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飛龍農場

平和な生の土壌 飛龍農場

湖南平野を基点として飛躍的な発展の道を固めた全州市とイリ市.そして、その二つの都市に挟まれた金堤邑に飛龍農場は立っている。
広々とした田畑がとどまる所を知らず広がっている湖南平野の一角に、ちょこちょこと集まっている粗雑な畜舎群がいかにも弱々しく見えるが、この村には真の祝福と平和が漲っている。

*飛龍農場の始まり
一九六一年十二月三十日。冷たい吹雪が吹き付ける中、国立益山病院を出発した百二十三世帯、二百四十六名の人々は、手にハーハーと息を吹き掛けながら、日常生活をする上でこれといって大した助けにもならないような引っ越し荷物を抱えて歩いていた。
しかし、彼等にとってこの地に定着するという事は、ちょうど新しい大地に放たれた鳥が自由で広々とした世の中に迎かって飛びたって行くような気分だった。ハンセン氏病という束縛を脱して、今や治癒者という新しいメダルを首にかけられた彼等は、あふれるような希望に心を弾ませながら未来の設計図を描いて行った。
当時の革命政府(五・一六軍事クーデター後、設立された新政府)は、彼等に部屋一つ、台所一
つの家を建ててあげた。見知らぬ土地ではあったものの、彼等は当局からの配慮によって、これから新しい人生を歩んで行けるんだという期待感で胸を膨らませた。
財産といっても、中古の自転車と光石ラジオを持っている人が一番の金持ちで、大部分の人々は朝、麦飯を食べ、昼と夜には小麦粉の粥をすすって命を延ばして行くしかないような境遇だった。このような極貧の生活の中でも、彼等は熱心に生きようと努力をした。そしてその時、幸いだったのは、彼等には確実な生活を送って行ける元手があった事だ。
毎日、明け方になると全村民が心を一つにして神様の前に立って礼拝をするという生活を通して、時々困難にぶつかってもそれを上手に乗り越えて生きて行く事ができた。清教徒たちがその当時、未知の世界と呼ばれたアメリカ大陸に上陸して生きて行った時のような新鮮な心を持って、彼等は畑を耕し始めた。
一九六二年一月六日.村の前にある広場で、彼等は白く光った霜柱を踏みながら寒さも忘れて、シオンの栄光が輝く朝として始まる賛美歌を歌った。生きるための土壌を取り備える前に、まず自分たちの信仰を支える教会を建てようと神様に祈りを捧げたのだ。

*教会の成長
定着当初は村人が集まって礼拝をするにしても、五十余名くらいしかおらず、その数は見るからに貧弱に思われたが、しかし、信仰のカに頼らなければ正しく生きて行けないという強い考え方に導かれて、一九六四年に二十二坪の礼拝堂が作り上げられた。当時は新岩農場と同じ所に定着していたため、教会も協同で建て、何事も一緒に生活していた。そして、互いに厚い友誼を交しながら日ごとに教会を発展させて行った。一九七二年には八十余坪の礼拝堂を建て、一九八四年には百十三坪で三階建ての教育館を新築した。このように成長を重ねた新岩教会は、現在二百三十余名が礼拝をする大教会へと成長し、その一年の予算は三千五百方ウォンになるという。一九七二年、それまで共に信仰生活をして来た飛龍農場と新岩農場は、両村の合意によって行政区域を分離させ、別の体系を立てたが、彼等が涙を流しながら作り上げた新岩教会とは互いに共有して行く事にした。今はそれぞれ別の場所で暮らしていても、同じ一つの教会に仕えながら生きて行く彼等は、教会の成長とともに村の経済規横も大きくして行った。

*カを持て余した農地開墾
当初、彼等に与えられた自活用地は、決して小さな物ではなかった。道有地、国有地を含めて、一世帯当たり二千五百坪の林野を自活用地として分配されていたにもかかわらず、その一方で伐採許可が下りず、直接的な所有権も持ってなかったため開墾する作業は容易な事ではなかった。しかし、彼等は何でもいいから畑を耕して所得を得られればよいと思い、夜中に林野を伐採をしては土地を広げ、穀物を植えて行った。
このような根気強い生捕を送ったあげく、一九八一年になってようやく道有他の払い下げを個人別に受けたため所有権を移転したのだけれど、国有地は今だに払い下げを受けられないままでいる。彼等は開墾した土地の上に、初めはジャガイモやトウガラシなどの野菜を植えて生計を維持していたが、最近では畜舎を建てて家畜を育て、高い所得を得るようになった。飛龍農場が有利な点は他の地域に比べて多くの土地を保有しているという事だが、今だに国有地の払い下げを受けられずにいるため、投資意欲もだんだん冷めて行っているのが現状だ。

*急成長している畜産
定着村としては最も早く出発して今日まで熱心に働きながら所得を高めて来た飛龍農場だが、都市の近郊にある農場と比べて経済力が劣っている原因は、最近に至るまで農業を生業とする生活を営んでいたためである。
「飛龍有畜農園」という名前で始めて、これまで農業と小規模畜産に多くのカを注いで来たが、都市の近郊にある農場に遅れをとった。このような農業を生業とした生活から脱皮したのは、わずか十余年前の事で、現在では畜産業へ完全に転換をしている。指導者たちは既に大きく発展した農場を見て回りながら学んだ農業方法と体系化された技術によって、広い土地に大規模畜舎を建て、序々にその規模を伸ばしている。
しかし、その一方で今だに規模の拡大に繋がらない経営を行なっているため、改善しなければならない問題点もたくさん抱えている。例えば、飼料管理能力の不足と防疫の不備などが、内的な問題として指摘されており、また、生産された畜産物の流通体系と飼料購入上の問題も至急改善して行かなければならない問題として提起されている。一線に立った指導者たちがそれなりに努力をして多角的な研究もしているが、何よりも全村民の自発的な協力が何よりも求められている。
また、現在の経済規模では不可能だが、畜産廃水処理施設の整備も至急求められている課題である。大部分の近隣地域では稲作農業が行なわれているが、そこに発酵していない青葉が入り込んでいるため、住民たちが直接、間接の被害を訴えて来ており、このままでは今後、不和の要因として発展する危険性も内包している。

*住民たちの高い教育熱
飛龍農場の元老指導者であるイ・ワンス長老は、「子女が多く村人の教育熱が高ければ、それは他
の農場に比べて農土が広い事を意味するのだ」と語っている。現在、村には定着と同時に出生した子供が相当にたくさんいるが、その大部分は飛龍小学校に通っている。そして、その百パーセントが上の学校に進学しているという。しかし、今だにこの飛龍小学校は定着村の二世だけが行く学校と思われていて、内部的には多くの問題を抱えている点も指摘されている。
現在、飛龍小学校には飛龍農場の他に、隣接する新興農場と新岩農場の児童も通っており、全体
の児童数は百二十名に達するという。しかし、特殊学校の性格を帯びている飛龍小学校は、近隣住民の子女たちとは一緒に通えないばかりか、ハンセン氏病に対する偏見もまだ彼等の心に残っているようであり残念な限りだ。特に、子供たちを育てる教師の大部分が高齢層で、新鮮さを失っているばかりでなく、教師の中には特殊学校という事で、昇給のための階段と考える旧態依然たる思考があると不快感を表わす父兄たちもいる。しかし、このような不合理な条件の中でも、飛龍農園だけで七十六世帯中、二十五名の大学生がいて、彼等の中にはドイツやフランスに留学した青年たちもいれば、学校を卒業してから有名会社に就職し、中堅社員として働いている人もいるという。このように見て来ると、目覚ましい就学率は教育熱が高い父母たちの切なる願いから始まったようだ。今でも特殊学校の性格を帯びているという事で、心の一角には物寂しさと口憎しさとがあるようだが、飛龍小学校のために住民たちが物心両面において注いで来た真心は、他では容易に目にする事ができないほど熱い物であると評価されている。
また、その彼等の教育熱を高く買って、支援活動を始めたのが韓国キリスト教宣明会である。一九七二年から一九八四年までの十二年間、飛龍農場は韓国キリスト教宣明会の後援を受けて来たが、これが子女たちを教育する上で大変に大きなカとなったばかりではなく、養蚕、養豚、養鶏のための物質的な支援の方も相当に大きなカとなった事は確かである。

*福祉施設と老後対策
ここに定着してから今年で二十七年目を迎えた飛龍農場の人々は、定着当時は四十代前半の年齢であったため意欲的に仕事に打ち込んで来たが、彼等の中には貧弱な住居施設と日帝時代に病院生活の中で強制的に受けた不妊手術のために、精神的な寄り所さえなく虚脱と孤独の中で生きている老人たちも多い。
幸いにも韓国キリスト教救癩会の協力と世界宗教者平和会議・日本委員会(WCRP) の支援によって、一九八六年、夫婦舎二棟(十世帯入居)が建て、られ、去る十一月には再び二棟が建設されて、全部で二十世帯が入居できるようになった。しかし、残念なのは養老施設を運営して行くための予算上の裏付けがない事で、今後それが大きな問題となるものと予想される。
飛龍農場の代表者であるキム・ジェヨル氏は、「入居者全員のための生活対策がほとんど立てられていないのが実情だ」と言い、「施設は外国からの支援で得たのだから、これからは当局の支援が必要な時である」として、直接的な支援を政府に期待している。
また、飛龍農場ではこれまで診療施設が充分に備わっていなかったため、村人の健康管理が難しく、救急患者が出ても治療をしてあげる場所ないという困難を経ていたので、去る十一月二十九日、二千二百余万ウォンの予算をかけて診療所が建てられたのだが、施設問題に関して言えば今でも不充分な点がまだ多いように見うけられる。

*国民たちの宿願事業
また、現在、飛能農園が抱えている最も難しい問題の一つとして、交通問題を上げる人もいる。村の福祉施設はある程度備わっているが、子供たちの通学と畜産物の搬入、搬出のためには、既存の道路網では大きな困難が伴っているので、これに対する対策が切実に求められているというのだ。
飛龍農場が位置的に一見ると、イリ市、全州市、金堤邑の中間地点にあって、産物の消費においては特に大きな心配がないのだが、村を基点とした八km程が傾が狭い舗装道路であるため、ここを通行する車両が大きな不便を味わっている。このような道路捕装の拡張は、自分たちだけでは解決する事ができない問題なため、これまで当局に数回にわたって建議をして協議も行なって来たが、今だに実現の目処が立っておらず、畜産物の価格の方も定価を受けられない状態が続いている。
いろいろと苦難を乗り越えながら自立への道を歩んでいる飛龍農場であるが、それでも最初にこの土地を踏みしめた時のうら寂しさとは打って変わって、現在では大きく発展して行っているに思われる。宿願である道路鋪装と畜産物の系統出荷、そして飼料購入などの内実化を今後とも図って行くな
らば、どこにも引けを取らない自立村として成長し、遠からずエデンの園のような平和な福祉村となるものと信じている。そして、これからも飛龍農場が相互協力を通して真の喜びが広がって行くように祈る。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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