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金吾農場

全羅北道・北西地域の核 金吾農場

全羅北道の道庁所在地である全州市から北西の方角へ十km程行くと、全国定着村の中で最も安定した村と言える金吾農場に至る。
参礼から王宮へと至る国道をはさんで益山農場と相対している金吾農場は、定着当初は益山農場に属する小さな農村にすぎなかった。
一九七一年の春、小鹿島を出た十世帯の人々は引っ越しの費用さえ事欠くほど経済力の乏しい者が大半を占め、また、世間知らずなため別に用もない物を引っ越し荷物の中に詰め込み、無駄なお金ばかり使ってしまう人も何人かいた。
しかし、そのように彼等は二次、三次にかけて段階的な定着をしながらも、心の中では皆しっかりとした目的意識を持っていた。
当時はまだハンセン氏病に対する当局の施策が右に左に揺れ動いていた時期で、子女たちと一緒に生活できないように法制化がされると、彼等は小鹿島にそのまま留まっているという事が何か天倫に背いてでもいるかのような圧迫感を抱かざるをえなくなった。
だが、子女たちを正しく教育し高等教育を受けさせてあげたい、という父母の願いが、永遠に離れる事はないだろうと思っていた場所を離れさせ、見知らぬ土地へ移住する冒険を行なわせるに至った。最初、彼等がここに移住して来た時には当局からの支援もあるにはあったのだが、自分たちの持ち物と言ったら健康な肉体の他に何もなかったため、近隣の農家を転々としながら日雇い労働をして生活を賄って行くしかなかった。当局から与えられた狭い土地を耕し、別にこれといった所得もないままサツマイモや唐辛子を育てて市場に出荷していたが、いつも腰ひもをきつく締めつけながら、空きっ腹を我慢しなければならないような苦難の歳月を送った。
他の定着村では生計手段として養鶏を営む事業が本格化していた頃、数名の村人がこれを試みてみたが、困難が多くて失敗してばかりいた。
そして、はっきりした所得源を見つけられないまま不安な日々を送っていた金吾農場の村人たちはサツマイモや唐辛子を出荷しながらわずかな収入を得て、この資金によって養豚施設を作り、それから定着当初から一人当たり五千ウォンずつ出資して貯めていた畜産組合の信用貸し付け融資を受けながら養豚事業を行ない始めた。
一九七三年、小鹿島から百三十余家屋が第二次定着としてやって来ると、村の人口もかなり増えたため、互いに情報と知識を交換しながら豚の飼育頭数を伸ばして行く事にした。
どの定着村でも同じだが、ここに定着した人々も人並みはずれた努力と知恵によって所得を高めて行き、節約を身をもって実践して行った。
当初は金吾農場の事を軽んじていた近隣地域も、そのうちだんだんと関心を持ち始め、行政当局も積極的に支援をしてくれるようになった。
しかし、一九七九年の春になって、それまで堅固な道を走っていたのに、突然、致命的な豚価の暴落が全国を襲ったため、ある所では数万ウォンで購入した豚がわずか数千ウォンにも満たない価格で売り飛ばされ、また、ある農家では親豚が子豚を産んだので土に埋めてしまったという例まで起こったという。金吾農場の場合も天が崩れ落ちるような衝撃を受け、これまで少しずつ築いて来た安定基盤が一気に突き崩されたような気分に覆われ、村人は皆、気を落とした。
しかし、神様は彼等を寂しく置き去りにはして置かなかった。
かなり前から畜産景気の流れを読む事を知っていた金吾畜産組合のムン・セチャン組合長が冒険的な政策を繰り広げる決定を下した。
他の機関では畜産景気の不況と養豚暴落によって経営体制が崩れるやいなや、放出資金をすぐに回収し始めたが、金吾畜産組合では信用貸し付けを最大限に利用して、豚を数頭しか持っていなかった村人にまで組合資金でもって子豚を一匹あたり五百ウォンずつ買い取ってあげて飼育を奨励して行った。
始めは豚の購入問題よりも飼育代金の方が心配だったが、それも飼料会社と最大限に意見を取り交しながら、飼育家たちにこれといった不便を感じさせないようにするために最善を尽くした。
それはこれまで資金不足のために多くの豚を購入できず飼育能力のなかった彼等にとっては意欲的に働くための契機になったかもしれないが、その一方で豚価暴落によって価格さえ適正に維持できなくなったため、今度は飼料価格が村人にとっては大きな心配の種になった。
しかし、彼等は若い組合長のムン・セチャン氏を信じた。それまで彼の秀い出た努力と手腕をよく見て来たし、また、定着当初から組合を運営して来た彼を心から信頼していたのだ。
また、彼等は自分たちを助けてくれる神様のご加護を信じていた。そして、神様に懇願してお祈りを続けた。
やがて夏が訪れ、蒸し暑さ中へ豚価暴落の波紋がようやく消えて行く頃、朴大統領殺害事件によって我が国の経済はまた再び困難に直面した。政局の不安定と輸出の減少によって国内経済がさらに苦境に陥って行ったその時の状況を考えると、当時の景気は全く良くなかった。
年が変わり一九八〇年代に入ると、幸いにも養豚景気は急速に回復し始めた。
何事もはっきりと把握できない状態の中で溜まり始めた飼料の値段、及び防疫費用が、村人たちにとって少なからぬ負担となり、時には不安にもなったが、これを精神的に上手に克服し節約して行ったおかげで、一家屋当たり数十匹、その内実は数百匹の豚に増えて行き、村をぎっしり埋めつくした。
当局の豚肉消費宣伝と零細農家の飼育頭数の減少によって豚の値段は序々に回復し出したため、また例年の市勢を維持して行くようになり、やがて彼等の所有していた豚は大きな財産となって行った。
金吾農場が難しい状況に陥ってもこのように成功できた原因は、有能な指導者を中心にして確信を持ってカを合わせて行った事による。また、その一方では、いろいろな定着村の成功事例と失敗要因を適切に分析して、指導者が力強い推進力を発挿できるように裏から支援した元老たちの功労を看過してはならない。些細な権力争いに熱中してお互いを愛する事を忘れ、停滞状態から抜け出せずにいる他の村々にとっては良い見本であると言っても過言ではあるまい。
歴代金吾農場の指導者の中には、たくさんの自己犠牲を払って農場の発展を図った者もおり、そのような先輩たちが築いた発展の芽に対してパク・ミョンウン農場長は胸を張って語る。
去る七十九年の豚価暴落以後、引き続く好景気の中で自続的に所得を伸ばして来たおかげで豚の飼育頭数が今年は約二万頭に達したという。これは金吾農場の二百三十五世帯が一様に九十余頭程度ずつ保有している数値である。
また、養鶏の授受も二十万匹という少なくない数に達している。そのため、多くの家畜が食べる飼料だけでも月千トンもするので、各飼料会社が金吾農場で繰り広げる販売競争も必然的に大変なものとなる。
現在、ソウルに本社を置いている「S配合飼料」と大田に本社がある「W飼料」の競争が熾烈だが、
金吾農場と長く緑を結んでいる「S配合飼料」が優勢なようだと組合関係者は言う。
このような安定基盤の上に立ちながらも金吾農場が抱えている困難な問題は、畜産物の糞尿を処理する施設がないという事である。
それまでの好景気にカを得て、負債を償還し畜舎も新築したが、大規横な畜舎が密接した地域から出る畜産物の糞尿を処理できる施設を備えるにはまだ不充分な状態である。
パク・ミョンウン農場長を始めとした指導者たちがその間、当局と断続的に接触を行なって来てはいるが、今だに気前の良い返事が聞けない状態であるという。それでも金吾農場としては、たとえ当局からの支援が少なくても、完璧な施設を整える方針である。
子女たちの教育問題を第一の課題として定着した彼等は、十余年ぶりに経済的な安定を手にしたため、これからは老弱な人々のための養老施設も備えて必要適切な運営を行おうと努力している。
十余万坪の大地の上で一緒に生活している二百三十五世帯、七百五十令名の村人は、誠実な生き方と根気強く積み上げた信用によって近隣地域からも受け入れられている。
その昔、金吾農場の人々を雇っていた近隣の住民たちが、今では逆に金吾農場から雇われて働いており、お互いに深い友愛を分けあっている。
また、ここは益山農場、新村農場、上智農場とともに全羅北道・北西地域の発展を主導して行っている所でもある。
交通上から見ると、イリ市、全州市が村から車で二十分の距離にあり、群山市が三十分、また大田市、光州市が一時間の距離にあって、ここの発展はこれから加速化されて行くだろうと思われる。
一九八五年に六千五百余万ウォンの予算をかけて着工した村の会館を中心にして、忙しく出入りする飼料運搬車両と活気に満ちて働く村人たちが良い調和を成している金吾農場は、全国の定着村の中で最も短い期間内に平均所得を最大限に伸ばした所として、各地の定着村の指導者たちがよく足を向ける。
組合の予算を最大に活用する事ができて、かつ畜産に対する意欲さえあればいつでも容易にその援助を受けられるという組合運用体系。そして、適正値以上の資本を除外した利益金を毎月決算し配当する事によって、組合員たちに最大の利益を配分しているという組合関係者の説明は、他の定着村の畜産組合の指導者たちも関心を持って耳を傾けるべき言葉であると思う。
「団結すれば生き、離れれば死ぬ」という李承晩博士の言葉通り、彼等は良く一致団結しており、率
先して助け合っている。また、指導者たちもそのほとんどが献身的であり、奉仕的である。
そうであるから村人は指導者に従い、最大限に協力している。
それまで金吾農場の結束を支えて釆たある指導者は、「いつもひ弱で金もなく貧しい人のそばで働いていながらも、その一方で経済力がしっかりとした人からの批判もきちんと受けて来た事が、農場の和合を支える上で良い武器になった」と語る。
定着村の枠を越えて跳躍している金吾農場は、これからも経済、文化、福祉の面で最も先を進む地域として発展して行くものと思う。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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