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新興農場

金堤平野の先駆者 新興農場

*穀倉、金堤平野
ヨンサン原から始まる湖南平野は萬頃川まで続いているが、その萬頃川をはさんで広がっている金堤平野は既に千余年前から科学的な営農が試みられている地域として有名である。そして、千余年前に関係施一設を構えて農業をしていたという痕跡が、今でも完全な形で残っているのが碧骨堤である。これを見ると農業を天下之大本と考えて生きて来た我が先祖が、広い金堤平野に種を蒔いて耕したのは至極当然な事と思われて来る。しかし、山間の僻地に分け入って土地を手に入れ、これを守り通さなければならなかったハンセン氏病治癒者たちがあえてこの地に定着したというのは、他の事例と比べて少し趣きを異にしていると言える。
今から三十五年前の一九五二年五月十五日。三十余世帯が金堤郡・龍池面・龍水里に定着してからソンエ園(新興農園の旧名)の歴史は始まった。六・二五動乱(朝鮮戦争)の混乱の中で、流浪に近いような悲惨な生活を送らなければならなかった彼等は、近隣地域に住む住民たちから必死の反対を受けながらも、キム・ヨンベ氏を中心として天幕を張り、独立した生活のための挑戦を行ない始めた。
戦乱によって荒廃し切った農地と麻痺した経済生活は彼等をさらに苦境へと追いやったが、何が何でも生きてやるぞという意志の前に神様さえもついに屈服するに至った。

*戦乱後の惨憺たる生活
千辛万苦の末に定着の基盤を固めた彼等は、一九五五年になってソンエ園という私設療養所として道当局に登録され、わずかだが生活費の支援を受け始めた。一日三度の飯を食べて行くのもままならないような支援だったが、それによって彼等は生の安息を得たという喜びを抱くようになった。当時はまだハンセン氏病退治のための対策や治癒方法がはっきりとわからなかった時期であったので、ソンエ園へ行くと生活できるという噂を聞いた人々があちこちから集まって来て、一時は五百七十余名という大所帯になったりもした。
そのような混乱の中で、四・一九革命や五・一六軍事クーデターが起こり、軍政の下でハンセン氏病退治に対する基本方針が建てられると、予算が編成され、各地に療養施設が作られるようになった。そして、そのように治療事業が活発に展開され始めると、たくさんの人々が縁故地を訪ねるようになり、ここの人数もだんだんと減って行った。一九六〇年代の初めに至ると、戦乱と政局の不安定のため安定基盤がひどく揺らいでいた一九五〇年代の状況を抜け出し、社会も序々に安定を取り戻して行き、当局でもハンセン氏病に対する効果的な対策を立て始るようになった。一九六三年七月二日にはソンエ園も、仁川の清川農場、慶州の希望農場などと共に現地定着形態になった。これによってハンセン氏病が治癒し、正常な生活を送って行ける人々だけが残る事となり、陽性患者は一斉に国立療養施設に送られた。現地に定着した事で彼等はそれまで失っていた意欲を取り戻し、村の名称もソンエ園から新興農園に変更し、新しい決意を抱いて与えられた土地を開拓して行った。

*宗教上の葛藤を乗り越え単一教会へ
しかし、慣れない農業生活が初めから成功をもたらすはずはなかった。失敗と挫折が心身を物寂しくしたが、穀物を植えて収穫するという農業にはウソがない、という新しい事実を身をもって知った彼等は、失望をせずに強い信念を持って田畑を耕しながら所得源を得るために弛まない努力をして行った。疲れて苦しい日も多かったが、努力した代価として産物を収穫する喜びは、何物にも代えられない誇るべき宝だった。彼等は絶望の中から新しい人生を与えてくれた神様に対していつも祈りを捧げ、常に真実を求めようとする信仰生活が自分たちの生活の基本となっている。
今日に至るまでには新旧キリスト教間の激しい葛藤が生じて、信仰生活に大きな試練がもたらされた事もあったが、誠実と勤勉によって常に熱心に生きて行く彼等に対して、神様はいつも正しく立ち上がれるように道を示して下さった。一九五九年、三十余坪の木造建物を建てて神様の前に献堂をし、キム・ナム長老(現在、益山農場に居住)の引導によって毎日のように感謝の礼拝を捧げる喜びを手にした。この神様の恩恵に対して常に感謝するという心を彼等がいつも持っていたため、三十余年が過ぎてた今でも単一の教会に仕えながら全村民が祝福された生活を送る事ができるのであろう。この信仰生活を通した愛と奉仕こそが、新興農園を飛躍的に発展させて行くための大きな契機となった事を誰も否認しはしない。
また、一九七四年には当局の施策に先立ってセマウル事業を展開し、それまで中小都市でも不可能だった上水道施設の整備と村の道路捕装を行ない、そのために近隣の村から妬まれた事もあった。その時はまだ生活の貧しさを追放するまでには至らなかったが、政府の工業振興政策も農村地域の発展を都市と均等に引っ張っては行けなかった.そして、まもなく農産物価格の不安定と生産費用の増大が農村経済を暗くするという事実に直面した彼等は、村の代表者であるオ・ジョンハ長老を中心として新しい対策を立て始めた。

*畜産業の導入で跳躍期を迎える
新興農場は一九八〇年代に入ると、既に他の定着村が始めていた畜産業を導入し、これによって経済的な跳躍期に入った。野菜を栽培した畑を整理して畜舎を建築し、ヒヨコを買い入れて、本格的な飼育をし始めた。近隣地域の住民たちはこの変化に否定的な視線を送っていたが、彼等はこれを気にとめないで、さらに熱心に情熱を込めて働いて行った。
その結果、今日に至って三十万匹の養鶏団地を有する程の飛輝的な発展を遂げるまでに至った。農業から畜産業への転換は多くの困難をもたらしもしたが、わずか数年で近隣部落を経済的に追い抜くという奇跡を引き起こすに至った。今や新興農園は畜産業の拡大によって安定基盤を築いた。畜産物市勢の不安定な状態は相変らず続いているが、自分たちなりに対策を立てて今後も自続的な発展をして行こうという固い意志だけは折れていない。
また、一般の人達の冷遇と貧困からの解放は、彼等の心に新しい時代を生きて行くという自信感を植えつけさせた。以前は往来をはばかっていた近隣地域の住民たちも、今では自由に村を行き来して彼等の成功談を聞きながら、畜産技術を習う事に余念がない。「経済的優位の確保と安定だけがハンセン氏病を退治し、人権を回復する事ができる」と言ったある老学者の主張が現実のものとされたのだ。
彼等はさらにより良い明日を建設して行くために、住民福祉施設を増やして行っている。一九入四年、日本キリスト教救痴協会の協力によって老人福祉院一、二号舎を建てて以来、オ・ジョンファ長老の幅広い活動で三、四号舎を続けて竣工し、また、付帯施設である会館も建設して、完璧な老後対策を備えるに至った。

*青年たちの誠実なな努力が必要
経済力の安定と完璧な福祉施設、そして伸びやかな文化生活を求める新興農園の将来は明るく見える。しかし、その一方で何人かの元老たちの間で、若者たちの安逸無事な生活観を心配する声もささやかれている。困難な環境の中で自立の意志を増って来た既存世代たちとは違い、比較的豊かな環境の中で育った青年たちの安逸な生活観と軟弱さが、発展を阻害する要因になりはしないかと心配になるのだ。
一時、畜産業で先を歩んでいた新興農場が、最近に至っては大規模施設を使って事業を行なう養鶏家たちによって、その優位を奪われて行っている。これに年をとった老人たちが特に残念がっているのだが、本人たちの労働力では競争するのも難しいため、若い層がもっと大きな抱負を抱いて、いつも先頭に立って努力してくれる事を願っているのだが、その期待に及ばないのが実情だという。畜産ではない他の業種へと転換し、より高い収入を上げられる方法があるならば、ぜひそれを行ないたいものである。
また、もう一つ問題となっているのは、子供たちの初等教育を担当している飛龍小学校の教育方法があまりにも安易だという声である。新興、飛龍、新岩など、三つの農場の子供たちが通っている飛龍小学校には、現在百三十余名の児童がいるが、道教育庁の不合理な人事制度のため、学校の雰囲気を改められないという。父母たちは新しい学問を身につけた若い教師が赴任して来て、時代感覚に合った教育をしてくれる事を願っているが、制度的な人事規定にからまれて、新任教師たちの赴任が許されておらず、いつも他の地域の学校と比べて教育水準が低いというのが悩みである。

*飛龍小学校の問題
若くて有能な教師の赴任を強く願つている三つの農場の住民たちは、いろいろと可能な方法を探ってみてはいるのだが今までこれといった成果を侍られずに過ごして来たという。もちろん、現職の教師たちもしっかりとした指導観を持った立派な人々なのだが、若くはつらつとした教育風土を願う彼等の要求もぜひ認められる事を求めたい。
九十三世帯、三百八十三名の住民たちが仲睦まじく暮らしている新興農場が、幾つかの不合理な点を解決して、国内第一の高所得の村へと発展して行く事を願いながら、それまで培って来た誠実な信仰心を基にして、あらゆる面で一つになれるような幸福な農場となって行く事を祈る。

[原典:「韓星」(韓星協同会発行)、日本語原典:「灯の村」菊池義弘/訳・編]

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