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新村農場

経済的自立を夢見る 新村農場

全羅北道の西北に位置する益山郡・王宮面はもともと馬韓の領土であったが、朝鮮朝太宗の時から、現在の益山郡と称されるようになった。この地域は昔から肥沃な益山平野から生産される農産物によって豊かな農耕文化を培って来たが、現在は果樹園と畜産団地へとその姿をだんだん変えて行っている。
湖南高速道路をイリ・インターチェンジで抜けて八km余り南西の方角へ走ると、まもなく全体が無数の畜舎で覆われている村に至る。ここにハンセン氏病の患友たちがやって来たきっかけは、今から四十余年前に全羅道を俳回していた一部のハンセン氏病患友たちが人里離れたこの土地に掘っ立て小屋を建て生消し始めた事に始まる。
一九五〇年、政府はその当時ハンセン氏病患者を治療できる施設が極めて不足していた状態に対処するため、ここに国立益山病院を建設し、ハンセン氏病に苦しみながら治療さえ充分に受けられないでいた患者たちを収容して、病気が完治するまで世話をする事にした。当時、ハンセン氏病患者たちも病を治療できる適切な所がなくて困っていたので、国立益山病院ができてからは、全国に散らばっていた多くのハンセン氏病患者たちが集まり始めたが、収容施設が不充分だったため一端疾病が完治した患者たちに対しては陰性証明書を発給して社会復帰を促すようにした。そして、病院を出たハンセン氏病快復者たちは、それぞれ望郷の念を抱きながら故郷の懐へと帰ったのだが、喜んで迎えてくれる人は一人もなく、周囲の冷たい目線と冷遇によって、また再び当て所のない彷徨に戻る人々が大部分だった。
当時、政府は病院から退院した陰性患者に対しては、その保護対策を全く行なわなかったため、彼等は飢えと寒さにあえいだあげく、結局、政府の恩恵を受けようとして一人二人と、また病院へ舞い戻って来るようになった。

*益山病院待機所から新村農場出発
このようにして集まったハンセン氏病快復者たちを、病院側では既に病気が完治した状態なため再び入院させる事はできなかったが、百名にも上る行くあてのない彼等のために益山病院の待機所に臨時に置かせてあげる事にした。その後、益山病院が閉鎖されると彼等は待機所のある場所に陣を取って生活をし始めたが、そこからこの新村農場の歴史は始まった。
大部分の定着村は政府、または各種団体からわずかばかりの定着金や土地・住宅などの支援を受けながら生活の基盤を整えて行ったが、新村農場だけは唯一、国家からどんな名目の支援も恩恵も一切受けられず、自力で定着しなければならなかった。彼等にとって最も苦痛だったのは、寒さをしのげる場所がなかった事と、一日の食事さえままならないような生活苦だった。このような事情を知ったある宗教団体が一時的に送ってくれる小麦粉などもあるにはあったが、生計を繋いで行くにはとても足りない分量だったため、村人は草の根っこや木の皮を食べるような思持ちで延命しなければならない程の悲惨な生涌を送った。

*自活定着のためのもがき
農場の住民たちの持ち物と言ったら二十代、三十代の血気盛んな若者たちだけで、充分な労働力を備えている以外には、全てが劣悪な状況だった。だからと言って、このままじっとしてばかりもしていられなかった。村人はまず農作物を育てるための土地を開墾しようと、シャベルと鍬をつかんで作業を始めた。汗水を流して全村民が毎日のように傾斜をなした土地を開墾して行き、不自由な体をお互いに励まし合いながら、いつか必ず自活基盤を築いて行くぞという強い意欲を燃やした。
新村農場の村人は隣にある益山農場が、早くから畜産業を始め、経済的に余裕のある生活をする姿を見てたくさん刺激を受けていたため、村人の中でも若い者たちは畜舎を建てて家畜を購入するために、仕事の種を求めて近隣の村へ出て賃労働を行なう者もいた。農場での雑事が重なると彼等は昼夜を分たずによく仕事をした。

*生業である畜産業の始まり
このようにして得た資金よって一坪二坪ずつ、だんだんと土地を増やして行き、新しい敷地を手に
入れるようになった。そして、その土地に畜舎を建て家音を購入したが、家畜に食べさせる飼料もなかったため、近隣の部落からミルキウルや米糠などを購入して豚や鳥などを飼育して行った。新村農場の村人はこのように難関を決して放棄せず最後までやり遂げる決意をもって問題を克服して行くうちに、だんだんと村全体にも活カが満ちあふれて来るようになった。
そして、そのようにして根張り強く働いた結果、現在では養鶏が四万五千匹、養豚が二千八百頭の規模にまで拡張させる事ができた。幸い生産された畜産物は王宮信用組合を通して系統出荷をしているため、出荷価格には別段問題もなく正常な価格を受ける事ができた。しかし、彼等には生産性を向上させる飼育管理や疾病を予防する知識を習得する機会が不充分で、先に畜産を始めた隣の益山農場から見聞きした物がその全てにすぎなかった。したがって、養豚飼育の知識と経験がなかった頃には、子豚にコレラ・ワクチンをたった一回接種すれば一生免疫が付くといった間違った知識を信じたために、ひどい被害を被ったり、心の痛む思いも経験したりした。今になって考えれば、はるか遠い昔話としておかしくもあるのだが、その当時は村人にとって大事件であった。
最近では、幸いにも飼料業者、動物薬品業者、獣医などの各種セミナーを通して畜産情報を入手して、正しく皇宮な知識を持つようになった。そのためこの頃は、非肉牛を出荷させる時には背中の脂肪の厚さが薄くて精肉量が多い優秀な品質の豚肉を生産して、より高い所得を上げるために種畜場の品質が秀でた母豚を購入するなど、競争力のある非肉豚の生産に大きな意欲を見せている。

*飽和状態の農場敷地
このような村人たちの意欲に支えられている新村農場で一つ気掛かりない点は、現在、村ではそれ今まで培って来た畜産技術を基にして飼育施設を確保しようとしているのだが、敷地の購入問題で困難に直面している。それによって村人が畜産に対する意欲を失いはしないかという事である。現在、七十六世帯、二百六十五名の人々が生活している新村農場の土地面積は、二十六世帯、百六十余名が生活していた定着当初から大きく増えた事がなかったため、今では飽和状態になっている。そのため、村人は畜舎を増やすのはおろか、住宅の敷地を得るのも難しい状況で、このままでは天職と思ってがんばって来た畜産業も放棄するしかないという深刻な事態にならないともかぎらない。それまで近隣の私有地取得のために関係当局へ支援要請もしてみたのだが、農場で必要とする土地が農耕地として登録されているため指定変更が難しいという返事が返って来るばかりだという。

*条件さえ整えば経済的急成長も可能
新村農場の村人は、他のどの農場よりも堅固な自立の意志と誠実な姿勢を持っていて、条件さえ整えば経済的な急成長の可能性も秘めている農場であると言われている。たとえ、現在は居住地と畜舎が混在する副業規模の形態を抜け出せずにいても、これをもう少し発展させて行けば、居住地と畜舎を良くして堂々とした生活空間を備えられるようになるという確固とした信念を胸いっぱいに抱いている。このため住民たちは、昼夜を分たず家畜の世話をするばかりでなく、病気にかかる事も心配して、予防注射を何よりも徹底して行なっている。そして、養豚業の基本である優良子豚を生産するために飼料会社が経営する養豚場から種空豚と種母豚を購入して、獣医の手によって交配させており、また、「肥料を購入する時には、飼料会社に前もってお願いをして購入し、決して価格が安い物に固執はしない」と農場全体の暮らし向きを見ている組合長のイ・ドンチヤン代表は語る。
しかし、それくらい熱心に畜産業をしていても、現在の農場規模や畜産規模には不充分さを感じていて、これに対する対策作りに頭を痛めているのが実情だ。
現在、農場には大学生三名を含めて、中・高生四十余名がいるが、彼等に対する父母たちの熱意は大変な物である。しかし、一つ心配な点は卒業した後の就職問題である。父母たちは社会に根を下ろして生きてくれる事を期待しているが、その希望通りになるかとても心配だという。新村農場では村人と学生たちとの情緒の交流にも関心を傾けており、図書館を建てて七百余冊の各種書籍、童話、教養に関する本を保管して、学生と村人がいつでも図書館を気軽に利用できるように開放している。
最近では国家の方でも福祉国家政策を指向しているが、これまで不遇な人生を送って釆た定着村の老人たちに養老院を建ててあげる事業は早急に行なわなければならないと思う。農場には現在三十五名の養老対象者がいるが、彼等には頼るべき施設がないため大きな困難に接している。幸い農場発展のために働いているイ・ドンチャン代表が韓国キリスト教救癩協会との接触を根気強く続けているため、近々良い結果が訪れるものと期待している。
誠実に生きる姿勢を一貫して保って来た二十余年の歳月は、決して平坦な道ではなかったが、忍耐によって問題を克服し、未来へ向かって日々跳躍している新村農場にこれからも無限の発展がある事を祈りながら新村農場の紹介を終える。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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