ビトリの痛みを踏み越えて立つ 永福農園
白く弾ける波と点々と広がる島々が一つの絵のように美しい景観を成している三千浦市。そこは忠武公、李舜臣将軍が倭軍をせん滅するために戦略の要塞をこしらえた所でもある。任乱の鎮魂が今だにあちらこちらに鮮やかに秘められている三千浦市は、昔の痛みを忘れて、今は平和な漁港として発展して行っている。せわしなく霧笛を鳴らせながら漁船が列を成して蒼洩をかき分けて行き、海風にあえぐ老松が水の上に長く影を落としている海岸線の景観は他では見る事ができないくらい美しい。その自然の美と現代文明が理想的な調和を成している三千浦市から、北西の方向へ海岸線に従って登って行くと、切り立った傾斜の上にぎっしりと畜舎群が立ち並んだ永福農園を目にする事ができる。たとえ古ぼけて見えても、きれいに整えられた村の姿は、新しい変化と発展のために熱心に働く村人たちの躍動感を伝えてくれる。
*永福農園の始まり
しかし、今日ある永福農園の姿に至るまでには、五十余年に近い長い歴史があった。日帝の植民地という悲しみの中で韓民族に対する迫害が極に達していた頃、飢餓線上であえぎながら生きていた多くの人々は、各種の伝染病と風土病のため、さらに苦しめられていた。その中には思いがけずハンセン氏病にかかり病に苦しみながらも、明らかな治療方法がわからなかったために、流浪して生きて行かなくてはならなかった人々もたくさんいた。彼等は人跡とぽしい奥地で同病相燐によって、一カ所に固まって生きて行くしかなかった。
永福農園が位置する三千浦市・シルマ洞にハンセン氏病患友たちが始めてやって釆たのは、八・一五解放を前後とした時期であったと記憶する人々が多い。十余名が一軒の空き家に住みながら近隣の山野と畑(家の敷地内にある菜園)などを耕し始めたのが、永福農園の始まりだったという。彼等は困難でつらい境遇であったにもかかわらず、一般の人達の目線を避けながら全員が一つになって生計対策を整える事だけが最善の方法だと考えて、可能な限りたくさんの土地を耕し、サツマイモや麦などの糧食を植えて行った。しかし、傾斜がひどい山地を開墾して作物を育てて行く仕事は手易い事ではなかった。さらに、彼等が一カ所に集まって生活しているという噂が広まると、近桃を徘徊していた多くの患友たちも集まり始め、日がたつにつれてその狭い土地に人々が増えて行った。
*ビトリ事件
だんだんと人々が集まり、その数が増えて行く事に耐えられなくなった彼等は、ホ・マンゲ氏を
中心とした健康な人々を中心に対策委員会を構成した。そして、指導者に選ばれたホ・マンゲ氏は、自
分がよく知っているビトリという所に日本人らが捨てて行った土地があるので開拓してみようという意見を提示し、そこに第二の農場を設置しようという夢を広げるようになった。
一九五入年八月、赤々とした暴炎の中をついて、五十余名の健康な青年たちがビトリという未知の土地に向けて帆を上げた。永福農園から船で四十余分、彼等が到着したビトリは、旧約聖書に出てくるカナンの他のような所だった。そして、肥沃な土地に生い茂った樹木を目にした時、彼等は神様に対して涙を流しながら感謝の祈りを捧げた。そして、彼等は準備して来た天幕を建て、飯を作る準備をした。だが、黒い煙がもくもくと起こりかけた頃、険悪な表情を浮かべて近隣の村の住民たちが拳を掘りしめて押し寄せて来た。最初は指導者の何人かと話し合いをして、ここを離れなければそのままにはしておかないぞ」という最後通牒を残して去って行った。
しかし、やっと到達した土地に対する青い夢を、そのまま放棄する事はできなかった。彼等はまた再び住民たちが集まって来たら、よく言い聞かせてやればよいのだと言って、開墾に着手する事にした。そうしたら仕事が始まって一時間も過ぎないうちに、数百名に達する住民たちが、今度は手に棒と凶器を持って押し寄せて来た。怖じ気づいた彼等は後退りしながら撤収しようとする意志表示を見せたが、住民たちは怒った猛獣のようになってがんとして聞き入れず走り出した。彼等が住民たちに立ち向かって行ける武器は何もなく、全てをひったくって残りの天幕の中へ身を避けると、住民たちはその天幕の支柱を倒して、竹槍、鉄の熊手、鍬などでやたらめったら突き刺して行った。そして、そこは瞬く間に悲鳴と血の修羅場と化した。限定された紙面に全てを記述する事はできないが、住民たちの理性を失った蛮行により、この時、二十八名の患友が殺害された。
憤怒と悲嘆に染まったこの日の事件は、新聞と放送を通して各地域へ伝えられたが、事件内容の報道が正確性を失った推測報道に留まったため、その真相は充分に明らかにされなかった。そして、この事件に対する真相と残忍無道な殺人者たちに対する法的な処罰などは厳しくなされないまま、序々に歴史の一ページヘと埋もれようとしている。その残忍で悲惨な出来事はいつの日にか必ず再照明され、まだ生存してその当時の悪夢を忘れずに生きている彼等の心を少しでも慰めてあげなくてはならない。
*新しい定着と出発
捨てられた遊休地を開拓して自立しようした意志が大変な事件によって挫折させられた永福農園は、その後、一九六〇年代に入ってから新しい変化を迎えた。当局からの支援の下、ハンセン氏病から治癒した住民たちだけを現地に残し、陽性反応を見せた人々は全て国公立療養所へ移送された。一生懸命に努力して堂々と生きて行こうという固い意志を持って、彼等は自立できる対策を整えるため熱心に働き始めた。時には失敗や落胆を味わう事もあったが、当局からの支援を受けながら農業はもちろんの事、畜産も行なって所得基盤を固めて行った。
そんなある日、同僚たちの惨事の現場に教会が建てられるという知らせが伝わって来た。当時、九死に一生を得て生き残ったチョン・ゲヒョン長老を始めとした現地開発参与者たちは、「敵を愛しなさい」というイエス・キリストの戒めを守るために涙を流しながら祈り、真心を込めて献金をし、そして、ビトリ教会の創設に至ったのだった。彼等にとってそこは二度と目にしたくない場所だったが、当時の出来事を思い起こしたら、憤怒と鬱憤が突き上げて来て、先に逝った同僚たちの恨みの声までもが聞こて来るようだった。しかし、彼等は神様の摂理と愛の前に従順に膝まずき、堪え切れずに溢れて来る涙をふきながら罪人たちを許し愛する時間を持った。
*畜産で所得向上
永福農園は一九八〇年に近付くと、他の農場の例にならって本格的な畜産を始めた。現在、四万余匹にも達する産卵鶏と二百余頭の豚がいるが、彼等にとってこれらは未来への希望と生活の全般がかかった大切な土壌である。五十五世帯、百九十五名の村人たちが持つ財産としては取るに足らない量であるが、毎日少しずつ増えて行く家畜を眺めながら自立できる条件をこつこつと備えて行っている。しかし、地域的な条件上、その畜産にもいろいろな困難が伴っている。六万余名以上の人口が密集した三千浦市に隣接しているのに、畜産物が全て外部の商人たちによって晋州や馬山などへ持って行かれてしまうために正当な価格を受けられずにいる。また、自給カが不足しているため三カ月を越える外商(後払い)購入によって飼料を持って来ているが、そのために被る目に見えない損害が一つや二つではない。現在、国内畜産業界の実態を考えれば、他の地域の農場と畜産業者たちに追い付くための対策は全くない状態で、競争力は日を追うごとに遅れを取って行っている。
*海洋資源開発の必要
永福農園は海に面しており、その豊かな地理的条件によって海水面を利用した水産業への転換が今、切実に求められているが、資金力と経験不足のため簡単には実現できない立場にある。既に他の地域に住む人々が永福農園前の海浜を占有し、貝類の養殖などで高所得を上げているが、永福農園の住民たちがこのような事業を行なえないでいるのは本当に残念である。しかし、技術力がなく資本カの裏付けもない実情を感案すれば当然であるともいえる。指導者を中心にして住民たちが強い意志と推進力を持って、研究し対策を立てて行くならば道が開けるものと展望されるが、今度の機会を利用して強く求めたい心情である。
*宿願の事業
現在、永福農園が占めている面積は、畑一万八千坪、林野一万六千坪、大地二千坪、田七千坪で、その大部分が個人的に苦労して買い入れた物である。しかし、彼等は自分の財産権を行使できずにいる。その理由は全ての土地が財団法人の財産に帰属しているためである。過去、困難な境遇の中でも、彼等は援助機関からの支援に備えるために、数人の社会事業家たちが中心になって財団法人を構成して援助を受けて来たが、この時、基本的財産を手得するために個人財産を相互了解の下、法人財産に帰属させたという。その後、外からの援助が中断され、財団法人の必要がなくなったので、これを解体しようと指導者たちが努力しているが、関連法規に引っかかってそれが成されずにいる。また、ここは緑地帯(グリーンベルト)に指定されているため開発に制限を受けており、畜産拡張や居住地改造をしようにも相当な困難を経ているので、このような問題が解消され緩和される事を村人たちは首を長くして待っているが、その実現はなかなか難しいようだ。しかし、代表者であるイム・ジョンナム氏を始めとして農場指導者たちが熱心に仕事を進めているため、諸般の問題が解消される日もそう遠くはないであろう。今、側面からの支援が切実に求められている。
過去の試練を踏み越え、情熱を込めて新しい生き方を開拓して来た永福農園が、一日も早く自立した農場として発展し、豊かな人生を築いて行けるように心から願う。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]