中に陥ると、石首魚一匹より安い価格で子豚が売られ、飼料の値段ももどらない程の苦痛を受けた。けれども、他の村が豚を売り払って養豚業を整理する段階にまで追いつめられても、黎明農園の住民たちは然々と豚の飼育を行なって大きな損害を減らして行った。
*畜産業の拡張と所得増大
その後、一九八〇年になると畜産業は活気を帯び始め、これによって黎明農園も大きく発展するようになった。特に、アン・ウェチャン、ウォン・ドンジン、チェ・ヨンファン氏などの若い人達が、自ら先頭に立って畜産経営に関する知識を伝授し、外部の人達との多角的な接触を通して低利の営農資金、
・育産奨励金などの貸し出しを受けながら、畜産規横を伸ばして行った。特に南海高速道路の開通で馬山と晋州が三十分代に縮まり、産物に関する流通が円滑になった。このように広がって行った畜産規模は、今年で豚三千余頭、養鶏三方匹、非肉牛百余頭にも及ぶようになり、今後とも見くぴれない規横へと発展して行く事だろう。五十人世帯、二百十九名の農場の人々が毎月畜産のために消費する消費量は二百五十トン程度で、毎月増加傾向にある。また、豚の出荷も自治組合を通して系統出荷されており、商人たちとも円満な取り引きをしている。流通上、今までこれといって大きな問題はなかったが、外商(後払い)買入によって農場の債務を抱いている商人たちがいて、それがソウル近郊と多くの差を見せている。これを解決するために村の指導者たちが、プサンの道畜場へ直接出荷できるようにと努力しているが、まだ利害打算を充分に検討できない段階にある。
*深く根を下した敬老思想
黎明農園はまだ若い層が多い方だが、老人たちが占める割合も高い。そのため六十余名に達する六十才以上の老人たちが何を望み願っているのかをよく理解している指導者たちは、透徹した使命感によって彼等の余生を世話している。農場の歴史が長いように老人の数も多いのだが、他のどの村よりも和やかな雰囲気を成している。特に古老たちの政治的な干渉が全く見られない黎明農場では、若い層が心おきなく働けるようにと、老人たちが常に轟から積極的に支援をしている。
しかし、最近問題となっているのは、当局による自宅保護対象者が少なくなったにもかかわらず養老施設がないために、当然受けるべき恩恵が充分に行き届かず、老人たちの苦痛と経済的な困難が増している。当局では他の地域の養老施設を使用するようにと勧めているのだが、当事者たちはたとえ飢えて
死んでも今の場所は離れられないと言っている。真心のこもった暖かな情感を与えてくれる故郷は決して捨てられないというのが彼等の心情であり、強い願いなのである。社会福祉次元から支援される予算を受患者たちが正しく理解して、一様に恩恵を受けられるように共同努力を研究して行く姿勢が今切実に求めらていると言えよう。
*発展可能性の高い地域
現在、黎明農園が抱えている土地は数万坪に達しており、また、南海高速道路に直接乗り入れられる道も近年になって作られた。これまで三十余年の間、ただの深い山奥とだけ思われていた黎明農園が、今後さらに発展して行くための条件は無限に備わっている。農工団地の指定と中小企業の誘致、畜産施設の拡充などは誰もが望んでいる事であるが、黎明農園はそのような夢の実現を今、目の前にしている。全国的に不動産価格が連日暴騰する趨勢にあるため、充分に投資価値がある所として将来の発展が見込いているのだ。今後、その広い大地に見合う畜産場を活用して行くならば、村人の所得と生活安定は確固としたものとなって行くだろうと思われる。京仁圏や中部圏にある村と比べて不充分な点も多いが、全村民が一つに結束して明るく明朗な時代を引っ張って行く黎明農園として、今後も充実した繁栄がある事を心から願う。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]