不運を踏み越えて歩む 永湖農場
月出山の奇岩怪石と欝蒼とした松林が目に鮮かな全羅南道・霊岩郡・都浦面・永湖里。一九六七年五月十八日、定着準備のために一部何世帯かの人々が入居し始めると、丘陵に面した荒地は新しく生まれ変わって行った。早朝よりシャベルと鍬を手にした彼等は疲れる事も知らずに、与えられた土地を自分たちの土地とするために熱心に耕した。比較的健康な人々で構成された長老派教会(プロテスタント系)人十世帯と天主教(カトリック系)人十世帯が定着して来たのは、それから満一年が過ぎてからだった。
木の根を伐り出し、黄土ばかりの痩せ細った土地を掘り返し農作物を植えると、やがて捨てられていた荒地から青々とした麦の葉が伸びて来て、彼等は神様が与えて下さった愛に対して感謝の祈りを捧げた。それから狭い農地を効果的に利用するために、彼等はあちらこちらに桑の木を植えて耕し養蚕も始めた。そして、蜜蜂のように熱心に働いた成果が、やがて一つ二つと実を結んで行った。畑や田んぽからは量は少なくとも日々の糧食を得る事ができるようになり、また、養蚕によって少しずつ小銭を集めながら生きて行く余裕も生れて来た。いくらかの小銭が集まると、彼等はそれでヒヨコを購入し卵を生産し出した。そして、それによってさらにたくさんの金が集まると、今度は子豚を買い入れた。そのように数が増えて行くにつれて仕事にも面白味が出て釆て、村人たちは疲れる事も知らずに働いた。その後、小鹿島からだんだんとたくさんの人々がやって来るようになり、農場の規模もしだいに大きくなって行った。主日は教会と公所(聖堂)で神様に仕えながら感謝の祈りを捧げた。
やがて、畜産業へだんだんと転換し始めた彼等は、一九七七年から本格的に畜舎を建築し、肉牛を導入し始めた。ちょうどその頃は、肉牛の市価が日増しに上がっていた時期で、それまで土地だけ耕して少ない所得しか上げられなかった頃と比べると、比較にならないくらい大きな所得を得られるようになったため、それによって村人たちの生活にも序々に余裕が生まれ始めた。最初は牛一頭で始めたが、それが、やがて十余匹に増えて行った。そして、このような永湖農場の成功事例は方々に広まり、当局も関心を持って支援してくれるようになった。三度の食事を食い繋いで行く事さえ難しかった部落が、今では湖南地方第一の富農たちが集まる村として知られるようになり、一九八二年には所得増大の模範部落として大統領から表彰されるという栄光まで手にした。そして、このような出来事を日刊紙が先を争って報道したため、それがさらに全国の耳目を集める結果となり、全羅南道各地域のセマウル指導者たちが郡単位で何人かずつグループを組んで、バスを連ねて見学しに来たりもした。
肉牛の養育で自情を得た住民たちは村に集まって農地に助飼料として使える作物を栽培し、可能な限り資本を導入して牛の数を増やして行った。非肉牛の増殖によって所得を高めているという知らせが広まると、今度は各定着村の指導者たちや京畿道一円などからも、外部での成功事例を収集しようとしてしばしばこの村を訪ねて来た。
肉牛増殖を専業として営んで行く事に転換した村人たちは、それまでの信用を基にして農協を通した融資を利用し、社債によって企業化する事を計画し始めた。また、当局の勧誘によって村落構造改善事業も行なって、住宅と畜舎を分離し、理想的な農場へと構造を転換させて行った。また、一方ではこのような量的な膨張が続くにつれて、これに比例するように公憤の規模も大きくなって行った.しかし、それが彼等の心配の種となる事はなかった。借金を抱えてはいたが、牛価が引き続き上昇傾向を維持していたために、一家屋当たり二十余匹ずつの非肉牛を飼っていても、いつもしっかりとしていた。村では大きな畜舎と新しく建てられたスラブ洋屋が広がり、一目でこの村の豊かさを知る事ができた。
しかし、このような広々とした道が走っていた永湖農場に、一九八三年の初めになって黒雲が覆い始めた。全国的な畜産不況に加えて非肉牛飼育農家が増えた事によって牛価が下落し始めたのだ。そして、牛価が一度落ち出すと一月過ぎても、二月過ぎても回復するきざしさえなく落ち続け、六カ月後には購入価格の半分にも満たない状態にまで下落してしまった。「まさか。少したてば回復するだろう」と思っていた村人たちも、だんだんと不安に包まれ出した。牛価が落ちると今度は、各家庭ごとに二十余匹ずついた牛たちの飼料が深刻な問題として台頭し始めた。そればかりでない。借金をしてまで購入した牛が、原価の半分にも満たない状態に陥ってもどこへも訴える事はできなかった。
このような状況を予測していたならば、牛価が落ち始めた時に少し損害を被ったとしても全て売ってしまっておけばよかったものだが、当時の畜産当局は大勢の流れも読む事もせずに、連日マスコミを通して「そのうち回復するだろう」と言って、農民たちを安心させていたという。彼等を指して、空しい欲を弄した罰だと誰が非難できるだろうか。熱心に、そして誠実に生きようと努力して来ただけなのに、ある日突然、瞬く間に不運に見まわれたのだ。
現在、永湖農場の六十一世帯が抱えている負債は、約十億余ウォンになるという。なぜそうなったかと言えば、社債に公憤の連帯利子まで累積し、飼料代が続けて借金として残っているためである。さらに大変な事は、一九八二年度の借金で子牛を購入した時は百余万ウォンだったのに、今年は二十五万ウォンと四分の一の価格にまで滞っていて、負債の圧迫は二重三重に重なっている。
あらゆる方法を使って当局に訴えかけ、自分たちの悩みを吐露しても、解決の道は見えて来ず、ただ呆然とするばかりだった永湖農場二百四十余名の村人は、生きる意欲をすっかり失い溜め息をつく毎日を送っていたが、その一方では、何人かの指導者たちが、会う人ごとにこの間題を訴えて協力を求めるという事もしていた。
「牛をたくさん飼っていた人はたくさん死に、少なく飼っていた人は少なく死んだ」と不平をこぽす農場長のパク・ジョンイル長老は、「このような機会を通して神様に心から祈れるようになって、むしろ信仰には有益になった」とも語りながら、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴に入る事よりも難しい」という聖書の言葉を呟いて、自らを慰めていた。今や売る事も食う事もできない非肉牛千三百頭と豚二千二百頭、鶏七万匹が農場全体の所得源になっているが、現在、村では五十余名の中・高校生と大学生の学費を賄う問題も深刻になっているという。
しかし、暗たんとした境遇にあっても農場長のパク・ジョンイル長老を始めとして、ユ・インゴル総務、キム・ソンリョン開発委員長、クッ・ジョンシル音産組合長などの指導者たちが村人を励まし、最善を尽くしている姿を見ていると遠からず解決の糸口が見えて来るようにと願わずにはいられなくなった。プロテスタント四十一世帯、カトリック十六世帯がこれといった摩擦もなく、手を取り合って神様に仕えながら生きて行く永湖農場の将来は、暗たんとしたものであるばかりではないだろう。弱き者をいつも憐れんで下さる神様は、さらに豊かな日々を彼等の未来に準備して下さっているのかもしれないからだ。神様と向かい合う強い信仰と、一つを半分に分け合って節約するような勤勉な生活を送れば、問題はやがて一つ二つと解消されて行くだろう。また、行政当局の方でも他の地域になぞらえて、必要かつ適切な対策を早急に整えて、村人の士気を鼓舞するような努力をしてくれる事を期待する。
[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]